読書礼讃

  • 白水社
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  • Amazon.co.jp ・本 (444ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784560083574

感想・レビュー・書評

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  • 著者マングェルは、ホルヘ・ルイス・ボルヘスやアドルフォ・ビオイ= カサーレス等ラ・プラタ幻想派のすぐ傍にいて、盲目のボルヘスに本を読み聞かせていた男。いわばバベルの図書館の音声ガイドである。ペロン政権下でイスラエル駐在アルゼンチン大使の息子として生まれ、テルアビブで幼少期を送り、アルゼンチンに帰国するも、軍事政権時代にパリに移住。そのまま残れば、弾圧に屈するか、処刑されるかという厳しい選択を迫られての結果であろう。

    フリオ・コルタサルもそうだが、故国が圧政下にあるときフランスに逃れていた事実は、後の仕事に色濃く影を落とす。小さい頃の読書体験やボルヘスとの思い出など、読書をめぐる心あたたまる話の間に、過って挟まった小石のように、政治的な話題が顔をのぞかせる。特に、マリオ・バルガス= リョサが、アルゼンチンにおけるかつての指導者の犯した罪に対して現指導者が発した恩赦を擁護した発言に対する批判(第七章「罪と罰」所収)は、容赦がない。

    政治嫌いを広言して憚らないボルヘスの傍に長くいて影響を受けたのかもしれないが、マングェルは「穏健なアナキスト」を自称するように、政治信条や思想に対する過激な発言は少ない。他の作家についても皮肉の衣を塗した揶揄はしばしば見せるものの、正面切っての批判は自ら封じているように見える。それだけに、マリオ・バルガス= リョサの発言に対する剥きだしの反駁には意表をつかれた。政治的弾圧によって殺された友人たちに対する自責の念が、落選したとはいえ、大統領選に出馬したノーベル賞作家の、文学者というよりも政治家としての顔の露骨な発現を赦せなかったのだろうか。

    読書一般に関するエッセイ集だから、前作『図書館 愛書家の楽園』と重なる話題も多く、前作の読者なら、ああ、それ前も聞いたよ、という感想を持つかもしれない。ただ、前作が図書館という主題に限ったエッセイであったのに比べると、本作は、より著者アルベルト・マングェル個人に寄り添った話題を多く集めているようだ。数多くのエッセイを鳥瞰すると、そこに著者の読書人生が浮かび上がってくるという仕掛になっている。諸国放浪と『聖書』はもとより『ドン・キホーテ』や『イリアス』、『オデュッセイア』といった古典にはじまる浩瀚な読書体験に裏打ちされた豊かな読書人生。

    なかには特に読書に関係なく、カーナビー・ストリートで自作のベルトを売っていたらミック・ジャガーの目に留まり、コンサートで使ってもらえたという幸運なエピソードなどもまじる。肩までかかる長髪に、パリのクリニャンクールの蚤の市で買った木綿のシャツの下には真っ赤なベルボトムのパンツという出で立ちで英仏間を往き来し、税関で歯磨きチューブの中までチェックを受けた経緯も当時の時代を思い出させて懐かしい。大使令息という特権を行使しようとしてイギリスの官僚主義にこっぴどくやり込められる顛末も、透けて見える階級意識を自分を道化にすることで、うまく切り抜けている。

    仕掛けといえば、すべての章と文章の前に『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』から引かれたエピグラフが付されていて、これが実によく出来ている。エピグラフなのだから、エッセイの主題と関連しているのは当然なのだが、すべてを『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』二作からの引用でまとめて見せる手腕に、ほとほと感心した。ルイス・キャロルは著者の愛読書だというが、暗記できるほど読んでいなければできない芸当である。読書や図書館についてのエッセイを自分の主戦場にするからには、これくらいのキャパシティがいるのだな、とあらためて思い知らされた。

    「みずからが国家の法律に背くような政府は犯罪者を正しく裁くことはできない。個人的な正義感、復讐心、欲望、ましてや個人の倫理観だけで裁きを下してはいけない。国民一人ひとりの個人的な行為を含め、すべてを国の憲法の規定に従わせるべきである。法をもって法を施行し、法律の文言から逸脱してはいけない。法の限界を超えたとき、政府はもはや政府とはいえず、権力の簒奪者でしかない。そして、そのような存在として裁かれるべきである。」

