- Amazon.co.jp ・本 (270ページ)
- / ISBN・EAN: 9784582762297
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修道士とは、逃亡者であるという。
神のための逃亡者。
この意味はまだ、今の自分には理解出来ない。
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力がある。
以下引用
一つは、キリスト教における病気なおしの問題であり、もう一つは巡礼の旅の問題であった。わたしは、この二つを全く一つの組み合わせ、「死と再生」の儀礼劇として、とらえる
聖書に用いられる隠喩としての「砂漠」にたいする関心である。聖書によれば、砂漠とは、神の呪いが大地においてあからさまになった状態をさすコトバであるが、それがメタファとして機能するのは、「罪」が人間の肉体においてあからさまになった「病気」の状態と併行して語られることによってである。それ故にこそ、その呪われた砂漠が、ある時、一瞬のうちに緑の大地に変貌するフシギの時を、旧約聖書の預言者たちは、病気なおしのフシギ・ドラマの過程として、描き出す
その時、見えない人の目はひらかれる
その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走る
その問い、荒野に水がわき、砂漠に川が流れる
その時、とはいつなのか。悪魔や夜の魔女以外、だれもが近づくことを恐れる砂漠、それが一瞬にして、パラダイスに変貌し、罪人として追いやられていた病人たちが、鹿のように、おどりながら社会に復帰する、その変貌の「時」とはいつなのか。⇒異界の時間
砂漠への逃避は、まさにこのような状況で起こったのだ。理由は単純である。キリスト教徒の間に、教会のこのような世俗化に抵抗し、それを嫌悪する者たちが、少なからずいたからである。
神は、ある人間を引き抜き、これに故郷を忘れさせ、家族や父の家を忘れさせ、砂漠の深部に分け入ることを要求する
砂漠とは、「神もそして人間も存在しない空間」であった。こうした二重の不在の空間にむかって、彼らは分け入ったのだ。
神も、人間も存在しない砂漠の深部、その二重の不在の空間は、真っ暗闇の洞窟だった
すべての逃亡者の心の底には、きっとそれがある。それがわかるのは、涸れ谷の洞窟にこもって、ひとりになり切ったときなんじゃ。さめざめと、泪がこぼれてくる。この涙は、決して、弱い心の涙じゃない。
古い自分を、きっぱり脱ぎ捨て、無一物になるために泣くのじゃ!そして、涙のなかから新しい人間に生まれ変わる…。無一物のなかに、無限の宝が隠されていることを知る。
人間を避け、洞窟に坐って、ひたすら嘆くがよい!
修道院は、第一に、そしてあらゆる意味に於いて、墓場であることを、わたしは砂漠の僧院にきて知った。
ナイルの西の涸れ谷には、人の住まない「無縁」のクニがある。この世の、すべての絆の断ち切れた異界
いいようもなく明るく、そして悲しく澄んだ瞳だった。その透明な悲しさは、どこからくるのか。
あの女は、生きることの不安と悲哀から抜け出して、いちばん大切な記憶を胸に、あの透明なむこうの空間に映っていった
この明るさは、もはやこの世のものではない。メンナの立っている世界は、非現実の世界である
変化するこわれやすい肉体にたいして、霊魂は死後も、墳墓の中で生き続ける
肉体を遊離した霊魂が、いつの日か、復活して、ふたたびこの地上にもどることができるか。それは「オシリスの法廷」における死者の審判の成行きにかかっている。
彼らにとって、死とは、終りではなく、はじまりだったからである。「苦」を抜き去った透明な「明るい」クニにおける、第二の生の開始
透明な死者のクニ
⇒人間の手からは離れた、独立的に存在する時間の流れのような所だろうか。それとも、或る死者の物語を引き継いだ形で生きる際の空間性のことだろうか。それが、現生の時間の枠組みからはずれているが故に、それを「死者のクニ」と呼ぶのだろうか。
彼らが渡ったのは、ナイルであるが、二度と戻る事のない死者のクニへの境界を彼らは踏み越えていった。それが「苦」を抜き去るということ。
その日、もろもろの山にうまい酒がしたたり、もろもろの丘は乳を流し、
その時、砂漠は喜びて花咲き、さふらんのように、さかんに花咲き、かつ喜び楽しみ、そのとき、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、口のきけない人の舌は喜び唄う
異界の時間は、そのような不思議の時のナイル川の西砂漠の、暗い地下のマスタバにミイラととみに生き続けている霊魂が、いつの日か‹オシリスの法廷›で義とせられ、復活して地上に現われる日を、再びまち続ける
こうした聖地が、いかに孤立した世界に在り続けて来たか、そのありようの不思議さである。
モンクは、ひとりの人という意味
洞窟は、真っ暗闇の全体が、そのまま墳墓であるようにわたしには思われた。誰かの亡骸が、その場におかれていたとしても、少しも不思議でないような、暗い、不気味な空間。
真っ暗闇の洞窟の一点から一条の光が差し込んで来る、
アントニウスの洞窟にはひt
フランスのシャルトル大聖堂-地下教会とか地下礼拝堂があり、そこには歴代の聖者の遺体が安置されている
ユング-人間が願望するのは、閉ざされた神秘の空間への回帰である。それは人間の誕生以前の記憶としての母胎の胎内感覚の反復であり、再現ではないか。こうした解釈に立って、ユングは洞窟内部の空間を女性の子宮にみたてることができるという。
⇒こうした胎内くぐりの信仰が、日本にはいくつもある。出羽三山のひとつ、湯殿山のそれ。その湯殿山の御神体に当たる部分は、女性の胎を巨大化したような岩石
で、そこから熱湯があふれている。その流れに足を浸すために巡礼者は山を登ってくる。正確にいうと、山を登るのではばい。そこで死ぬためにやってくるのだ。真っ白の巡礼装束、これは死装束であるわけだが、死装束に身をつつんで、あえぎあえぎ山を登ってくる。そして暗い洞窟の暗部をくぐり、母の胎の中心部に到達する。
人間の魂は、天上界に住む「光」であった、という。それが暗黒の悪霊たちの手に落ちた。「光」は、粉々に砕け散り、肉体という名の牢獄に閉じ込められてしまう。これが「心」である。「心」はあくがれる。故郷を慕ってあくがれる。けれど「心」はもどれない。
神々の舞台のような、不思議な威厳
降るような光線が、天蓋にうがたれた穴から、洞窟内に流れ込み、あざやかな光点を砂の上に描き出しているのだった
涸れ谷の洞窟には、死の匂いのする暗闇があった。闇の底には恐怖があった。
洞窟の天蓋にある小さな穴から落ちて来る「光の束」をみつめていた。その燦々と降りそそぐ透明な光が、わたしにはフシギでならなかった。
あの小さな穴の向うには異界がある -
コプト教(エジプト独自のキリスト教)の修道院や洞窟僧院の修道者たちの生活や対話を描く本。第一部は実際に著者が長年現地調査したことを名文で描いている。第二部は文化人類学的な軽めの論文になっている。正直こっちは好みではなかった。だが第一部の語りは素晴らしい。隠者、日本で言うなら「出家」する者たちの言葉が重く深い。こういう脱世俗したものたちへの憧憬というものが滲むように思える。
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烏兎の庭 第二部 日誌 2.3.06
http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto02/diary/d602.html#0203 -
<a href="http://www.lib.hokudai.ac.jp/book/index_detail.php?SSID=267">本は脳を育てる</a>