日本国史(上)

著者 :
  • 扶桑社
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  • Amazon.co.jp ・本 (189ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784594090951

作品紹介・あらすじ

最新の歴史研究を踏まえた「田中日本史」の決定版。日本史を各時代のエピソードを中心に通史で概観! *上巻は縄文から平安時代まで。

第一章・日高見国――縄文・弥生時代、関東にあった祭祀国家
第二章・天孫降臨――関東から九州へ、船で渡った瓊瓊杵尊
第三章・大和時代――神武天皇と日本の統治
第四章・飛鳥時代――日本人の神髄「和」の思想の確立
第五章・白鷗時代――律令国家の誕生と国家意識の確立
第六章・奈良時代――日本の古典を成熟させた天平文化
第七章・平安時代――貴族が極めた宮廷文化の頂点

※本書は平成24年刊行の田中英道著『日本の歴史 本当は何がすごいのか』(育鵬社刊)をもとに、最新の歴史研究の成果を踏まえ、大幅な加筆を行い刊行するものです。

感想・レビュー・書評

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  • 神武天皇は存在し、魏志倭人伝は逸話である。
    土偶で異形のものが多いのは近親結婚が多かったためという。同じ人型でも埴輪にはユダヤ教徒の型があり、中国や朝鮮系以外の交流もあった。当時東へ東へと突き進んだ結果日本の高度な社会が生まれた。そこには仏教より以前から神道があり、古墳が日本固有の文化だったことがうかがえる。なるほど、正直何が真実かはわからないが、教科書でしか学んでいなかったひと通りの歴史以外の史実も興味深く読んでてワクワクする。
    82冊目読了。

  • イマイチ歴史に疎い自分にとってはとても分かりやすく読めた。
    けどー、日高美国や縄文人の骨格はユダヤ人?「私が思うに!」の自説もかなりあって楽しめた。

  • 古墳時代以前の日本に「日高見国」(太陽が昇るところを見るところ、という意)があったとして、神武天皇やら色んな神話が説明できているところは、なかなかに説得力ありでした。

  • 古事記にある高天原は東日本の日高見国の事で、天孫降臨は鹿島から鹿児島に船でやってきたという筆者の説。
    当然古代の話なので完全な実証も反証も不可能だが、面白い。

    日本は大和が徐々に関東、東北を支配していったとの定説があるが、地球が寒冷期になる前の縄文から弥生時代にかけて東北に日本の原型となる国があり、これが高天原、つまり天照大神系の国だという。
    神話は単なるフィクションではなく事実を元にしているというのはその通りだと思わせる説得力がある。

    ただし日本という国を特殊化し賛美する言説に少し疑問は感じる。
    私も素晴らしい伝統をもった国だと誇りは持っているが、優れた民族という理解は危険であり、地政学的に特殊な環境がもたらした産物であると理解している。
    ジャレドダイアモンドの銃病原菌鉄を読んだ直後でもあり、特にそこが気になった。

  • ⚫︎日本の成り立ち
    埴輪がユダヤ人の特徴と酷似しているという宣伝があり、なんのことを言っているか興味があり、購入。
日高見国の話、人類がアフリカから東に移動して行った話、日本は東から西を征服していった話、古代日本は王がいて征服されている国家ではない話、卑弥呼の存在はない、など、一見すると、本当だろうかと疑問がわくような話だが、よくよく読んでみると、なるほどと思いました。
世界は人同士の争いを積み重ねて来たが日本は自然災害を積み重ねてきているということに共感を覚え、このような経験が日本人の性格の下地を作っているのだなと思いました。
また、蝦夷と征夷大将軍の戦いは一体なんなんだろうと、なぜ西の人達が正しいのか、かねがね疑問に思っていたが、蝦夷が日高見国の残りの人達である可能性があることから考えると、すっと頭に入り、長年の疑問、わだかまりも溶けた気がします。
歴史の解釈について固定概念がとれました。


  • 地図をいれてほしい。随所にいれてほしい。
    年表も巻末にあるけど様式美の変遷だけ。
    章の前後にぜひ年表を!世界史の併記もぜひ。
    参考文献なども全然載ってない。

    最初の方は知らないことも多くておもしろく、そうかもしれないと思いながら読みましたが、大和時代以降はかなり偏っている気が。
    じゃあそうなると前半もだいぶ信用ならんのではないかと思えてきて、読後感としてはモヤモヤしています。

  • 一人の方が各時代の特色を解説してくれる本に興味を持っています。歴史学者としては学会の中でどれほど認められるか私は分かりませんが、読者としては一人の方の視点で、日本史の各時代を解説してくれるのは嬉しいことです。最近の科学的な研究の結果も踏まえて解説されていて、数十年前に歴史を学校で学んだ私の知識がリフレッシュされました。