    マリオ・バルガス= リョサの発言について触れた文章の中からの引用である。オーデンは「詩はなにごとも引き起こさない」と言ったそうだが、著者はそうは思わない。わたしもそうは思わない。ことはアルゼンチンやペルーに収まらない。現今のこの国にあって、引用文は警告として響く。時によらず、国や民族を選ばず、なされた読書は世の中を正しく見る目を養ってくれることを疑わない。リア王は言う。「われわれは、神のスパイのように、この世の秘密を引き受けよう。壁に囲まれた牢獄のなかで、月のように満ちては欠ける権力者たちの勢力の消長を眺めるとしよう」と。シェイクスピアの、ホラティウスの言葉がいちいち心に響く。この「神のスパイ」たちの言葉に、今こそ耳を傾けるときだ。

  • 一年以上積読していたのをようやく読み切った。著者は、蔵書三万冊に囲まれて暮らしている、知識豊富なアルゼンチン人。自身の読書体験をふり返りながら、「読書とは」をテーマに語りつくす。“最良の読書体験に導かれて、人は内省を深め、疑問を抱くようになる。そして内省と疑問は反抗と変化への希求につながりかねない。どんな社会でも、それは危険な企てである。”という文章が気に入った。著者のように、言葉のもつ力を信じ、周りの評価や美辞麗句に惑わされず、「思索」できる本をこれからも読み続けたいな。

    ・著者経歴→アルゼンチンのブエノスアイレス生まれのユダヤ人。父はアルゼンチン大使。高校時代の国語教師に恵まれ文学好きに。大学に進学するも中退。軍事政権下のアルゼンチンを飛び出し、約14年間ヨーロッパを放浪。一時は路上でベルト売りをするような生活だったが、ある出来事がきっかけで、四十歳のときに作家になるという選択肢を見据えた。
    ・ユダヤ人について→偏見を持つ人がいる。現代ユダヤ人にとって、ホロコーストは馴染み薄い(私たちにとっての第二次世界大戦のように)。
    ・ホルヘ・ルイス・ボルヘス→ブエノスアイレスの小説家。幻想的な小説を多く生み出した。
    ・三世紀、詩人カリマコスがアレクサンドリア図書館で分類に取り組んだ。ただし書物にはいくつもの面を持つ(『ガリバー旅行記』は年代記であり社会風刺であり児童文学でもある)→ゲイ文学→ドラマや映画、日常に異性愛の物語はあふれているが、同性愛を教えてくれるものは少ない。同性愛者は孤独な青年時代を送る。ゲイ文学は貴重な情報源。もちろん、国によってはいまも同性愛者に対する罰がある...
    ・言葉が現実の苦境を変えたり苦痛を取り除いたりすることはできないだろう。でも、まさにその言葉を求めていた読者にとっては慰めとなり、ひらめきを与え、幸せへの道が開ける。
    ・わたしたちも盲目にならねばならないときがある。それは、周囲に満ちあふれる華やかさである。理解しやすい物語、易しく単純な物語につい手を伸ばしそうになるけれど、もっと思索にふけることのできる本を、内省したり、未知の自分にたどり着けるような本を。
    ・読書とは言葉によって与えられる物語だけではない。それについて思索し、語り直すことだ。
    ・同じ物語を読んでも、考え方や経験や解釈の仕方によって感想は変わる。
    ・1969年から14年間、アルゼンチンは独裁政権による恐怖政治の時代だった。著者は大学を中退し、ヨーロッパを放浪。高校時代の友人たちや友人の兄弟が射殺されたり誘拐されたりした。自殺者もいた。軍事独裁時代の行方不明者は何千人にものぼる。1973年から82年のあいだにアルゼンチンでは3万人以上が殺されたともいわれる。
    ・ユダヤ人について、アルゼンチンの政治について、イリアスやオデュッセイア、ドン・キホーテなど有名でも読んだことのない本の話がたくさん出てくる→それが次の読書につながる→本の最後のページが別の本の最初のページである。
    ・その場その場にふさわしい本があることを、読書好きなら知っている。
    ・自分に文学というものを教えてくれた元教師の話が実は密告者だった。生徒の情報を流していた。拷問されると知りながら。①裏切りの人物②見なかったことにする③二面性を受け入れる。
    ・誰もがみな、自分だけの図書室を持っている。

    p10
    誰もがよく知っているとおり、物語は私たちの経験の反響であり、また経験を予測させるものでもあり、けっして自分のものにはならなかった経験を語るものでもある。

