- Amazon.co.jp ・本 (372ページ)
- / ISBN・EAN: 9784562048588
作品紹介・あらすじ
コギャル、アムラー、ガングロ、age嬢、戸川純、シノラー、裏原系、きゃりーぱみゅぱみゅ……
海外からも「カワイイカルチャー」として注目される日本の若い女性たちの文化が、いかにして生まれ、社会と関係してきたかを精緻に描きだす。
感想・レビュー・書評
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歴史は繰り返すなーっていうことを教えてくれる情報がある。女性の在り方をアカデミックに考えることは、自分の女くささに乾きを与えてくれるので、よい。『文科系女子という生き方』とあわせてよむと、2010年代に生きてることがしあわせに思える。
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生まれ変わったら女の子になって生存戦略に勤しみたい。2012年のきゃりーぱみゅぱみゅに至るまでずっと「街」と「雑誌」がアイコンになっているのが面白い。
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マスメディアに載るような(部分的な)集団の変遷を、系譜や背景も含めてよく捉えることができているように思う。一部ミスリードっぽいところもあったけど。
特に<コ>ギャルの変遷を見ていると、女子高生を性的商品として見る「発情していた成人男性」(p.190) が如何に多いかが窺われる。 -
2012年発行。
表紙と中身のギャップで手に取るのが遅れた。
「女の子たち」が30年間戦ってきた間、男の子たちは何をしていたのだろう?
その後に変化と、本著への反論が知りたい。ただし書き殴りのような“感想”ではなく。 -
表紙に惹かれて手に取った本。1980年代から2012年までを「ギャル」と「不思議ちゃん」という切り口で通観しています。読んでみて感じたことは・・・・・・あれです、最近の流行を全く知らないということ!!ま、まじ卍。卍じゃーん。
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☆生存戦略
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社会
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ギャルか不思議ちゃんかとの違いは思春期の女の子が性に対してどういう態度をとるかの違いなんだと思う。
自分の女を武器にしてセックスに対してイニシアティブをとりにいくか、セックスから居路をとるか。
後者の方法としてガングロ/ヤマンバのように男=世間の求める女性像とは違う方向にデコレーションするか、不思議ちゃんになって男=世間の理解できない文脈に自分を置くか。
篠原ともえが重要な位置づけで語られているが、たしかに彼女はデビュー時ちょっとでも性を感じさせる言動に対してヒステリックなまでに距離を置いていた。
その頃の彼女と話したこともあるから思うのだけれど、それは(本書で指摘されているように事務所の演出があったことは事実だとしても)彼女自身がもっていた要素だ。別に16〜18歳の女の子としてはごく当たり前な態度ではあるんだけれど。
TVタレントとしての篠原ともえはデビュー後すぐにブレイクを果たしたけれど、一旦消えた。何年か後にユースケ・サンタマリアとデュエット曲を発表した前後に再びTVに頻繁に出るようになった時に、プライベートでも友人である深田恭子と率直な恋愛トーク(その年齢相応のセックスを感じさせるような)話を普通にしていて驚いたのを覚えている。つまり、大人の女になることを拒むような女の子のロールモデルだった篠原はごく普通に大人の階段を上っていたんである。
けれど、シノラーたちはそこに気が付かず、あるいは見ないふり/聴こえないふりをして階段を上らずそのままの位置に踏みとどまっていたりする。
ギャルやガングロ、アムラーは"卒業"していったのだと思うけれど、シノラー(もちろんその一部)がそこに留まっているのはモラトリアムは90年代の空気だったと思う。
篠原ともえ1st『スーパーモデル』のプロデューサーは石野卓球だけれど、それが何より雄弁にそれを裏付けてくれる気がしている。石野卓球には幼児性と社会性が同居しているからだ。
石野氏が篠原のプロデューサーを離れる時に「いやだ!」と不安と寂しさで泣きそうだった彼女を「篠原なら大丈夫!」と抱きしめたそうなのだけれど、それが彼女にとっての通過儀礼だったのだろう。
因みに石野氏曰く「ゴメン、全然覚えてない。あの時は自分のことで精一杯だった」とのことです。 -
この本は女子のファッションや行動パターンをギャル系と不思議系に分け、互いの生態系を論じたものである。具体的にはギャルはコギャルや飯島愛からあゆ・エビちゃんに繋がる渋谷系路線。不思議ちゃんは戸川純からきゃりーぱみゅぱみゅに繋がる原宿系路線である。彼女たちの生み出してきた、独特のファッションや言語は日本社会に大きな影響を与えてきた。これからも更に色々進化していくのであろうが、この二つの対極路線が形を変えながら30年間続いていることが面白い。是非この文化を繋げて行って貰いたいものだ。
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すべてのサブカルクソ野郎へ。