- Amazon.co.jp ・本 (207ページ)
- / ISBN・EAN: 9784582854411
感想・レビュー・書評
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中世仏教史を専門とする著者(山形大学教授)が、日本の仏教史を僧侶たちの「破戒と男色」をカギにとらえ直した一冊。
古代の仏教受容から説き起こされ、終章では近世以降の状況にも言及されるが、中心となるのは著者の専門である中世だ。
本書によれば、中世の「官僧」(公務員的僧侶=東大寺、延暦寺などに所属した国家公認の僧侶)の世界では、男色は「一般的」――つまりあたりまえのことだったのだという。
仏教では戒律によって出家者の「不淫(性交をしないこと)」が定められているから、僧侶の男色は「破戒」である。にもかかわらず、女人のいない寺院という閉鎖空間で、「童子」または「稚児」と呼ばれる僧に仕える男子が、おもに男色の相手となった。
男色は「上級僧のみならず、中・下級僧にまで蔓延し、一般化していた」。著者は、男色は「『官僧集団』の文化であった」という。
本書がとくに光を当てるのは、東大寺の別当となり、官僧たちの頂点にのぼりつめた宗性(そうしょう)。この宗性が日常的に男色にふけっていたことを示す史料が、こと細かに紹介される。
その中には、宗性が書いた「これまでに95人と男色を行なってきたが、なんとか100人までで打ち止めとしたい」という意味の誓文があり、仰天させられる。
95人という人数(著者は、相手には稚児だけでなく先輩・後輩僧侶も含まれるだろう、と推察している)もスゴイが、「今後はけっしてしない」という誓いではなく、「あと5人くらいでやめたい」という消極的誓いである点もスゴイ。
この宗性だけが特別なのではない。
たとえば、僧侶の間で稚児の奪い合いなども頻発したという。また、「官僧の世界では、男色のみならず、女犯(女性との性交)も一般化し」ていたし、飲酒や肉食などの破戒も頻繁に起こっていたという。
そのような官僧の腐敗堕落(※)に対して、「仏教本来のありように戻れ」という戒律復興運動もしばしば起こった。本書は、そのうちとくに叡尊による復興運動にスポットを当てている。
しかし、また年月が経つと破戒僧が一般化し……と、そのように破戒と持戒の狭間を揺れ動いてきたのが日本仏教史なのだと、著者は言う。
※私自身にはホモセクシュアルに対する偏見はないし、現代日本の僧侶の妻帯・飲酒・肉食それ自体が「腐敗堕落」だとは思わない。念のため。
題材にインパクトがあるためキワモノ本だと勘違いする向きもあろうが、読んでみればごく真面目な研究書である。
著者の問題意識は、官僧社会の「破戒と男色」を、鎌倉新仏教成立の背景要因の一つとしてとらえることにある。
鎌倉仏教の立役者たちが出家して「官僧」の世界に入ったとき、そこはすでに男色と破戒が横行する「俗界」と化していた。だからこそ、彼らはそこから出なければならなかった(そのような官僧からの離脱のことを「二重出家」と呼ぶそうだ)。
《官僧身分からの離脱は、当時の史料では「遁世」とか「隠遁」と表現されています。遁世とは、本来、出家を意味し、古代においては、興福寺、東大寺、延暦寺などに入ることを意味しました。しかしここでは、興福寺から離脱し、笠置寺で禁欲の仏道修行を行なうことが、遁世(隠遁)と表現されているのです。(中略)
法然、親鸞、日蓮、栄西、道元らも官僧の世界(延暦寺)から離脱しました。このように、鎌倉新仏教初期の祖師たちのほとんどは、遁世僧であった点に注意を喚起したいのです。(中略)
遁世とか隠遁というと、ともすれば世をはかなんで、ひっそりと生きることをイメージされがちですが、鎌倉新仏教の僧侶たちにとっての「遁世」とは、新しい救済活動の原点となるものであった点に注目する必要があります》
目からウロコの知見がちりばめられた一冊。
本書を読んで「へーっ」と思った“豆知識”を、メモしておく。
■memo1