    以下は気になったポイントです。

    ・人間はなぜアフリカにとどまらず移動を始めたか、わざわざ気温の低い方角に向かったモチベーションは「太陽が昇るところに行く」ということだったと思われる(p25)地球は球形ではなく平らなものだと考えられていたので、太陽が登る方向へ向かうことが、理想郷へと向かうことを意味していた、太陽が憧れの土地希望の土地を示す指標になった(p26)旧石器時代の遺跡(主に3ー1万年前の後期旧石器時代の遺跡)は2010年集計で1万150ある、朝鮮半島では50程度。これは日本列島に人口が集中していたことを示す。発掘調査は群馬県みどり市の発見から始まるが、関東で発見されたことに意味がある、九州や西日本には少なく関東に多い。これは旧石器時代に日本にやってきたのは、太陽を求めてやってきた(p23)

    ・江戸時代まで天皇家と関係する神宮は3つのみ、大神宮(伊勢神宮内宮)、鹿島神宮(茨城県)、香取神宮(千葉県香取市)鹿島・香取神宮は、垂仁天皇の御代に建てられた伊勢神宮よりもはるか昔に創建されている、両者とも常陸国にある。(p33)

    ・文化というものは、人間にとって非常に重要なもので、その時々の製品のあり方が歴史を変えていく。土器に文様をつけるのは、食べ物に対する信仰があったから、食べ物を煮炊きすることは物質的な問題ではなく、信仰の一つ、自然を尊ぶという精神性がある(p39)

    ・縄文中期が5000年くらい前とすると、3000年くらいから気候変動が起こり寒くなってきた、それを原因として関東・東北に集中していた人口が南下し、西に向かい西日本の人口が増加する、これには海外からの移民、帰化人が入ってきたことも関係している、天孫降臨は、日高見国の中心である鹿島から九州の鹿児島へ移動していくことが始まりであった、帰化人から九州を守るため(p53)


    ・新しい歴史として2つ主張している、1)古墳時代以前の日本に「日高見国」(太陽が昇るところを見るところ、という意味p33)があった、2)神武天皇が橿原宮に都を置かれた後の時代(今は古墳時代と呼ばれている)を、大和時代と呼ぶことができるということ(p62)日高見国存在が忘れられたのは、記紀ができた8世紀前半頃までには関東にいた日高見国人々のほとんどが大和に移住して東国の記憶が薄れてしまったから(p70)

    ・日本武尊はまず九州に言って、隼人族(鳥の人を意味する)を討つ、隼人は関東から鹿児島にやってきた人たちの子孫と考えられる、それは鹿島・香取神宮と並んで東国3社と数えられる、息栖(いきす)神社と関わっているから。その神社に祀られている天島船命(アメノトリフネノミコト)は鹿島から鹿児島へやってきたとされる(p71)

    ・前方後円墳の円は「天」、方は「大地・土」を表す、古事記のいう天と地を、前方後円墳の中に描いているのではないか(p79)

    ・仁徳天皇陵は今でこそ内陸に位置しているが、もとは難波に着いた船から見える高台に作られていた、そこに日本国の繁栄を示し強大国であることを見せつけるためにあのような巨大な墳墓が作られたと思われる(p83)

    ・天皇にとって大きな転機となったのは、29代欽明天皇の時代である、大陸からやってくる人たちが急増した、当時の中国は五胡十六国時代をへて南北朝時代に入り、情勢が非常に不安定であり戦乱から逃れる目的で日本に渡来する人が多かった、552年(538年説もある)に、百済の聖明王は仏像と経典を日本の天皇に献上した、仏教の伝来である(p87)仏教が入って変わったことは、死の問題を個人の問題として捉えるようになった、これは人々が死者を共同体の神として崇めることから、個々人が「仏になる」と考えるようになったことである。日本では「神になる」ことは「死」と考えない、「仏になる」ことが「死」だと考える(p99)

    ・法隆寺は焼けたのではなく、そばに建っていた若草伽藍という建物であった、私たちが見ている法隆寺は再建されたものではなく、聖徳太子が建てたものである、もちろん聖徳太子の存在も疑いようはない(p101)

    ・仏教の寺院が建てられるようになると、巨大古墳が消えた、これはお寺がお墓の代わりもするようになったから、お寺にお墓が置かれるようになり人は死んで神になるという考えは「仏になる」という言葉に変わった、中身は同じ御霊信仰で、人々は神道と仏教を同じ感覚で受け入れるようになった(p103)

    ・中大兄皇子は都を近江の大津宮に移し、天智天皇になられ、全国の戸籍作成などの改革を行なった、崩御すると壬申の乱が起こり、弟の大海人皇子が天武天皇となった、この時代から日本人の食生活は、魚中心にタンパク質を摂る習慣となった、日本書紀には「牛、馬、犬、さる、鶏の肉を食べてはならない」と書かれている、これが食生活についての国家の方針であった(p112)これは、日本人は森を切り開き、広大な牧場を作る牧畜民の道を取らないで、農業をもっぱらにする民族となった(p112)

