日本国史(下)

著者 :
  • 扶桑社
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感想 : 8
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  • Amazon.co.jp ・本 (206ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784594090968

作品紹介・あらすじ

最新の歴史研究を踏まえた「田中日本史」の決定版。日本史を各時代のエピソードを中心に通史で概観! *下巻は鎌倉時代から現代。

第八章・鎌倉時代――武家政治が生み出した仏教美術
第九章・室町時代――現代に継承される日本文化の誕生
第十章・戦国・安土桃山時代――西洋文明との邂逅
第十一章・江戸時代――百万人都市が育んだ庶民文化
第十二章・明治維新――西洋文明との格闘、そして独自性の追求
第十三章・日清戦争から大東亜戦争まで――近代化された日本の戦争
第十四章・現代に続く日本文化の財産

※本書は平成24年刊行の田中英道著『日本の歴史 本当は何がすごいのか』(育鵬社刊)をもとに、最新の歴史研究の成果を踏まえ、大幅な加筆を行い刊行するものです。

感想・レビュー・書評

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  • 歴史書は多くの史実から考察をしなければならない自分から歴史を思索することは大事なことと思う。

  • ⚫︎日本の精神
    上巻が楽しく読めたので、続きで購入。下巻は鎌倉時代から。
日本は前の時代のものが破壊されず、断絶がなく、続いている特徴がある。士農工商は縦ではなく、横のつながり。文化は社会に余裕があるから生まれるのでは決してなく、文化により、戦争が終結に向かうこともある。などなど、歴史から読み取れる事実から、著者の解釈がなるほどと思うことが多かった。
秀吉はイエズス会が日本を征服しようといていることを確信し、バテレンを追放、また、朝鮮や明への出兵は、秀吉が世界を征服しようとしたのではなく、スペインからの侵略からアジアを守るためだったとあり、秀吉の晩年の挙動がいつもおかしくなっていることに、疑問を持っていましたが、これを読んでスッキリしました。
日本人は西洋人と考えや文化など、全く違うもの。それは西洋を真似せよということではなく、日本人独自の精神、言葉、考えをよく知り、それを出していくことが大切だと感じた。

  • 鎌倉から現代にかけての続編。しばらくは教科書になぞるような内容だったけど、幕末あたりから雰囲気が違ってきたかな。
    まぁ、賛同できるかはさておき、一部なるほどと思う部分もあった。ただ、日本の良さは確かに理解したけど、日本を過剰に持ち上げるところまでの感情は伴わなかった。そういう捉え方もあるのね、と読んだ。
    84冊目読了。

  • 上巻に比べると、普通の歴史書に思える。
    著者が美術史専門だからか、文化の話が多い。
    写真、図版があればもっと楽しめる本になるのに。
    私は、日本好きなので、保守的な本も抵抗なく読めるが、自虐史観で育った人はそもそも歴史が嫌いでこういった本も読まないと思う。

  • 昭和の部分に少し右傾化、ナショナリズムのようなものを感じたけど、上巻から通して読んで、求めていた日本人観のようなものが整理できたような気がする。特に、自然との共生、神道と仏教の根付き方、そして、神仏習合の考え方がこの本を通して読むことで自然に受け入れられた気がします。もう少し深めたい気がしました。
    少し気になったところ。
    ・本来、仏教は個人宗教として自己の罪を悟り、それを自己陶治によって克服する自力本願が原点でした。ただ、祈れば救われるということになると、仏教徒は増えますが、本来の仏教が持っている部分が失われることになります。
    ・中国やヨーロッパでは、政権交代がそのまま歴史の断絶を作っています。それは支配する民族が変わるせいでもありますが、日本には文化と伝統を断絶させない一つの思考のパターンの連続性があると思います。それは日本の自然信仰、自然道の力です。
    ・(元寇の時の)国土防衛の態度は、自然に対する態度とよく似ています。受け入れて防ぎ、侵害しようとしないのです。こうした受け身の態度は日本人の生き方の原則になっています。
    ・「自由」があってこそ、「文化」が生まれ、階級よりも「役割分担」の社会があったからこそ、長い間「社会」が安定してきたのです。
    ・政治は必ず精神的な支柱が必要で、その中心的な役割を天皇が負っている。
    ・天皇の権威があって初めて政治が安定する。
    ・能には日本的な表現の極北があると思われるのは、音量信仰や自然信仰と仮面劇が上手く折り合って表現されている点です。
    ・「もののあわれ」や「わび・さび」は、その背後の強烈な人間主義の表出を日本人好みの言葉のあやで表したもので、それは西洋の人間主義とほぼ同じなものです」