    「同じ本を二度同じように読むことはできない」

    p26
    さまざまな不安と恐怖のなかで、喪失や変化に脅かされ、内憂外患の苦労を背負い、ささやかな慰めさえ得られないとき、本を読む人びとは、少なくとも、すぐそこに安全な場所があると知っている。

    p35
    独裁政権下のアルゼンチンを脱出した一人の友人から、高校時代の教師の一人-私が文学への愛を育むのに大切な役割を負っていた先生-が自分の教え子たちを軍事警察に売り渡していたという話を聞いたのだ。逮捕されれば、拷問を受け、ときには殺されると知っていながら、カフカやレイ・ブラッドベリ、それにポリュクセネーの死について語ってくれた教師だ。
    このことを知ってから、私は彼の教えの価値を否定すべきか、それとも彼がしたことの罪に目をつぶるべきか、はたまた(とても無理だと思ったが)その二つが同じ人間のうちに共存するという恐ろしい矛盾を受け入れるべきかを決められずに取り残された。この問いかけにはっきりした形を与えるために、私は『異国からの知らせ』という小説を書いた。
    私の聞いたかぎりでは、ほとんどの作家はごく若いときから、自分が文章を書くであろうことに気づいている。外界へのなんらかの反応、他人から見た彼らの姿、日常のものことに言葉を与えて自分自身を表現するやり方、その何かによって、自分が生まれながらの作家であることを知る。ほかの子供たちが、おのずと獣医やパイロットになろうと思うのに似ている。その仕事のために選ばれた存在であり、大人になったときには自分の名前が本の表紙に印刷されるだろうということを確信させる何かがある。それは巡礼者のしるしのようなものだ。私の場合、その何かは、自分が読者であると教えていた。亡命してきた友人と会ったのは一九八八年のことだった。つまり、作家になるという選択肢をはっきりと見据えたのは四十歳のときだった。四十歳は変化のときである。それまでに溜めこんだものを一切合切あとに残し、身になじんだ慣習を捨て去り、暗闇のなかで荷物をまとめ、闇のなかに潜んだ力と向きあうべきときなのだ。

    p37
    「よい本を書くには三つの法則がある」とサマセット・モームはいった。「残念ながら、誰もその法則を知らない」

    p39
    G・K・チェスタトンはあるエッセイでこう述べている。「どんな本でも、一冊の本がそのためだけに書かれたと思わせるいくつかの言葉がある」。すべての読者は心から愛する本のなかにその言葉を見つけられるのではないだろうか。

    p92
    ボルヘスの作品では、場所やものと同じように、登場人物もすべてを包含する存在となりうる。ボルヘスの愛読したサー・トマス・ブラウンはつねづねこういっていた。「どんな人も、その人だけの存在ではない。これまで大勢のディオゲネスが生きてきたし、同じくらい大勢のティモンがいたが、名前が残るのはごく少数である。人は何度も生きなおす。いまのこの世界は、過ぎ去った時代の世界と同じだ。過去に同じ人間がいたわけではないが、同じような人間はつねに存在した。その人間の本質はいまも昔も変わら図、何度もよみがえる」。

    p98
    私は他人の読解に頼りすぎないようにしている。その解釈がいかにすぐれていても、それはその人の自己を反映したものだ。ボルヘスがはっきりと述べているように、読者には何を選び、何を捨てるかの自由がある。本はすべての読者にとってつねに鏡になるとはかぎらない。

    p115
    ある作者によって書かれたテクストは、読者がそれを別の作者によるものと思って読んだときには別のものになってしまう。

    p117
    ウンベルト・エーコが『薔薇の名前』を書くには、その前に『バベルの図書館』(そして、ホルヘ・ダ・ブルゴスという名のボルヘス自身)が存在しなければならなかった。

