美を生きるための26章――芸術思想史の試み

著者 :
  • みすず書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (456ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622074502

作品紹介・あらすじ

ラスコー、埴師、屈原、敦煌莫高窟、蕪村、大乘寺、北一輝、ジャコメッティ、フーコー、…太古から現代まで人類知を照らしつづける26の星座。圧倒的な知性と教養で読み解く、美と芸術の歴史。

感想・レビュー・書評

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  • 西洋近代が辿った美の道筋を丁寧に紐解き、その古層の価値を説きつつ、別の道もあったことを明かし、我々の視野を幾重にも広げてくれる。

    答えの出ていない「弱さ」への眼差しをゴッホを通して書いたところが良かった。

  • 私塾<土曜の午後のABC>
    語り方はアルファベット順にAからZまでの頭文字をもつ人物を選んでいくことにした。

    美を考えることで我々のもっと深い部分に目を向け、生き方に関して考え直す。

    既成の知識に依存してその断片を手に入れると、すぐわかったつもりになるように仕組まれている現代人の生活の中でもう一度時間の無駄遣いを惜しまず与えられたお仕着せの知識の体系をほぐして、夜空の星座のように散らばせて改めてどんな読み方ができるか、いろいろと考えてみることがとても大切だと思った。

    古代、人間は幸せであることを願って努力した。しかし近代に自分と世界が対立関係に入ったとき人間は「人間の本質とは何か」を自問しなければいられなくなる。「人間とは何か」「自己とは何か」
    この問いの中で幸福を求めることの虚偽性に気づく。かつて人々が世界=神の導きに従って生き努力していればいつか幸せになれると信じていたころ、人間の本質は神が保証してくれた。しかし今は自分の力で本質を探求しなければならない。そこで幸福の代わりに自由が浮上。
    こうして自由こそ人間の価値の最上のものであるとされた近代。

    ルネサンスーアラブ世界とヨーロッパの知識の地位が逆転した。ヨーロッパの一点中心主義。
    20世紀ヨーロッパではキリスト教を信じる人口が急激に減少、逆に人間の神的能力の産物は絶大な憧れと崇拝の対象に。典型的には芸術。神が信じられなくなって逆にブランドや人間を神格化が過激化。人間中心主義。

    産業革命以降は技術力を駆使して世界の支配者になろうとし、人間--自己が世界--他者を自由に操れるという欲望の虜になり、その実力を拡大していく。現代はそういう欲望の果てに満たされたあとの空虚な拡散を収拾仕切れない混乱と暴走の状況。
    人間中心主義に供えられたある種の謙虚さ、人間は世界を測る尺度であれという謙虚さは暴走して世界を一つだけの目で見るように。

    不用意というのはある一つの定まった道に固執しないという意味、型にとらわれないということをまず言っている。俗に住み俗の言葉を使いながらも俗を離れようとするにはそういう不用意が大切。

    三遠ー見上げる、見下ろす、見はるかす

    生の中心が心臓から脳へ移行していくのが進化。自分の問題を考える重心を心情から精神へと移行。

    フーコー
    「快楽の使いかた」
    知る意味があることを自分のものにしたいという好奇心ではない。むしろ自分自身が執着していることから離脱しようとする好奇心。人生にはいま考えているのとは違う見方ができるのではないか、いま見ているのとは違う見方があるのではないかと問うことが物事を見つめ思索し続けるために避けられない問題となる、そんな時がある。

    文体が複雑なものからシンプルなものに。
    狂気の歴史:理性が狂気を排除する。
    自分の問題を抱えつつその眼差しを同質の別の問題へ移行させ、移行させることによってそれぞれの個別の問題を個別の問題として囲い込まないレヴェルへ引き上げようとした。



    ジャコメッティ
    世界の始まりにたつ:誰かの口真似でなく、その都度始めから考え直す。問題の初源へ意識を連れ戻して、その問題の歴史的現在的な課題を白紙のところから見つめなおす身構えを作る、ということの他につねに自分の思考と表現作業を自分自身の仕事として、最初からやり直すという意味も含んでいる。これを怠けると本当に見掛け倒しのかっこいいだけの仕事に。
    なにごとかを制作するということは熟練するほど、この手が素材に向かい合うときの初原への意識は忘れ去られていきます。当然のこととして行為と意識の奥底へ吸収され、身についてしまうことによって意識をする必要がなくなる。ジャコメッティは自らその「熟練」を壊そうとした。(前提や機械作業を疑う感じか)

    世界とはそもそも無意味で空虚でしかないのでは?それに意味や本質を与えたのは人間なのではないか。世界がそもそも無意味なら、自己もまた無意味な存在にすぎないのではないか。そこに描きだしたものを自己の表現といえる根拠はなにか。

    タブローが書き出す世界は一つの解釈でしかない。それは無意味な世界へ孤独な画家が投げかけた問い以外の何者でもない。揺るぎない自己が掴まえてみせた普遍的な世界像ではない自己をも一つの無意味な対象にすぎないのであれば。

    人間であるとは何か、の最も初源の姿を書き出すこと、言い換えれば、現在という地点からどこまで既成の人間像を解体しきれるか。

    枠組みーフレームはかつては世界を再現させる場として画家たちにとっての支えだったけれど、いまやジャコメッティにとっては、ものや現象の意味を問う入り口にしかすぎない、と言っていいものになった。

    人間は自分の過去や現在に対して断層を持つことによって存在している(実存とはそういう状態)という。その意味で人間はいつも不安にさらされている。この不安は自分が何者であるかわからないというところからやってくる不安なのですが、根源的な不安。

    その不安から逃れようとして人間はみんな自分の与えられた役を懸命に演じている。しかしそれは自分の姿を自分に対して偽る自己欺瞞にすぎない。そういう欺瞞から脱出するために、断層の彼方にある過去や現在へ否定を投げつけて未来へ向かって現実に身をさらしていくことが要求される。自分が何者であり、世界とどのようにかかわるかを決定するのは自分自身しかいない。

    過去と未来の裂け目に立つ対自存在。

  • 素晴らしい本

  • 木下長宏は、まったく未知の人物でお名前も存じませんでした。何号か前の「新潮」誌の、四方田犬彦の連載「」に言及されていたのを見て興味を持って読んでみる気になりました。筆者は、京都芸術短大を経て横浜国大を2005年に退職され今年70歳の近代芸術思想史の研究をされています。あるいは美学というか美術史というか、

  • -「美」や「芸術」の活動は、その時代のその場所で人びとが感じ、考えたことの結晶である

    蕪村、フーコー、ジャコメッティ、イエス、ラスコー、プルースト、幸田露伴、ゴッホ・・・アルファベット順に26の人物、事績を語っています。これを読んでおくと「なかなかやるなーおぬし、知的レベル、めちゃくちゃ高いのう」と言われちゃうかも。

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著者プロフィール

同志社大学大学院時代に『岡倉天心』(紀伊國屋新書)を書き、以後岡倉に関する論考多数。著書に『岡倉天心』(ミネルヴァ日本評伝選)『美を生きるための26章』)(みすず書房)『名文に学ぶ文章作法』(明石書店)ほか。

「2013年 『新訳 茶の本』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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