  • 読み物としては面白い。
    日高見国が東日本にあり、そこから高千穂に船で移動したという説明。つまり天孫降臨はフィクションではなく事実だったとの説。
    古代史は少ない証拠から解釈や推論するしかないので一つの説として興味深い。
    ただ現代に近づくほどエビデンスなしでアメリカやユダヤの陰謀が断定されてるのが受け入れにくい。

    賛成できるのは日本文化は歴史が連続しており、西洋と違い分断がない。西洋的な進歩史観で理解するのは間違い、というところ。

  • 先程レビュー書きましたが、この本は下巻です。内容は鎌倉時代から昭和時代(大東亜戦争)までについて書かれています。

    以下は気になったポイントです。

    ・平清盛は1167年太政大臣となり平氏政権を打ち立て、藤原氏に取って代わったが福原遷都など無謀な動きをして没落を早めた、1180年の治承の乱では、南都の宗教勢力の鎮圧にあたった平重衡が民家に火を放ったところ風に煽られて燃えひろがり、東大寺の大仏、興福寺が焼失した、この奈良の焼き討ちは人々の反感を買った。源頼朝が平氏討伐を呼びかけると、各地の源氏が平氏打倒の兵をあげた(p12)

    ・鎌倉時代の特徴として公的な歴史書が書かれなくなった、吾妻鏡は鎌倉という関東の新たな勢力の歴史を書き留めたもので、六国史のような天皇を中心とした官邸の歴史を書いたものとは異なり、天皇の存在は無視されている、承久の変の後は、皇位継承問題に幕府が介入、実質的に支配するようになり皇室の力を失わせる結果となった(p14)

    ・鎌倉幕府は、平氏のように朝廷に乗り込んで支配しようとしたが、京都の朝廷・荘園・公領はそのままにして、幕府と主従関係を結んだ御家人を守護・地頭として地方に送り込んで、治安を維持する形をとった、朝廷が送った国司・郡司はそのままだったので一種の二重支配となった(p15)

    ・奈良京都の文化圏から遠く離れた鎌倉に幕府を置くことにより、新たな武士や庶民の文化が花開いた、相続には分割精度が採用されて所領は細分化された。それにより土地から上がる収益が少なくなったが、代わりに貿易・物資の交換が始まり貨幣経済を発展させた、これは鎌倉中期から、土地もお金で売買するようになった。府の部分としては、貨幣経済の発達により没落する人が多くなった、そして1297年に永仁の徳政令を出した、土地を売ってしまって税金が払えなくなった御家人たちの救済であった(p17)

    ・頼朝は平泉の戦い(藤原氏を滅亡)にて京都とは違った文化があることを発見、平泉のさまざまな寺社、庭園を模倣して鎌倉に取り入れた、鎌倉の養福寺、永福寺は、奥州合戦で戦死した源義経、藤原泰衡らの鎮魂のためにつくられたが、それは平泉中尊寺の二階大堂に習っている、鎌倉文化はまさに平泉の影響で作られた(p21)

    ・天皇は三種の神器を保持されているが、神勅によれば、3つの徳(鏡:正直、玉:慈悲、剣:知恵)の本源を表すものであり、これは日本の道徳の原論である(p42)

    ・1338年足利尊氏は北朝の天皇から征夷大将軍に任じられた、北朝によって承認されることで幕府には正当性があるとした、これ以降15代1573年に足利義昭が織田信長によって追放されるまで235年間足利氏が将軍職を務める、これが室町時代である(p45)足利義満(3代)の時、1392年南北朝の合一となった、京都の室町に「花の御所」と呼ばれる豪華な邸宅を建てて、そこで政治を行なったので室町幕府と呼ばれた(p47)義満は将軍として初めて、天皇から太政大臣に任命された、天皇から任命されて将軍が地位につくという原則は変わらなかった、これは特筆すべきこと、天皇の権威があって初めて政治が安定するのが日本の国のあり方である、律令時代以後、一貫している(p47)