    p145
    おそらくそれと同じように、読者も-ポジティブな意味での-目の見えない状態を獲得しなければならない。世界の物事を見ないのではなく、ましてや世界そのものに目をつぶるのではなく、また日常のなかに垣間見る喜びと恐れから目をそらすのでもない。盲目となるべきは、私たちの周囲に満ちあふれる表面的なきらめきと華やかさである。私たちは自分を中心とした一点にまっすぐ立っている。そして、立っているその場所は、足元であるがゆえに、私たちの目には見えない。私たちは自分が世界の中心だと信じこみ、すべてが自分のために存在すると思ってしまう。貪欲な目で、私たちはすべてが自分のためにつくられたものであってほしいと願う。語られる物語さえも。それらの物語が自分より大きいものであってはならず、また私たちを内省に誘うような、未知の自分に気づかせるような精妙なものであってはならず、むしろごく底の浅い冒険や、簡単に追いかけられて、心になんのさざなみも立てずに理解できる、やさしい物語でなければならない。私たちに与えられるのは、サイズも色も一律の決まりきった本である。業界はそれを読者に薦め、これなら心配なく楽しむことができ、深い思索とは無縁の感想が抱けるという。そこでは、野心的で利己的で薄っぺらな出来合いの単純なストーリーが語られる。それは、何かを諦めることさえなく、あっさり手に入るものでしかない。


    p151
    この大きな矛盾こそ、セルバンテスが読者に示そうとしたものだった。たとえこの世が不公正でも、正義はあらねばならない。悪しき行ないをそのまま容認してはならない。たとえ、そのあとにもっと悪い事態が来るとしても。

    p163
    読者を魅了するすべての本は倫理的な問題をつきつける。こういってもいい。本のページの表面をなぞるだけでなく、深いところまで掘り下げることができた読者は、その深みから倫理的な問いかけを持って帰ってくる。その問いかけは作者が多くの言葉を費やしていないことも多い。にもかかわらず、暗にほのめかされただけのその問いは、読者の感情を揺さぶり、胸騒ぎを感じさせ、あるいはただ、はるか昔の記憶を呼び覚ます。この化学変化を通じて、文学作品はある意味ですべてがメタファーとなる。

    p168
    世界が理不尽なものになり、昼と夜が恐ろしいテロ行為とそれに怯える人びとで満たされるとき、途方に暮れ、とまどいながら立ちすくむとき、私たちは理解できる(または理解できると思える)場所を言葉のなかに求める。
    (中略)
    このすべてを意識しつつ、私たちは真理にも気づく。つまり、暴力は暴力を生むこと、あらゆる権力は濫用されること、あらゆる類の狂信は理性の敵であること、たとえ不正の打倒をうたっていてもプロパガンダはあくまでもプロパガンダにすぎないこと、戦争に栄光を見るのは、神が大軍の側に味方すると信じる勝者だけだということも私たちは知っている。だからこそ、人は本を読む。だからこそ、暗い時代に生きるとき、人は本に戻ってゆく。自分がすでに知っているものについての言葉と比喩を見出すために。

    p175
    ピリオドがなければ若きウェルテルの悩みは尽きず、ホビットの旅はいつまでも終わらない。

    p188
    ページという制限のなかにおかれた言葉によって与えられる物語ではなく、その物語についての思索、読者であるモンテーニュがそのスペースを使って思いめぐらし、語りなおしたものこそが「心理の探求」なのだ。ページの余白はそのために用意された空間なのである。

    p189
    十八世紀のハシディズムの偉大なラビであるベルディチェフのレヴィ・イツハク師は、バビロニア・タルムードにかんする論文のどれも一ページめが欠けていて、二ページめから読むようになっていることについて説明した。「研究熱心な者がどれほど多くのページを読破しようと、最初のページにすらまだたどり着いていないことを心に明記させるためである」。つまり、神の言葉についての論評は、紙に書かれた論文であれ、読者の心のなかであれ、予測不可能な始まりなど存在しない。最初のページの欠落によって、神の言葉を説明し尽くすのは不可能だということが示されているのだった。

    p241
    教科書を丸暗記するだけだったコッローディの時代、指先の動きひとつでほとんど無限に思える潤沢な情報が入手できる時代、そのどちらにおいても、表面的な読み方を身につけることは比較的簡単だ。テレビの連続ドラマを楽しみ、広告のジョークに笑い、政治的なスローガンを読み、コンピューターを使えるようにはなるだろう。だが、その先、もっと深いところまで踏みこんで、自分の恐れと疑いと隠された秘密を直視する勇気をもち、自分自身と世界について考えたうえで社会のあり方に疑問を呈し、本当に考えることを学ぼうとするなら、たんに文字の表面上の意味を読みとるだけではなく、まったく別の読み方を習得する必要がある。