    ・当時は文化が中心の社会であった、経済性よりも文化を重視して人々は生きていた、多くの古墳を作る、仏閣を作る、経済性では推し測れない、文化が人間の生きる中心にあったからこそできた。利益が上がらないものは余計なものと考える現代からは想像ができない精神性の豊かな時代であった。ギリシア時代、ルネッサンスの時代、ゴシックの時代もそうであり、その豊かな精神性の中で、哲学・思想・科学が発達した(p115)

    ・日本が唐と大きく違っていたのは、国の政治を司る太政官と、神々の祭りを司る神祇官の2つの役所が作られたこと、天皇は政治の他に神事を行う役割を持っているが、これを神祇官が助け、政治は太政官に大きな権限が与えられ、天皇にかわって政治を行う役目が与えられた(p118)

    ・奈良時代の日本の人口は600、平城京は10万人、官僚が1万人いて、貴族は200人程度と推定される、東北地方はかつては日高見国といわれたが統治が行き届かなくなり、蝦夷と呼ばれる人々の土地となり、九州南部には隼人と呼ばれる人々が住む状況になった、九州北部には朝廷の出先機関として大宰府が置かれ、防衛と外交の任に当たっていた。この頃には、現在の国旗と同じ日の丸が生まれ、使われ、国家の歌詞もできて歌われていた、読み人知らず、として古今和歌集に収録されいている(p119)

    ・遣唐使は平均すると10数年に一回の割合で派遣された、これにより大陸の仏教、政治、文化が取り入れられた、しかし日本から一方的に唐に出かけていったのではなく、唐からも新羅からも使いが日本にやってきた、遣日使であり回数は遣唐使よりも多いほどである、日本の文物も大陸・朝鮮半島にもたらされていた(p124)

    ・日本は仏教を受け入れたが全て受け入れたわけではない、地獄、六道という概念、善悪をはっきりさせるような言葉はほとんど取り入れていない、中国、西洋には善悪を分ける二元論とい考え方があるが、日本でははっきりとした判断をしない、それでは正しい判断には繋がらないという認識があるから、二元論では世界が理解できないのは、自然を見ればわかるだろうという捉え方が日本の思想の原点にあるから、このような考え方が浸透していったのが奈良時代である(p127)

    ・聖徳太子による仏教の解釈書が日本の仏教の基本となっている、その上に立って聖武天皇の時代には、東大寺・興福寺といった新しい寺院が作られて、奈良時代の本格的な仏教文化が始まった、741年には国分寺建立の詔が出されて、日本中に国分寺、国分尼寺、がつくられた。神道を中心にしてきた日本の心の在り方を仏教の言葉で置き換えようとしたに過ぎず、神道の否定ではない(p131)仏教の言葉と目に見える現実をどう擦り合わせるかということで、その齟齬を埋めるために使われたのが、和歌・和文調というものであったのではないか(p132)

    ・万葉集が世界に類のみない詩歌集であるのは、作品と作者の数の多さ、その作者の層の厚さ、そして詩型の豊かさ、題材の豊富さである(p141)

    ・桓武天皇は蝦夷征伐を3度にわたり行うが、軍事遠征が百姓たちの負担になるとの建言を受け入れて中央の軍隊を廃止し、健児制を導入して地方軍事力を整備した(p153)さらに、それまで人を中心に課税していた税金を土地に課税する方向に転換した。これにより地方の氏族が独立性を保ち、土地と結びついた政治をするように仕向け、九州南部・東北地方など、律令国家の力が及んでいない地域にも統治を広げていった(p153)

    ・最澄は「山家学生式(さんげがくしょう志木)」を著し「大乗戒」を説いた、それまでの仏教は聖徳太子の在家の仏教重視にもかかわらず、出家者中心で出家者個人を救済することがお主になっていたが、大乗仏教は人々全てに仏性があるという考え方であった。最澄はこの考え方に立って、出家者だけでなく全ての人々を救済するのが仏教だと訴えた(大乗戒)こうして比叡山は日本仏教の中心地の一つになった(p162)

    ・神仏習合の動きとして説かれた「本地垂迹説」は、本地=本体、神の本地、すなわち本体が「仏」であり、仏が人間を救うためにこの世に現れたのが「神道の神」という考え方である。それぞれの神に特定の仏を当てはめた、天照大神の本地は「大日如来」、石清水八幡の本地は「阿弥陀三尊」など(p166)

    2022年9月17日読了
    2022年9月24日作成

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著者プロフィール

昭和17(1942)年東京生まれ。東京大学文学部仏文科、美術史学科卒。ストラスブール大学に留学しドクトラ(博士号)取得。文学博士。東北大学名誉教授。フランス、イタリア美術史研究の第一人者として活躍する一方、日本美術の世界的価値に着目し、精力的な研究を展開している。また日本独自の文化・歴史の重要性を提唱し、日本国史学会の代表を務める

「2024年 『日本国史学第20号』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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