    ・コロンブスの出航したのと同時期にレコンキスタが終わって、イスラムと共存していたユダヤ人がイベリア半島から追放された、コロンブスはイタリアジェノバ出身のユダヤ人である、コロンブスの航海は彼がスペインから追放されたという裏の意味もあった、その結果、アメリカ大陸の発見につながった(p69)

    ・秀吉の太閤検地により土地の階級と石高を示す検地帳を作らせた、それまでの公家、寺社の荘園に見られた複雑な権利の重なりを整理し、一地一作人の原則を作り上げ、農民の土地の所有権を認めた、年貢は石高に応じて村が一括して納める制度にした(p78)

    ・支倉常長はスペイン、ローマまで遠征した、帰り道にマニラに寄って、スペインがオランダに敗れる戦いを目にした、スペインやポルトガルでなくオランダと通商を行うことを幕府が決めたのも、支倉の使節がもたらした情報であったことは、その後の経緯からも理解できる(p83)

    ・寺子屋(庶民教育)において生徒の親は入学金(束修)と月謝(月並銭)を払い、正月・盆暮・節句には御礼を出すのが慣わしであった、入学の時期は江戸では2月初めの「丑の日」が習慣であった。だいたい7−8歳から、元禄期からは町人や女性(3人に一人)も先生をした(p95)高等教育は対象は主に武士の子弟であったが、優秀な町人や農民が入校する道も残されていた、頂点にあるのが幕府直轄の昌平坂学問所出会った。試験は、素読吟味と学問吟味、前者は口頭試問で四書五経の暗記、後者は筆記試験で内容の解釈や説明であった(p97)

    ・農民は副業を営むことができ、それは課税されなかった、幕末の寛永の頃には、農民が納める年貢率は全収入の1割、多くて3割になっていた、年貢は人々の暮らしを良くするための交響施設の基盤整備に使われた、堤防の構築、道路整備、港湾施設の拡充など、武士の特権である「切り捨てゴメン」は中期以降は不可能になり武士に非があれば奉行所が処分した(p107)

    ・日本が明治以降、強力な外敵の侵略に耐えられた理由は、薩英戦争で善戦したことになる、この理由はグラバー紹介から武器を買っていたから(p130)

    ・江戸城の無血開城の思想の原点は、神話の時代に天照大神と大国主命の間で行われた国譲りにあったと考えられる、自国内の争いを避けてきたのが日本が外国から侵略されなかった理由である、内戦は外の勢力が入り込む大きな要因となる(p137)

    ・1868年9月に年号は明治と改められ、天皇は京都から東京に移った、江戸城が皇居となり明治維新が始まったが革命ではなかった、革命とは過去を断絶する改革だが、この改革は過去の連続性に立ったものである(p139)

    ・西洋諸国の抗議により明治6年(1873)に耶蘇教禁止令が説かれてキリスト教が認められると、神仏分離令(1868)も実情にそぐわないと理解されるようになった(p143)

    ・福沢諭吉が「学問のすすめ」の中で言っていることは、西洋の学問を学べと言っているが、根底にあるのは、取り入れられるものを取り入れ、違うものは違うと認識するのが大事であるという考え方である(p146)

    ・明治4年に、太政官は、正院・左院・右院となり、その下に八省をおいた、民部省から公部省が分離、刑部省が司法省へ改変された。8年には、左院は元老院となって立法、右院は大審院となって司法を司ることになり、三権分立のおおよその形ができた(p157)

    ・大政奉還とは律令制の復活、それ以前の長い期間、権力を中心とした政治が続いていたが、今後は権威を中心として新たに歩むことを決めたのが大政奉還であった(p158)

    2022年9月17日読了
    2022年9月24日作成

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著者プロフィール

昭和17(1942)年東京生まれ。東京大学文学部仏文科、美術史学科卒。ストラスブール大学に留学しドクトラ(博士号)取得。文学博士。東北大学名誉教授。フランス、イタリア美術史研究の第一人者として活躍する一方、日本美術の世界的価値に着目し、精力的な研究を展開している。また日本独自の文化・歴史の重要性を提唱し、日本国史学会の代表を務める

「2024年 『日本国史学第20号』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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