    p243
    想像することは障壁を壊すことであり、限界をものともせず押しつけられた世界観をくつがえすことである。

    (前略)社会のあらゆる危機はつねに想像力の危機である

    p245
    庭園と読書は昔から関連づけられてきた。一二五〇年、アミアン大聖堂の尚書係リシャール・ド・フルニヴァルは、園芸を手本にした書物分類法を考えだした。彼は自分の図書室を、市民たちが集って「知識の実」を詰む果樹園になぞらえた。三つに分かれた花壇=区画は、書物における三つの重要な主題-哲学、いわゆる応用科学、神学-に対応している。それぞれの区画は、さらに小さな部分(小室)に分けられ、本の主題についての要約がある。フルニヴァルは、庭園と図書室はどちらも「育てる」ことが大事だといった。
    フランス語の動詞cultiverに、庭園を育てることと教養を身につけることの二つの意味があるのも驚くにはあたらない。庭の手入れをすることと、蔵書に気を配ることはともにcultiverという言葉であらわされる。どちらも情熱を傾け、忍耐づよく、一貫性を保ち、秩序立てて取り組まなければいけない。cultiverとは、表面上は混沌として見える自然や図書館に隠された法則を探りだし、その本質を目に見えるようにすることだ。さらに、どちらの場合も、観察の対象は真理である。庭師も読書家も、外部および内部の天候によって融通をきかせ、目的を変更しなければならない。新しい発見から生まれる結果を求め、並べなおし、分類しなおし、考えなおし、定義しなおし、有無をいわさぬ完璧な思想ではなく、むしろごく内輪の日常的な経験をもとに判断をくだす。

    p281
    テクストを自分の内部にとりこみ、蠟の板に書いた文字と同じように心に刻みこむことで、人は本そのものになる。

    p294
    すべての読者が知っているとおり、本を読むという行為の要点、すなわちその本質はいまも、そしていつまでも、予測可能な結末がないこと、結論がないということだ。読書のたびに、それは別の読書へとつながる。何千年も前のある日の午後に始まった読書、それについて私たちは何も知らない。読むという行為は、かならず次のページに影を落とし、その内容とコンテクストに影響をおよぼす。そんななかで物語は育ち、社会の外皮が層を重ねて歴史ができあがる-読書という行為はその歴史を保存する。

    p300
    翻訳がテクストを隠し、歪め、服従させ、削除することさえあるという事実に、読者はなんとなく気づいている。だから
    翻訳をオリジナルのひとつの「バージョン」として受け入れる。

    p302
    他者を理解するための第一歩は、相手の言葉を学び、翻訳することだった。

    p304
    ときには、政治的に不穏当だと思われる著者の本は翻訳されずにあっさりと片づけられ、むずかしい文体の薩摩家は敬遠されて、もっと楽に翻訳できる作家が好まれ、たとえ翻訳されても原作とは似ても似つかぬぎこちない文章しまう。

    p310
    「有能かつ優秀な書籍編集者はまず読まなければいけない。子供こころから本を読んできた人間であらねばならない。その読書は途絶えてはいけない。活字への渇望は生まれつき備わった本能的なもので、知的活動にとって必須のものだ。その衝動は遺伝子のやかになければいけない」。つまるところ、編集者とは読者そのものでなければならない。

    p345
    私の友人や母校が異常なほど軍事政権の目の仇にされたことはすでに述べた。リッキーがいうには、軍事政権は密告に頼っていたという。学校内部に密告者がいて、生徒の活動、名前、住所、性格などのくわしい情報を拷問者にもらしていた。軍事政権を公に支持する人びとがいたことは確かだが、軍事政権支持の旗を振ることと、実際に拷問者に協力することのあいだには大きな距離があるはずだと私はいった。
    リッキーは笑って、密告がどんなふうになされるのか、きみにはまるでわかっていないといった。軍事政権は、「祖国、家族、教会」というようなスローガンをがなりたてる反動的な若者集団など相手にしなかった。彼らが必要としたのは、知的で頭のよい人びとである。たとえばリバダビアのような。リバダビア教授が数年間にわたり、生徒たち-彼の教え子-のくわしい情報を軍事政権に流していたことの確かな証拠をつかんだとリッキーはいった。名前だけでなく、生徒たちの好悪の傾向、家庭環境、学内の活動まで。彼は私たち生徒のことをよく知っていた。
    この話をリッキーから聞いたのは数年前のことだ。それ以来、私はずっと考えつづけた。リッキーがまちがっているとは思えない。私は頭のなかで三つの選択肢を考えた。

