他者の受容: 多文化社会の政治理論に関する研究 (叢書・ウニベルシタス 803)

  • 法政大学出版局
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  • Amazon.co.jp ・本 (438ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784588008030

作品紹介・あらすじ

多元化するとともにリスク共同体化する世界社会。他者の受容を可能とする「差異に敏感な普遍主義」の論理を展開して,国家の枠組みを超えうる人権政治を擁護する。

感想・レビュー・書評

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  •  ある事物が善悪という概念によって分かたれるとき、善の側に属するものが社会の成員によって社会的に妥当と判定される。「道徳的なるもの」は、こうした基準が間主観的に働くことによって設定される。
     それでは、何が善悪を隔てる基準となりえるのだろうか。本書の著者であるユルゲン・ハーバーマスによれば、こうした基準は、人々が「価値がある」とか「信頼すべき」と見なしているものから見出される。そして、人々がそのように見なしているものは、人々の主観的な欲求などを超えて、人々を拘束する力を持っているという点で、単なる選り好みとは異なっているのだという(10ページ)。
     文化的・社会的コンテクストにより善悪基準は異なるものとなり、また、歴史的状況や、異質なるものが社会の中へ流入することによっても善悪基準は変化しうる。だが、いずれにしても、こうした「道徳的なるもの」と見なされる事物は、社会の成員間に(程度の差はあるかもしれないが)何らかの拘束力を発揮するのである。
     では、こうした拘束力は何に由来するものなのだろうか。ハーバーマスの道徳に関する議論は、「道徳的なるもの」の拘束力がどうした概念によって産出され、維持されるのかは抽象的かつ曖昧な形で述べられるに留まっているように思われる(私の読みが甘いのかもしれないが、読んだ限りではそう感じられた)。
     ところで、道徳性とは「善」を基準として見出されるものであるが、一方で正義は、社会の成員間における「正しさ」を基準として見出される抽象的概念である。また、正義(justice)は、ある事物を正当化する(justify)ことによって、強制力を得ることが可能となる。正当化とは、ある事物を、社会の成員間における「一般性」や「共通善」へと惹きつけることによって判断し、その判断を他者へ強制しようとすることである。他者の受容を考察するためには、こうした「強制」のプロセスがどのように行われるのかを観察する必要があるように思われる。
     イマヌエル・カントの「永遠平和」が、あらゆる人々の相互理解を求める理念として捉えられるのであれば、他者の受容という考えは非常に重要さを帯びてくる。しかし、そのためにはまだ多くの具体的事例の蓄積と、ある社会に属する人々がいかに他者を受容する(しない)のか、ということに関してさらなる分析が必要であろう。そうした議論の端緒として、この本は非常に意義のあるものだと私は思う。

  • [ 内容 ]
    多元化・リスク共同体化する世界で、他者を受容し、差異とともに生きる論理はいかにして可能か。

    [ 目次 ]
    第1部 道徳的義務の権威はどのように理性的なのか
    第2部 政治的リベラリズム―ジョン・ロールズとの論争
    第3部 国民国家に未来はあるか
    第4部 人権―グローバルレベルと国内レベル
    第5部 「協議主義的政治」とはどのようなものか
    『事実性と妥当性』への付論― カードーゾ・ロー・スクールにおけるシンポジウムでの論評への答弁

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  • 予定は未定

  • 9 Drei normative Modelle der Demokratie 民主制の三つの規範的モデル
    ハーバーマスの自由主義と共和主義理解

     理念型として先鋭化してきた「自由主義的」政治理解と「共和主義的」政治理解をリベラル―コミュニタリアン論争に即しながら、考察する。?ではマイケルマンに即しながら、国家市民構想、法概念、および政治的意志形成プロセスに関して、両モデルを検討する。?では、共和主義への批判から第3の手続き主義的構想、「討議の政治(delierativen politik)」を展開する。

