ラプソディ・イン・ブルー-ガーシュインとジャズ精神の行方 (セリ・オーブ)

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  • 平凡社
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  • Amazon.co.jp ・本 (141ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582831702

感想・レビュー・書評

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  • 20世紀を代表する楽曲「ラプソディー・イン・ブルー」は黒人音楽の盗用なのか|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト(2024年4月16日)
    https://www.newsweekjapan.jp/stories/culture/2024/04/post-104271.php

    名曲「ラプソディ・イン・ブルー」誕生の意外なエピソード。作曲依頼は新聞で?|音楽っていいなぁ、を毎日に。| Webマガジン「ONTOMO」(2019.05.09)
    https://ontomo-mag.com/article/column/feature-may-rhapsodyinblue/

    ラプソディ・イン・ブルー - 平凡社
    https://www.heibonsha.co.jp/smp/book/b162370.html

  • 20世紀を代表する1曲を選ぶならやはりこれ。硬すぎずしかし軽すぎず本格的な、この曲にふさわしい音楽論。

    <blockquote>P25 つまり「ジャズ」は必ずしも黒人音楽のみを指しているのでなく、社会的、道徳的、宗教的規範から外れ、いかがわしく、神を冒涜する不真面目な行為に対して、すべからく「ジャズ」という言葉が投げつけられているのである。

    P51 ガーシュウィンにはいわゆるクラシック音楽の作曲家に要求される構成力が欠如していた。そのため、交響曲や協奏曲、室内楽などクラシック音楽の定番となっているレパートリーでそれほど多く作品を残すことができなかった。さらにまた、ピアニストとしても、活気と才能に溢れ、即興性と前進力に富むラグタイム風、ジャズ風の演奏では他の追随を許さない卓越したものを示しつつ、クラシックの演奏に要求される正確さには欠け、今日残るレコーディングを聞いても、ミスタッチは少なくない。
    だが逆に、プラス面に目を転じてみると、出会いが遅かっただけに、音楽と向かい合う姿勢は純粋でひたむきだった。そして、早熟の天才音楽家が見失いがちなワイルドでプリミティブな想像力と創造的オリジナリティを失わずに持ち続け、二十世紀の作曲家たちが、既に終わってしまったこととして関心を向けようとしなかった音楽の最も基本的で人間的なエレメント、すなわち「「歌」と「愛」の作曲家として大成することを可能にした。

    P60 ピアノ・ローラーへの吹き込みの仕事は、ガーシュウィンのピアノの演奏スタイルに大きく影響を与えた。

    P100 予測不可能な気まぐれさが、あの曲の構造そのものを決めていると思うんですよ。それと、あの曲はどこでカットしても、音楽として自然に流れるようにできているのですよ。ここから先は時間がなければカットしても構わないなんてガーシュウィン自身が指示を書いてますからね。(中略)自由に開かれた形式というのか、構造的に閉ざされてないので、いろんな要素が出たり入ったりして、遊んだり、泣いたりしている。その意味で完璧な「ラプソディ」なんですね。(中略)構造のなさ、あるいは緩さそのものが、さまざまなエレメントが出合い、クロスオーヴァーしあう不思議に開かれた構造を作り出しており、それがジャズの構造と通じ合っていることこそを私たちは認めなければならないだろう。(中略)
    「ラプソディ・イン・ブルー」そのものが構造的に「アメリカ」なのである。

    P137 音楽を通して、階級の壁を越えた人間のコミュニケーションを可能にした。</blockquote>

  • 『ラプソディ・イン・ブルー』はアメリカの作曲家ガーシュインの代表作。
    『のだめカンタービレ』エンディングに流れていましたが、とても印象的なのはその曲の途中が使われたこの部分。
    https://www.youtube.com/watch?v=mhUJpg3-v7Iこちらの2:10から。いいですねぇ。
    私はこの部分、ロシアの抒情的な様子をあらわしているのではないかと思っていたのですが、この本のどこにもそんなことは書かれていませんでした…。

    ガーシュインの父がポグロムでアメリカに移り、そのニューヨークで生まれたのがガーシュイン。
    前に漫画家ヤマザキマリさんの息子さんが「僕はイタリアではイタリア人じゃない、日本では日本人じゃないといわれる」みたいなことを言われていたのを思い出しました。
    『ラプソディ・イン・ブルー』はジャズ側から見るとジャズとはいえないし、クラシック側からはクラシックではないということではないでしょうか。
    そして、彼がユダヤ人であることが実は重要。
    私はユダヤ音楽って知らないけど、そういえばポグロムを扱った『屋根の上のバイオリン弾き』で結婚式のとき『サンライズサンセット』という曲がながれるのですが、すごく悲しそうなのは、それと関係あるのかしら?

    ●ガーシュイン音楽を、肯定的に捉えるにしろ、否定的に捉えるにしろ、ジャズ一辺倒の立場から、ジャズ・アイデンティティの欠落を指摘し、ジャズでないと決めつけることも、またクラシック一辺倒の立場から、これはクラシックではないと決めつける、ジャズやポップス、あるいはミュージカルの方に押し付けるやり方も間違っている。それをユダヤ的アイデンティティといえばいいのか、ジャズでもなく、クラシックでもなく、ミュージカルでもなく、またそれらのすべてにクロスオーバーしている、いわば確固としたアイデンティティの不在のなかにこそ、ガーシュイン音楽の本質が宿っている。そして、この「確固としたアイデンティティの不在」こそが、ガーシュイン音楽の今日性を証明しているのである。にもかかわらず、「ジャズ・エイジ」のエースとか、アメリカ国民音楽を代表する大作曲家などなど、ガーシュインが39歳の若さで夭逝し、さらにアメリカがクラシック音楽文化の受容・発展において後発国だったこともあって、ガーシュインは、アメリカ国民音楽を代表する大作曲家に祭り上げられてしまった。ガーシュイン最大の不幸がそこにあった。

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