    ・私の人生においてきわめて重要だった人、ある意味で現在の私をつくってくれた人、有能で刺激的な根っからの教師だった人が、じつは怪物だったのだと受け入れる。彼が私に教えてくれたこと、好きな道を追求できるよう私を励ましてくれたこと、そのすべてが汚された。

    ・彼の弁明しがたい行為を正当化し、友人たちを拷問と死に追いやったという事実を無視する。

    ・よき教師にして拷問者の協力者というリバダビアの両面を受け入れ、水と火のような両者を併せもった人間として赦す。

    三つの解釈のうちどれが正しいのか、私にはわからない。

    p349
    すべての本が啓示にはならないだろう。だが、きらめくページや灯台としての詩が人生という航海の水先案内になることは多い。私たちの危うい旅路に詩人や物語の語り手がどんな役割を果たすのか、すぐには明らかにならないかもしれない。だが、ある特定の独裁政治を経験したあと、独裁者に支配された血まみれの時代を身近に追った人になら、なんらかの答えが見つかるかもしれない。

    p368
    過去の偉大な宗教家たちは知的な人間でもあったので、ユーモア感覚にも富んでいた。

    p371
    洞察力に富んだ読者ならきっと賛同してもらえるだろうが、人間界の最もきわだった特徴は狂気である。蟻はきちんと列をなし、一点の隙もない正確さで、あちらからこちらへと移動する。種子は成長して木となり、きまった周期で葉を茂らせ、つぼみをつける。鳥は渡り、ライオンは屠り、亀はつがい、ウイルスは変異し、岩は崩れて塵になり、たえず形を変えてゆく雲は幸いにも自分が何をつくり、何を壊しているのかを意識さえしない。私たち人間だけが、生きている自分を意識する。半ば共有された言語という記号によって、自分たちの行動がどれほど矛盾だらけで不可解なものか、思いめぐらすことができる。人は治療し、助け、自己犠牲をいとわず、配慮と共感を示す。すばらしい技術や奇跡的な装置を生みだし、この世界と自分自身についての理解を深めようとする。その一方で、人は迷信を頼りにして暮らし、ただ欲望にまかせて溜めこみ、他の生き物をわざと苦しめ、生存に必須のものである水や空気を汚染し、ついにはこの地球を破滅の瀬戸際に追いつめようとしている。しかも、自分のしていることをすべて自覚したうえで行動しているのだ。まるで夢のなかを歩いているかのように。その夢のなかでは、すべきでないとわかっていることをして、すべきだとわかっていることをしない。

    p378
    経済の法則によれば、製品はすべて「賞味期限」のある期間限定品でなければならない。そうしないと新しい製品が次々と売れないからだ。

    消費への欲求はつくられる。(中略)何かを欲しいと思わせ、やがてその欲求に応えるような商品が目の前にさしだされる。

    p413
    人はなんのために本を読むのか?より多くのことを知りたがり、知識の探求という地平がつねに遠ざかるのを目にしながら、そこに達したいと手を伸ばすのはなぜなのか?

    p414
    読書好きは知っているにちがいない。愛を交わしたあとに読む本、空港のラウンジで待つあいだに読む本、朝の食卓にふさわしい本、風呂で読む本、家で眠れない夜に読む本、そして病院での眠れない日々にふさわしい本があるということを。誰も、とびきりの愛書家でさえも、ある種の本がなぜある状況にぴったりで、なぜ別の本がふさわしくないのかを完全には説明できない。言葉にできない理由によって、人間と同じように、ある状況とある本がどういうわけかぴったりと息が合い、また別の本になると激しくぶつかりあうのだ。

    p420
    読書とは、テクストのなかに入りこみ、もてる能力をすべて費やしてそこを探求し、物語をつくりなおす家庭でその本を自分なものにすることである。

    人は読書によって力を得る。ほかならぬその力ゆえに、政治、経済、宗教など、私たちを支配するさまざまなシステムはそのような想像上の自由を恐れるのだ。最良の読書体験に導かれて、人は内省を深め、疑問を抱くようになる。そして内省と疑問は反抗と変化への希求につながりかねない。どんな社会でも、それは危険な企てである。

    p421
    読書とは、人が言葉の迷路に入りこみ、自分の道を自分で切り開き、ページの余白を超えた自分だけの地図をつくることを要求する。

  • いやー、Dainさんのスゴ本書籍で紹介されたいたもので、チャレンジしてみようと手を出したはいいですが、中々の重厚さでした。

    本書のテーマは、「読書」なのは間違いないですが、著者の博覧強記ぶりが遺憾なく散りばめられており、宗教、ジェンダー、エロティック、政治、経済、自身のユダヤ人としてのバックグラウンドとアルゼンチンの世界大戦後の情勢などなどテーマが多岐にわたり、ついていくのやっとです。