    ?
    自由主義と共和主義の決定的違いは、民主的プロセスの役割理解にある。自由主義は民主的プロセスの課題を国家を社会の利害関心に沿ってプログラム化することであるとする・「国家機構は集団的目標のために政治権力の行政上の使用に専念し、市民の政治的意志形成という意味での政治は社会における私的な利害関心を束ね貫徹する機能をもつ」(270頁)すなわち、政治の役割は利害を調整するための媒介(Medium)機能に限定される。
    一方、共和主義は、政治を自由主義おけるような媒介機能のみに尽きるものではなく、むしろ、社会化プロセス全般の土台となるものとする。「政治は、自生的連帯社会の構成員が自分たちの相互依存を意識し、国家市民として意図的かつ自覚的に、既存の相互承認関係を自由平等な法仲間へと発展させ、整備してゆく媒介となるもの」(271頁)とされる。ここにおいて、連帯(Solidarität)が社会統合の第三の源泉として登場する。
    以上の民主的プロセスへの理解の相違から、以下大きく3つの点で異なる帰結を導く。一つ目は、国家市民についての対立である。まず、自由主義は、市民の地位を国家と他の市民に対する個人の主体的権利によって定義する。個人の主体的権利は、外的強制を受けずに任意に選択できる余地を法人格に保障する消極的権利とされ、政治的権利も同様に、国家市民に自己の私的利益を実現する可能性を与えるものとされる。
    一方、共和主義は「国家市民の権利は、何よりもまず参政権およびコミュニケーション権であり、むしろ積極的権利」(272頁)である。この権利は、市民が望むものになるための共同の実践への参加を保障する。「民主的国家権力は、国家市民による自己決定の実践を介してコミュニケーションによって生じる権力に由来するのであり、さらにその実践を公共的自由の制度化によって守る場合に正当化される。したがって国家の存在の正当性は、第一に平等な個人の主体的権利を守ることにあるのではなく、意見形成・意志形成の一切のプロセスを保障することにある」(同上)
    二つ目は、法概念そのものについての対立である。自由主義は、法秩序の意義を、個別のケースにどんな個人がどんな権利を持ちうるのかを確認しうるところにあるとする。更には、法秩序は個人を主体的権利から生まれ構築されるものであるとする。一方、共和主義は、主体的権利を客観的法秩序に根拠を持つものとし、「法秩序は、平等かつ自律的で相互の尊重に基づく共同生活の不可侵性を実現すると同時に保障するもの」(273頁)であるとする。このため、客観的法は個人の主体的権利に対して優越する。
    しかし、このような二項対立的概念では、法の間主観的内容を捉えられていない。法は、対照的な承認関係の中で相互の権利と義務とを顧慮することを要求する。ただし、共和主義の「各人の不可侵性および主体的自由と、各人を個人としてと同時に構成員として相互に承認し合える共同体の不可侵性とに、同等の重要性を認める法概念へと歩みよっている」(同上)点は評価できるとする。
    三つ目は、政治的プロセスの性質に関する対立である。自由主義は、政治の本質を行政権力を意のままに行使しうる地位をめぐる闘争とする。選挙民の選好は、投票を通して表現され、投票者の決断は、成果志向の市場参加者の選択行為に代表される戦略的行為モデル(Muster strategischen Handelns)と同じ構造であると前提する。
    一方、共和主義は、公共権および議会における政治的意見形成・意思形成を、市場プロセスの構造に従うのではなく、了解を志向する公共的コミュニケーションの頑固な構造に従うものとする。国家市民的自己決定の実践という意味での政治にとって、パラダイムとなるのは市場ではなく、対話である。

    ?
    以上のように整理された自由主義と共和主義に対して、共和主義の方を評価しつつもその弱点を指摘する。まず、なぜ共和主義が評価されるかといえば、集団的目的の追求を取引に還元することなく、コミュニケーションを介してまとまる市民による社会の自己組織化を目指すからである。一方、弱点はあまりに理想主義的であり、民主的プロセスを共通善志向の国家市民の徳に依存させてしまう点であり、過度に倫理的領域に政治を設定することである。
    このため、共和主義は文化的・社会的多元社会における共同体にとっては必ずしも本質的ではない利害対立や価値志向の問題を適切に扱うことができない。利害調整は戦略的に行為する者の間の妥協という形で調停されるが、「この種の交渉には、協同への覚悟、すなわちルールを尊重し、それぞれ根拠は異なるにせよ、すべての当事者が受容可能な結果に到達しようとする意志が前提になる」(277頁) 
    討議の政治は多様なコミュニケーション形式を考慮に入れることを求める、具体的には、倫理的なものだけではなく、利害調整および妥協、目的合理的な手段選択、道徳的基礎づけおよび法的一貫性である。これら多様なコミュニケーションによって自由主義と共和主義が補完しあえる。よって、ハーバーマスが定式化しようとする第3の民主制モデルは、それらのコミュニケーションの諸条件であり、その条件に従えば、政治的プロセスは全範囲にわたって討議的様式をとるため、理性的結果を生み出すと推定されるものである。
    自由主義は、政治プロセズは利害関心をめぐる妥協形式であるとし、共和主義は民主的意志形成は倫理的自己了解という形で遂行され、共和主義的国家創設行為の儀式化された想起によって行使される背景的合意に支えられている。また、自由主義は社会と区別された国家を中心として政治を理解し、「理性的政治的意思形成というインプットではなく、国家活動による実りの多い成果というアウトプットを目指している」(279頁)とする。一方、共和主義は政治的にまとまった社会を形成し、民主制は社会の自己組織化となる。ここでは、社会を国家の中心と考える国家機構に対して攻撃的な政治理解が生まれる。
    「討議理論は民主的プロセスに、自由主義より強いが、共和主義よりも弱い規範的含意を結びつけ、さらに再度両者から要素を取り入れて、新しい方法で両者を統合する」(280頁)。すなわち、政治的意志形成・意見形成を中心とする点では共和主義と一致するが、法治国家の基本権と原理をコミュニケーションの前提条件を成すものとして、制度化する点で自由主義的である。また、政治を集団的行為能力を持つ市民層に頼るのではなく、手続き主義の制度化によって行う。
    また、社会全体といった概念も用いず、自由主義的な国家と社会の区別を重視し、討議理論は了解プロセスに関しても「一方で議会の制度化された審議形式(Form von Beratungen)のうちで、他方で政治的公共圏のコミュニケーションネットのうちで遂行される」(281頁)とする。すなわち、後者の主体なきコミュニケーション(subjectlosen Kommunikationen)が社会の領域において、重要なテーマについて非公式な意見形成・意志形成が行い、前者の「制度化された選択決定や立法府の決議に影響を与え、そうして生まれるコミュニケーション的権力は行政上の執行力をもつ権力へと変換される」(同上)

