広島・長崎への原爆投下再考: 日米の視点

  • 法律文化社
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  • Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784589033116

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  • 広島、長崎の人々が、原爆を落としたアメリカに怒りを向けず、「原爆許すまじ」などと言って、怒りを核廃絶へ向かう姿勢にずっと違和感を覚えてきた。アメリカの一般見解は、原爆投下は、来たる本土決戦での犠牲を減らし、戦争を早く終結させるためであると言う。それはアメリカ軍兵士のみでなく日本人、さらには日本の侵略下にあるアジアの人々を救うためであったとも言われる。中国や韓国で、原爆は日本を懲らしめるためであった、当然だという声が出てくるのはそのためである。日本でも、原爆はしかたなかったのだという声はある。しかし、はたしてそうなのか。日米そしてアジアの多くの人の命を救うために広島、長崎の人たちが犠牲になっていいという論理はどこからでてくるのだろう。こんなふうに考えることは、人類にとって危機的なことではないだろうか。ぼくはずっと疑問を感じてきた。本書は、そんな疑問に立ち向かってきた日本人とアメリカ人の研究者たち、さらにはその周りの日米、さらにはカナダの学生の共同の成果である。原爆ははたして戦争終結を早めるのに役だったのか。筆者たちによれば、戦争終結を日本に決断させた決定的な原因はむしろソ連の参戦だという。アメリカは、日本を早く降伏させるため、ソ連に千島と南樺太をやると言ってソ連を参戦させようとした。しかし、アメリカは一方で、ヨーロッパから逃れてきた学者たちを集め原爆をつくらせていた。その原爆実験が成功すると今度はソ連の参戦が不必要になる。当初ソ連の参戦は8月15日とされていたが、アメリカが6日に広島に原爆を落とすと、9日に早められた。長崎への投下は9日で、これは事前に決まっていたようだが、広島はウラン原爆、長崎はプルトニウム原爆で、筆者の一人木村朗さんによれば、アメリカはこの二つをセットで考えていて、どちらも実際に試してみたかったのだという。それは、戦後のソ連に対する威嚇、抑止でもあったからである。こんなふうに、原爆は日本の降伏を早めるというよりは、アメリカとソ連の冷戦への幕開け、戦後の已むことのない核兵器の製造競争の序曲であった。日本を降伏させる方法の一つは、国体、天皇制の維持で、アメリカは最初ポツダム宣言では、これを認めなかった。それは原爆の製造が成功しないあいだは、日本に降伏をさせまいとする手であった。要するにアメリカは、巨額のお金を投じたマッハッタン計画を実行にうつしたかったのである。それは軍事的にも意味のあるものではなかったし、なによりも、倫理的にも許されるものではなかった。本書の共著者のアメリカ人カズニックは、アメリカでの原爆神話に挑むアメリカ人たちの研究を紹介するとともに、原爆投下をした爆撃機エノラ・ゲイの機長ティベッツ、そして他のクルーたちの戦後の言動を追いかける。本書は、送り火の日、京都の三条で入ったブックオフで手にした。3年前の出版なのに、すでに絶版になっていた。大勢の人々に読んでもらいたい本である。

  • 感銘を受けた。原爆が実験段階の中、トルーマンは天皇制を認めず無条件降伏だとして日本降伏を意図的に先延ばしにし、7月16日実験成功後、7月25日に原爆投下を決定。7月26日ポツダム宣言、天皇制を認め8月15日ソビエト参戦(実際は8月9日)が決定した。対ソ連のため、ソ連参戦前にウラン型(広島)、プルトリウム型(長崎)の2発は必須であった。ソ連参戦、天皇制維持が日本の降伏を導いた。戦争終結、日米の犠牲者を出さないためというのは、原爆投下を正当化するための意図的に形づくられ論調である。

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著者プロフィール

1954年北九州市小倉生まれ。鹿児島大学教員、平和学専攻。東アジア共同体・沖縄(琉球)研究会共同代表、日本平和学会理事。単著『危機の時代の平和学』(法律文化社)、共編著『21世紀のグローバル・ファシズム』『志布志事件は終わらない』『中国・北朝鮮脅威論を超えて』(以上、耕文社)、共著『「昭和・平成」戦後政治の謀略史』(詩想社)ほか。

「2019年 『大学による盗骨』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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