「戒律」は、本来「戒」と「律」という別個の概念であった。「戒」は「自分を律する内面的な道徳規範」のことで、「律」は「教団で守るべき集団規則」をいう。しかし、日本では「それらを一括して『戒律』とし、釈迦が定めた僧侶集団の規則の意味で使われてい」る。
■memo2
ユダヤ教の戒律は、神が「するな」と命じる「禁止命令」と、「せよ」と命じる「当為命令」に二分される。そのうち「禁止命令」は、毎日の行いにかかわるから一年365日に当たる365戒となっている。「当為命令」は人間の体を動かして行なうものだから、人体の骨肉の数に当たる248戒となっている。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
「受戒」という戒律護持を誓う儀式があることを知りました。
でもこれが、単に寺という社会的集団の中での
形式的な儀式にすぎなくなり、
破戒してしまってる事態が起き、
それに対して戒律を守ろう、という運動や、
いっそ戒律などなくてよいのだ、という主張が現れたようです。
一方、男色についての記述は、参考にあげてる例は多いものの、
紹介に過ぎない印象でした。新しい発見は少なかったです。
全体として、文体は読みやすいし、難しいことはないけど、
私の注意の問題もあると思うけど、記憶に残る点が少なかったです。 -
仏教伝来からの日本における戒律の受容のされ方、中世での仏教界における破戒を示す顕著な例として男色を取り上げ、それによって湧き起こった中世の仏教改革を説明する。
親鸞の「無戒」という、一般的な仏教観からしたら全くあり得ない思想がどこから現われたかを納得させる本だった。 -
[ 内容 ]
厳しい戒律があるにもかかわらず、いつしか日本仏教界にできあがっていた「男色」文化。
稚児をめぐって争い、失っては悲しみにくれ、「持戒」を誓っては、何度も破る―。
荒れはてた仏教界に、やがて「戒律復興」の声とともに新たな仏教を生みだす人々が現われる。
戒と僧侶の身体論から見た苦悩と変革の日本仏教史。
[ 目次 ]
第1章 持戒をめざした古代(なぜ戒律が必要となったのか 待たれていた鑑真と国立戒壇 延暦寺戒壇の成立 戒をめぐる“現状”)
第2章 破戒と男色の中世(守れなかった戒―宗性の場合 僧侶の間に広がった男色)
第3章 破戒と持戒のはざまで(中世日本に興った“宗教改革” 女性と成仏 戒律の復興を人々に広める 延暦寺系の戒律復興と親鸞)
第4章 近世以後の戒律復興
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
しっかりした文献、それも中世仏教界の指導者であった高僧の自筆文書により当時の男色の実態を明らかにしている。
しかし、この書はただの興味本位に陥ることなく、あくまで僧と戒律の問題の一面としてとらえ、記述している。 -
後半、破戒と戒律の復興運動についてが面白かった。
僧侶の〈身体論〉というのはとても面白い切り口だと思う。
ただ、男色については、時代柄、僧侶の世界だけではなく世俗の問題もあわせて考えるべきなのではないかとも。それを捨て切れていない官僧たちの生活があるからこそ、日本の仏教において戒律の護持や破戒という問題が発生するだろう。 -
仏教の守られない戒律の実態と、戒律復興のための様々な流派の出現
女性の受戒 -
色々そっち系(仏教)検索してるとやたら引っかかって気になって仕方無かったので思わず購入。
規制をかけてもいくらでも逃げ道つくっちゃう人間、いや日本人。大したもんです。それを思えばいっそ無戒でいいんじゃね?な精神にも納得できるような…。
そしてその寺における男色の始まり(隆盛)というのはいつなんだ。重要なんですが そこ。 -
(2009/10/20読了)破戒という点で言えば、妻帯ばかりが問題とされるが男色はどうなのよ、という話。
ところで日本の中世・・・というか江戸時代までって男色が盛んだったようなのに、何でその後ゲイは後ろ指さされる存在になってしまったのでしょうか。やっぱりキリスト教に基づく西洋文化の流入のせい? -
男色について深く知りたかったが、戒律を中心とした仏教史的な色合いが強く、期待にはそぐわない内容だった。