    さらに、読書の中でも精読の最右翼なのではないでしょうか、混沌と恍惚としたある種神聖なものとして捉えている。
    著者曰く、読者の心構えとして「ポジティブな盲目」状態により、私たちの周囲に溢れる表面的なきらめきと華やかさから逃れなければならない。

    文学は、メタファーによって普遍的で倫理的な問いかけを持って帰ってくることに使命を担っている。

    「読み方を学ぶ」とは、テクストを十分に理解する方法を身につけることと、理解した内容をほかの人びとと共有することの中間に位置付けられる。所有と認識のはざまのあいまいな領域にこそ、読書という行為がある。

    思考には時間と深みが必要で、この二つは読書には欠かせない要素である。世間や社会は「考えるより早く」を標榜としており、表面的な読み方を求めれれるが、もっと深いところに踏み込んで、自分の恐れと疑いと隠された秘密を直視する勇気をもち、自分自身と世界について考えたうえで社会の在り方に疑問を呈し、本当に考えることを学ぼうとするなら、表面的な読み方以外の方法を学ばなければならない。

    読書とは、テクストのなかに入り込み、、もてる能力をすべて費やしそこを探求し、物語を作り直す過程でその本を自分のものにすることである。

    うーん、読書とは果てしない探求の流浪旅なのですな。ロマンティック。

  • この手の本について長々書くと、読書家気取りかよと揶揄されそうだし、野暮なこともわかるので、多くは語らないけれど、書物を愛する人にとっては宝になり、活字を避けている人にとっては何の価値もないだろう。

    わたしのお気に入りは『理想の読者』。
    理想の読者は自分の蔵書をけっして数えない。
    理想の読者はけっして焦らない。

    お気に入りの理想の読者像を胸に、粛々と活字を貪る日々を続けたい。

  • 本を読むということ、読書の周辺に存在する様々な物事。それは時に個人的であり、同時に普遍的でもある。
    読書を愛するすべての者へ。ここには希望と絶望があり、それでも本は何事かを語りかけ、我々は何事かを受け取り続けるのだ。その中に、この世の安寧を見付けようとして。

    エピグラフがすべて『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』からの引用で、それが不思議にも内容に一致していることが神業のようだった。

  • 本の本
    読書

  • 恐らく、本や読書に興味のない人には退屈なエッセイかも知れません。著者自身の幼いころからの読書体験を問わず語りに書いているスタイルは飽きてしまう可能性が高いです。だからこそ、逆に読書に興味がある人にとっては面白く、興味深く読めるのではないでしょうか。そして最初は単なる著者の読書体験記だったはずが、鋭い文明批評になってきます。何はともあれ、人は書物から生きていくための叡智を学ぶのだという揺るぎない自信が見事です。

  • タイトル通り、『読書』について、或いは解説にあるように、『読み解く』ことについてのエッセイ・批評集。
    多岐にわたる話題もさることながら、時折現れる『愛書家』らしい行動にはつい頷いてしまう。探偵小説に埋もれた『殺人部屋』は内容という意味でも物理的な危険という意味でも正しいかもしれないw
    各エッセイの冒頭には『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』から一節が引用されている。本編を読み終えたあと、再度、この引用文を読み返すと、内容を的確に暗示していることに驚く。というわけで、読むときは、引用文→本編→引用文と繰り返すのがベター。

  • 「読書の歴史―あるいは読者の歴史」原田範行:訳(柏書房)の別訳でしょうか?

    白水社のPR
    「ボルヘスをはじめとする先人を偲びつつ、何よりも「読者」である自身の半生を交えて、書物との深い結びつきを語る。」

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著者プロフィール

1948年ブエノスアイレス生まれ。著書に『世界文学にみる架空地名大事典』『読書の歴史――あるいは読者の歴史』『図書館 愛書家の楽園』『奇想の美術館』など。エッセイや戯曲、翻訳、ラジオドラマへの翻案なども手がけている。リエージュ大学(ベルギー)から名誉博士号を贈られ、フランスの芸術文化勲章オフィシエを受章。

「2014年 『読書礼讃』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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