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    討議理論は、正当化と人民主権の問題についても自由主義、共和主義とは異なる結論を出す。まず、正当化の局面では「民主的意見形成・意志形成の手続きとその前提条件は、法と規則に拘束される政府と行政による決定の討議的合理化にとって、重要な水門として機能を果たす」(282頁)とされる。その合理化は権力の単なる正当化以上の意義を持つが、権力を構成する(Konstituierung der Macht)ほどの意義は持たない。
     一方、人民主権について、討議理論は脱中心化社会のイメージをもつことで答える。このイメージは、共和主義の憲法制定権力(konstituierende Gewalt)の議論、より現実的な自由主義の代替案が共に前提とする「全体およびその部分という考えを出発点とする国家構想と社会構想」(283頁)を否定する。この社会でも、政治的公共圏が社会における問題の探知・確認・処理のための場となる。しかし、自分自身を組織化していく法共同体においては、その共同体としての「自己」は主体なきコミュニケーションの中で後退し、その形式が「可謬的な結論が理性性の推定を受けれるように、討議的意見形成・意志形成の流れを整える」(283頁)のである。この後退により、人民主権はコミュニケーション的に生み出される権力として有効となる。「コミュニケーション的権力は、法治国家に制度化された意志形成と文化的に流動的な公共圏との相互作用から生まれる」(284頁)
     討議の政治は、法共同体に討議方式による社会形成を要求するが、この方式が社会全体に及ぶわけではない。「政治は、統合に機器をもたらす社会の諸問題解決のためにある種の保証を引き受けるので、たしかに、法という媒体をとおして、正当に秩序づけられた他のすべての行為領域とつながりを持ちえなければならない」(同上)とされるが、一方で政治システムも諸システムと並ぶ一つの行為システムでもある。ただし、政治システムは、他の諸システムの機能に依存するのではなく、合理化された生活世界のコンテクストとの内的つながりに立脚しており、「討議的に濾過された政治的コミュニケーションは、まさに生活世界という資源に頼らざるをえない」(同上)のである。


    ※[自由主義的解釈 ←→ 共和主義的解釈]のちがい、まとめ

    ・民主的プロセス
     私的な利害関心を束ね貫徹する機能 ←→ 社会的プロセスの土台で、倫理的な生活連関の反省形式

    ・国家市民
     個人の主観的権利。政治的権利は、自己の私的利益を実践する可能性 ←→ コミュニケーション権、参政権。市民が望むものになるための共同実践への参加を保証

    ・法概念
     個人の主体的権利から構築される ←→ 客観的法の個人の主観的権利に対して優先

    ・政治的プロセスの性質
     行政権力を意のままに行使しうる地位をめぐる闘争、戦略的行為 ←→ 政治的意見形成・意思形成は了解を志向する公共でのコミュニケーション的行為

    ・長所
     市民への法的保護により国家活動の適切なアウトプットを可能にする ←→ インプットでの、コミュニケーションを介してまとまる市民による社会の自己組織化

    ・欠点
     政治を取引に還元 ←→ 政治的討議を倫理上の問題だけに狭める

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