- Amazon.co.jp ・本 (212ページ)
- / ISBN・EAN: 9784591162439
作品紹介・あらすじ
私の血の中には様々な作家の物語が流れているが、
骨はこの「僕はかぐや姫」ただ一篇によって形成されているに等しい。
――宮木あや子(作家)
進学校の女子高で、自らを「僕」と称する文芸部員たち。17歳の魂のゆらぎを鮮烈に描き出した著者のデビュー作「僕はかぐや姫」。無機質な新構想大学の寮で出会った少女たちの孤独な魂の邂逅を掬い上げた芥川賞受賞作「至高聖所」。少女たちの心を撃ちぬいた傑作二編が、待望の復刊!
感想・レビュー・書評
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短い作品だけどなかなか読み進まない。
平易で読みやすいストーリーなのに一語一語に込められた思いが濃厚で、自ずと時間が掛かってしまう。「僕はかぐや姫」はそんな作品。
残りわずかな17歳の物語は、高校時代の自分と激しく共鳴する。濃厚なのは作者の思いではなく、呼び覚まされた17歳の頃の自分の思いかもしれない。
至高聖所は主人公が高校生から大学生に成長したためか精神のカタチが幾分ハッキリした感じがする。それに合わせて登場人物(姉や真穂)も多面的な表情を見せるようになった。男性は概して薄っぺらな気はするが、、、
舞台はおそらく作者の出身校である筑波大学。一度だけ行ったことがある。確かにバカっ広くて人が少なかったです。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
今から26年前の私が当時中学生だったころであった作品。上條敦士氏の表紙に惹かれ読んで衝撃を受けたことを思い出した。自分のことを「僕」と名乗る主人公に共感。表紙カバーが二重になっておりめくると色違いのイラストが現れる。長年絶版だったが復刊してくれて嬉しい。
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高校の部活動、大学の学生寮、それぞれの場所で、自分のありかを必死に探り、揺らいでいく女子たち。かつて自分も通った道であるからこそ、歳をとっても共感は大きいし、この小説群が出たばかりの頃に読めていれば、強烈な影響を受けていたに違いない。30年の時を超え、己の場所で、言葉と文芸と鉱物を手掛かりにして、激風に逆らいながらまっすぐに顔を上げる若き「僕」たちに、このかつての自分が味わえなかった衝撃を受け取ってほしい。
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とても大好きな本の一冊。
心の機微が丁寧に描かれていて、現実味のない人物設定ではあるが、妙なリアリティ、説得力がある。
ただ、読むことで心に寄り添ってくれる、安らぎを得られるような本ではなくて、心が抉られるような焦燥感が残る。
それは、アイデンティティとしての「僕」を確立しようとする少女に同情以上の情を抱いてしまうからなのか、それともこの主人公以上に自分がアイデンティティを持つことに対して現実的になっていないから焦りを感じされられるのか、もしくはその両方かもしれない。
ただ、外の世界を上手に生きていくのに必要な心構えというものが永遠にできそうにない、いまの自分の焦燥感がありふれたものに感じられた。
この本の言葉で「他人に誇れる年齢は3歳と17歳しかない」とあったが、やはりその歳を過ぎてしまったら自分の年齢に似つかわしい精神のあり方というものを、人は誰しも永遠に求めていかなくてはならないのだと思う。 -
センター過去問にも採用された本で、とても思い入れ深い一冊。脆くて鋭利で美しい、繊細なガラス細工のような文章です。
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突然読みたくなったので調べたら最近再販されてるじゃん!ポプラ社ありがとう。買うわ。
この人と鷺沢萌を読んで、私が表現したいことは既に世の中にある、と安堵と打ちのめされた気でないまぜになった学生時代…今読んだらどう思うのかなー
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いまよりもっと世間知らずで、なにも失われていなかった、あの頃に、この本と出会いたかった。
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表題作はそれぞれ、90年代に福武文庫で読んだと思うのだけどすっかり忘れていたところ今回ポプラ文庫から復刻、しかも表紙絵は福武版「僕はかぐや姫」の上條敦士のままで、このイラストのインパクトのあまりの懐かしさに再読することに。
「僕はかぐや姫」は、いわゆる「僕っ娘」である17才の女子高生・裕生(ひろみ)が主人公ですが、思春期の女の子の潔癖と葛藤を、主人公自身が冷静に分析しているので、ラノベ的ボクっ娘にありがちなイタさはあまり感じません。個人的に自分のことをボクとか言っちゃう女子が私はとても苦手なのですが、何を隠そう自分自身がかつてそういう時期があったので、要するに同族嫌悪的な気持ち。ハチクロ風にいえば自分が頑張って脱ぎ捨ててきた「青春スーツ」をいまだに身にまとってる子をみるとたまらなく恥ずかしく、必要以上に痛々しく思ってしまう心理ですね。もっとも私自身の場合、僕どころか俺、幕末小説の読みすぎにより最終的には「わし」までいって母親を嘆かせましたが、家族とごく親しい友人以外には普通に「私」で、高校時代のごく一時期のみでした。
読みながら、当時自分自身では言葉で説明できなかった気持ちを解き明かされていくようで、気恥ずかしい反面、言語化されてスッキリ。女の子である自分が嫌い、男の子になりたい、というのはほんの表面的な部分で、その下にはもっと深い色々がある。LGBTの悩みとは全く別物で、ただただ性別に左右されない透明で硬質なものになってしまいたい。裕生は「もっと純粋でもっと硬くもっと毅然とした固有の一人称」がほしい、と表現する。それが男子の一人称の中でもやや軟弱で中性的な「僕」という言葉にいきつくだけで。そして「女になること、おとなになること、さまざまな知恵をつけること」などに対して<僕>という一人称が「防波堤だった」と。
一方「かぐや姫」が象徴しているものは、裕生が10日間だけつきあった男の子が彼女に言う「かぐや姫って結局、男のものになんないのな」に集約されている。シンデレラや白雪姫、童話の中のほとんどのお姫さまは王子様と結ばれてめでたしめでたしだけれど、かぐや姫だけは、月から迎えが来て求婚者から去っていく。「迎えに来るなら今よ。今来なければ間に合わないよ。普通の大人になって、もう見分けがつかなくなってしまうよ」という裕生の独白は、だから切ない。こういうのは一種の自意識過剰や中2的万能感の変形だろうし、もっと端的に言えばピーターパン症候群なのかもしれないけれど、来るはずのない「迎え」を待つ心境、ここではないどこか、今の自分ではないもっと特別な別の自分への幻想を抱いた記憶はきっと男女問わずあるから刺さる。
ものすごく劇的な事件が起こるわけれはないけれど、裕生はじわっと「僕」を捨て「私」という一人称を受容していく。でもきっと今も自分の中にちょっと短気な男の子がいたりするんだよなあ。多重人格というよりはイマジナリーフレンドみたいに。読み返す価値のある名作でした。
「至高聖所」は芥川賞受賞作。大学の寮に入った沙月は、ルームメイトの活動的で奔放な真穂が苦手。しかし家族を次々に失ってきた真穂の複雑な生い立ちと孤独な内面に触れ、少しづつ理解を深めていく。演劇をやる真穂が自ら書いた戯曲の舞台となるギリシャのアスクレピオス神殿にある夢治療の場「至高聖所」、鉱物研究会に所属する沙月が愛している硬質な石たちの世界、近代的な大学都市の無機質さ、統一された世界観は好きだったけれど、こちらはあまり登場人物たちに共感はできなかった。