- Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
- / ISBN・EAN: 9784582855371
作品紹介・あらすじ
ブログやツイッター等々、傍若無人に言葉が垂れ流されている。本人は自由に自己表現をしているつもりかもしれないが、実際にそうした言葉を読むと、自由というよりも、手前勝手な思い違いとしか思えないものが少なくない。その多くは「自分探し」の強迫と享楽に憑かれている。他者の全き不在、まさにつぶやきであり、ここからは何も生まれない。「ちっぽけな自分をなくせ、他人の言葉にどっぷりつかれ!」-本書はその少々手荒な処方箋である。
感想・レビュー・書評
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上野俊哉の書いたものを読むといつも元気をもらっているように思う。この本も例外ではない。「反自分探し」のための書物として書かれたこの本を読むことで、上野の暴力的な(とはいえデリカシーに欠けておらず、フェミニズムも視野に入れて自己批判的に論じているところは流石と思う)、それでいて理知的なテクストに触れることで紛れもない私自身が他者と出会い、他者の言葉によって相対化されナルシシズムの呪縛から楽になるからなのだろう。そして、この本では上野自身の修行時代/青春時代の思い出も開陳される。実に親しみやすいクールな一冊だ
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「知識人に対しては大衆として、逆に大衆に対しては知識人として語り、ふるまう者のことを谷川は『工作者』と呼んだ」 ー 299ページ
これを読んで、蝙蝠のように浮浪することでしか生きることができない自分自身はまさに「工作者」にあたるなあとまず思ったが、よくよく考えてみれば万物に通じる知識人なんてものは絶滅危惧種なわけで、そういう意味では万人は「工作者」のようなものなのかもしれない。そういう意味で、蝙蝠のように浮浪というというテーマはもっと掘り下げていきたいところ。
「工作者」はつまり逃亡者であって、ヒットアンドアウェイみたいなところがあると僕は思っている。そこで逃げるということをネガティブに取るのか、あるいはポジティブに活かすのか。漂うことでものに絡み取られることなく、自らの体積を増やしていく姿は、あるいは蝙蝠というよりはクラゲのようなものなのかもしれない。そしてやはりその場合、流れに身を任せることは大事で、一ヶ所に留まることは停滞という腐敗を生み出すことは確か。ブルーリバーでもなくブルーレイクでもなく、オーシャンの中を漂っていたい。塩辛さと不純物が大事。 -
自己とは他者である。
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2010/10.29
今の自分にとって物凄く参考になった。
就職活動という外部的な要因で、半強制的に「自己分析」が始まる。対話の中で、自分の思考の浅薄さを気づかせてもらっているが、どこか相手の人が「自己を知る」ことについては、深く意味を追求していないように感じてた。
たまたま図書館で手に取った本だけに、この出会いは嬉しい。
暫く「自伝」を中心に読んでいこうと思う。
新書にもいい本があるもんだ。 -
回送先:川崎市立宮前図書館
思想家の自伝というある意味ではマイナーなジャンル(多くの思想家の「他己紹介」ならば日本語でも読むことができる。例として、ブルーエルの『ハンナ・アーレント伝』など)から自分探しに明け暮れる社会の風潮を皮肉たっぷりに(しかし自伝を読むという本来の目的を外れることなく)せせら笑う。このアイロニーは率直に言えば評者には痛快と思えてならない。確かに評者も広義の意味では「自分探し」をしている。しかし、それは他人から揶揄されないと分からないものでもある。
自伝を書くという行為はともすれば自分の権威の誇示とも見えてしまうが、しかしやっている行為そのものは何を食べ、何を考え、何を作ってきたか(上野にとってはここが言いたいところなのだろう)ということのサマライズにすぎないわけで、これはそれ相応の教養と知識の上においては「一定のヒラバ」が認められることができる(もちろんそれは建前上に過ぎないのは言うまでもないが)。
無論これには不利な面もあり、それは思想家がしているから「自伝」なのであり、権威のないわれわれ(とされる概念)はプロフィールの露呈しかできないという批判もあろう。しかし、そこに気品を読み取ることはできない。換言すれば、何を作ってきたかをキチンと言葉にすることを怠っている「われわれ」の側の怠慢さが見て取れるのだ。
近年新書のレベルが決定的に低下して評者は諦念の感があるのだが(ゆえに、見切りをつけて洋書に手を出した部分もある)、その中にあって気概を吐く新書ひとつ。立ち読みでは真骨頂は理解できない。レジ行って買うないしは図書館で借りて時間をかけて読むのがいいだろう(ついでにこの本は品のいい古書店で見かけたいものだ)。