- Amazon.co.jp ・本 (264ページ)
- / ISBN・EAN: 9784571420634
作品紹介・あらすじ
自閉症児者が方言をしゃべらないというのは噂なのかそれとも真実なのか。発達障害、方言、社会的機能と多角的な視点から挑んだ、著者の10年にわたる研究成果の書き下ろし。
感想・レビュー・書評
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私は自分にアスペルガー傾向があるからだと思いますが、自閉症(スペクトラム)にずっと惹かれています。本書は特別支援教育、障害児支援の専門家である筆者が臨床心理士である妻の何気ない発言「自閉症は津軽弁を話さない」に「わかってないなあ」と反論して、調べるうちに「わかってたんだ」と気がついていく話。
私たちは言葉をどう学習するのか。
定型発達児は身近なの大人や子供から方言を、自閉症児はテレビから標準語を学んでいることはアンケートなどから判明した。問題は、なぜそうなのか、ということ。
本書では「言語の習得には社会・認知的スキルが必要で、中でも意図読み意図理解力が重要だが、自閉症(スペクトラム)にはそれが困難だから」となっている。言語の習得にとって、もうひとつ必要なスキルが意図理解なしの模倣や連合学習で、こちらは自閉症(スペクトラム)であっても困難がないので、人ではなくメディアを経由して繰り返される言葉(標準語)は学習できる。なるほど。
意図読みということについて面白い例が挙げられていて、これには唸らされた。
母「早く用意しなさい」
子「うるさいな。いま、やろうと思っていたのに」(p.198)
ここにどれだけの意図読みが含まれているか。
母読み <子は用意しようとしていない>
母発言 「早く用意しなさい」
子読み <自分は用意しようとしていない>
子読み <母は用意させようとしている>
子読み <母は私に用意する意図がないと思っている>
子発言 「うるさいな。いま、やろうと思っていたのに」=母の読みは間違っているという否定
意識していないだけで、実はこれくらいの自分の意図読み、相手の意図読み、相手の自分の意図読みが行われている。
歩く、という簡単な行為を分解してみると様々な感知や判断や制御があるように、話すという行為にも様々な読みや判断や制御があるということ。感心するばかり。
もうひとつハッとさせられたのが、特別支援学校の先生などが自閉症児にこうして欲しい、と"意図"を伝えるシーンで「こうして欲しい」と言う代わりに「こうなります」と言う指摘。例えば「用意しなさい(しましょう)」ではなく「用意します」。現場でその方が結果として意図した行動をしてくれることから広まっているらしい。(相手の/自分の)意図読みがいかに複雑で難しいものなのか、ということの本質をえぐっている気づきだと思う。
続編『自閉症は津軽弁を話さない リターンズ』もぜひ読みたい。 -
「ことばの謎を読み解く」
自閉症は津軽弁を話さない - 福村出版株式会社
https://www.fukumura.co.jp/book/b285725.html -
ざっくり言うと、妻から「自閉症スペクトラムの子供は方言を喋らない。方言が出なかったら自閉症を疑う」という話を聞いた著者が「こいつはとんでもない風説が飛び交っているぜ…」と思い否定のための研究を始めたところ、本当に自閉症スペクトラムにおいて方言が出にくい傾向が見えてきて、統計を取ったり理由を考えたりした、その研究をまとめた本です。
データが惜しげもなく出てくるし、統計一つにしても何故その方法を取ったのか、その結果どうだったのかといった情報が満載で、安心してそして納得しながら読むことができます。
ミステリ好きがミステリを読むときの興奮はこんな感じかな、と思わせる知的ワクワク感に満ちた本です。最高です。 -
「自閉症児者は方言を話さない」という印象を出発点に、方言の社会的機能、意図理解を目的とした言語コミュニケーション、言語習得のメカニズムを解き明かしていく。
方言というものが連帯意識や帰属意識を想定したものだというのは、たしかによくわかる話だ。方言に限らず、我々は話し相手との距離感に応じて話しかたをさまざまに変化させるものだ。方言をわざわざ用いるということには、そこにある種の「親密さ」を込めるという意図がある。しかし、自閉症者にはそうした認識の共有であったり、共通語と方言を使い分けることが難しい。僕なんかこういうの他人ごとではない。
自閉症者や認知症の老人、乳幼児に対して声かけする際に「行きましょう」ではなく「行きます」というように「ですます調」で働きかけることが多いという話が興味深い。「聞き手に対してお願いや命令をするというのは、その強弱に差はあったとしても聞き手の意図に対する働きかけです(⋯)ところが、なぜかASDの人や認知症・乳幼児に対しては、「あなたがする行為についての教示」を示すような言い方をします。あなたがすることは、「◯◯です」と言っているのに近いです。相手の意図に働きかけているわけではないように感じられます。相手は意図に働きかけても自主的判断ができないとみなしているからかもしれません」(p.223-224)
ちょうどこの本を高田馬場駅前のロータリーのベンチで読んでいて、「ここでは煙草を吸えません」という注意書きがあるのに気付いたのだが、「吸ってはいけません」ではなく「吸えません」とするのは本書でいうところの意図変更の依頼のショートカットと同じことではないか。こうした言い回しにはそれなりの効果があるのだろう。
ASDの人が、相手の意図を変更するのに論理的・合理的説明に重きをおくのに対して、定型発達の人は理屈ではなく自己の希望の強さの表明が相手の意図を動かすと考えているという話、社会という感じがしますね。後者の希望というのは「社会通念上、当然のものとして求められていること」だったりするわけでしょう。転んだ人がいたらとりあえず駆け寄るとかもそう。「大丈夫だとわかっているのにわざわざ嘘くさいやりとりがうざい。自分だったら、そんなやり取りはしたくない」(p.243)というのは、非常に身に覚えがあります。コミュニケーションは面倒だ⋯。 -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/672476 -
確かに!
原因についての調査や考察も興味深い。 -
新聞の広告を見て、ぜひ読んでみたかった。期待通り、すごくおもしろかった。
ASDや発達障害に詳しくないので、わかりにくいところもあったけど、言語習得に関しては思い当たることとか、なるほどと思うことが多かった。
外国語習得に関して言えば、教科書で習う外国語は、ASDの子がテレビやビデオで共通語を覚えるようなものだ。俗語やいわゆる「こなれた言い回し」は、その言葉が使われる場面で覚えていかないと、ヘタに使って失敗する可能性があるが、反対に言えば、そういう言い回しを自然に使えるということは、その言語コミュニティで自然言語として獲得したという証にもなる。教科書では俗語やこなれた言い回しは覚えられないのである。
言語というのは、どこまでいっても社会やほかの人とのかかわりの中に存在するものだ。外国語をなりわいとする身としては、教科書で習った外国語をどうやって社会とかかわりのあるものにするか、教科書で習った外国語でどうやって意図理解・意図確認ができるようになるか、これがとても重要なのである。