- Amazon.co.jp ・本 (218ページ)
- / ISBN・EAN: 9784584123959
感想・レビュー・書評
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神道はいろんなものが「ない」宗教だったから、「ある」宗教である仏教と習合することも出来てしまった。仏教側に「ある」から、神道はそのまま「なし」でOKだった、と。神仏習合から神道が仏教とわけられたとき、選べずに無宗教になった、といっているけれど、でもきっと多くの日本人は、神道なんだと僕は思う。創造神は何もせずどこかに行ってしまうし開祖はいない、教義はない、そして信じるものが救われるわけでもない。おおなんと日本的であることか。宗教の本というよりも、日本人の拠り所がなぜゆらゆらのかが確認できる本(褒めてますよ)。
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神道には開祖も宗祖も教義もなく、もとは神殿もなく、岩陰で祭祀を執り行い、火が好きで、神々はいるけど天地創造はしてなくて(天地創造後の高天原から出てきた)という「ない宗教」。だから「ある宗教」である仏教とカニバらず、神仏習合がなし得た。神主は坊主と違って専門じゃないし、そもそも救済とかない。もはや宗教かどうかも怪しい。だから明治政府に天皇と合わせ利用された。
あれだな、心の所作ってやつだな。 -
大きめの文字で文章も読みやすく、神道への理解が深まりました。
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タイトルの質問に対する回答は書いてない。
神道は「ない宗教」だということが繰り返し書いてある。
教祖がいない、教えがない、布教しないという「ない宗教」であることが、仏教やキリスト教やイスラム教と比べたときの神道の特徴だというが、ユダヤ教やギリシャ神話との比較はしないというご都合主義。その他、祖先や世界の始まりを教える主教は世界各地にあると思われるが、それには一切触れない。浅い本である。 -
神道というのは宗教なのか? 寺にも神社にも初詣に行くのはなぜか? なんとなく日本人と神道との関係に疑問があり、島田裕巳ならわかりやすく解説してくれるだろうと思って手に取った。神仏習合がなぜうまくいったのか。島田は「ある宗教」としての仏教にちょうどよかった「ない宗教」という神道という読み解きを本書で示す。仏教と違い、神道は本来、下々の生活には踏み込まなかった。祭りや儀礼の執行者にすぎなかったし、神社はあれど神主はいないということも普通だった。神は人々のなかになく、山や神社といった空間に存在するものだった。それが戦後国家神道としての役割を失ってあらたに都市に出てきた人間の冠婚葬祭を司るようになっていく。神道というのは「昔からかわらない」顔をしているが、時代とともに変化を重ねてきているものだという理解を得た。
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知っているつもりで知らなかった神道のことを分かりやすく勉強できた。
他の宗教にはあって普通のものが神道にはことごとくない。
逆に、そんな神道を知ることで宗教の本質の理解に繋がるのではないだろうか。
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神道とは「ない」宗教である。
神道にとって祭祀とは何もない空間を作り出し、そこに神を封じ込める事で営まれるものである。神社にとって重要な事は神が鎮座していることであり「神の為の場所」なのである。
対して仏教は「ある宗教」である。仏教から様々な要素を取り入れることによって神道は体系化を進められることが出来た。しかも、全面的に取り入れていく必要も無かった。神道にないものを取り入れていけばよかったのである。
古今東西、宗教とは救済を求めるものである。神道における神は願いを捧げる人々の思いを受け止めてくれるだけで、積極的に救ってくれるわけではない。滝に打たれるなどの行為もあるが修行というより重要なのは身を清めることで、俗世の垢を取り除き神に相対する事である。
著者は神道は救いというモノを与えてくれない事で、私たちに何かを教えてくれる。救いを求めるのは過度の欲望を抱く結果かもしれないと説く。
神道は「ない宗教」なので意識にも上らない。これが日本人が無宗教と誤認してしまう所以ではないだろうか。 -
【要約】
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【ノート】
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