文化と社会: 1780-1950 (ミネルヴァ・アーカイブズ)

  • ミネルヴァ書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784623052141

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  • 本書は、産業革命以降に起こった、イギリスにおける政治・経済的諸制度と学問・教育・芸術活動の諸目的の関係と思考様式に全般的な変化が起こったことを立証するものである。
    イギリスの思想史を、社会制度と文化の面からまとめているため、内容は多岐に富んでいる。
    特に思想家の著作からの抜粋は非常に多く、イギリス思想家の名文集といった趣すらある。
    以下は内容を忘れないためのメモ書き。

    18世紀末から19世紀前半にかけて、現在につづく言葉が、新しい意味をもって用いられるようになった。
    インダストリー・デモクラシー・クラス・アート・カルチュアがそれである。

    インダストリーとは、もともと「熟練・勤勉・忍耐・精励」に言い換えることができ、人間の一属性を表す言葉であった。18世紀末からは、製造ならびに清算諸制度又はそれらの諸活動一般を集合的に表す言葉となった。
    「諸国民の富」の著者アダムスミスは初めてこの言葉を用いた著作者のひとりであった。

    デモクラシーとは、ギリシャ以来「人民の統治」を表す名辞として知られてきたが、アメリカ独立戦争・フランス革命の頃になって、一般的に使われるようになった。

    クラスとは、もともと倫理学および哲学における組み分けや分類を表していた。社会的な意味をもつクラス(階級)の意味をもつのは、近代的構造がつくりあげはじめられた18世紀末以降である。

    アートとは、本来「技能」という人間の一属性を意味するものであったが、ある種の諸活動を意味するようになっていった。それは「想像的」あるいは「創造的」諸術を意味するようになった。これ以降、アーティストとは選り抜きの技能の所有者のみを指すようになった。
    アートとは、「創造的真理」を表すこととなり、1840年代以降は新しい人間のことを述べるのに用いられるようにもなった。

    カルチュアとは、自然成長物の手入れをすること(栽培)を意味し、ついで類推により、人間の訓練の過程の意味にも使われるようになった。
    後に、人間完成の域という意味と密接に関連し、「精神の一般的状態もしくは習慣」、「全体としての社会における知的発展の一般状態」、「学芸の総体」、「物質的・知的・精神的生活の仕方全体」を示すようになった。

    ◆エドマンドバーク
    バークは、放任された人間としての人間は邪悪であるということ、あらゆる人間的徳行は、社会の産物であり、「技術が人間の本性である」とした。人間に固有の人間性を具現して保証するのは、歴史的共同社会である。人間の諸権利は規制される諸権利を含んでいるという考えに立った。
    それは以下の言葉によって確認することができる。
    「政治というものは、人間の諸欲望について配慮するために、人間の英知が考案したものである、これらの欲望の中には、市民社会から生まれた欲望、すなわちかれらの諸事情を十分に規制する欲望がかぞえられるべきである。
    社会は、個々の人間の情念が服従されるのを要求するばかりではなく、さらに個人はもちろん、集団や団体の場合にも、その人々の傾向がしばしば阻害され、その意思が統制され、その情念が服従されるのを要求するのである。
    これは、彼ら自身から生じた権力によらなければ不可能である。そしてこの権力は、それが実際に機能する場合、個人の意志や団体の情念に従属されるはずはない。というのはこれらを制御し、抑制するのがそれの本来の任務である。この意味において人々の被る諸規制は自由と同じように、その権利のひとつと考えられる」

    人間の進歩は、抽象的な意味での歴史的共同社会によるばかりではなく、彼が生まれた、特定の共同社会の性質にもよるのである。このことからいかなる人も逃れることはできないし、個人で変化することはできない。
    「社会は一つの契約である。たんなる一時的の利害を目的とする低級な契約は勝手に取り消すことができるだろう。しかし、国家というものは、胡椒やコーヒーやタバコなどの交易またはそれに類する低級な事業の合資協約と同じように考えられてはいけない。それは些細な一時利益のために形成されたり当事者たちに気まぐれによって解消されたりならないものである。国家は普通の合資会社とは違った尊敬の念をもって見られなければならないのである。一時的で死滅する性質をもっている下品な動物生活のみに役立つ事物を対象とした合資事業ではないからである。それは、すべての科学の合資事業であり、あらゆる美徳を有し、最高に完成された合資事業である。かような合資事業の目的は、幾時代を経ても達成されえないから、それは現に生存している人々の間の合資事業ばかりではなく、すでに世を去った人びとや、将来生まれてくる人びとの間の合資事業ともなるのである」

    人間完成に無くてはならない代理人として国家の観念を定礎した。そしてこの観念にのっとって、19世紀の攻撃的個人主義はとがめられねばならなかった。


    ◆ウィリアム・コベット
    コベットは、新しい社会の階級構造が出現しつつあることを認めていたように、その結果階級闘争に終わることを見抜いていた。
    「労働者たちは、賃上げを成就するために団結する」
    主人たちは彼らに対抗するあめに団結する。一方が地方について文句を言うが、どちらの側もこの騒ぎの原因を知らず、この騒ぎが続けられる。いろいろの職種のものが団結し、それを総連合と名付ける。
    そのようにして、ほかの階級にてきたいするために合体した、社会の一階級が生まれる」
    コベットは、伝来の財産権が彼らの唯一の財産という観点から、自己の地位を理解することを望んだ。


    ◆ロバート・オウエン
    オウエンは「工場制度の影響に関する考察」において、
    「我が国のすみずみにまで普及した製造業は、わが国民のなかに新しい性格を生み出している。この性格は、個人の幸福にも社会全体の幸福にも都合の悪い原理に基づいて形成されたものである。だからもし立法的干渉と指導とによって取り押さえなければ、この性格はもっと悲惨な永久に続く害悪を生み出していくだろうと思う。すでに工場制度は大英帝国一面にその影響を及ぼしてきており、人民大衆の性格全般が根本的に変わってきた。この変化は、まだまだ急速に進んでいるこんな調子でいけば、あの農民たちの人の好い素朴な心は我が国民から失われていくであろう。どこへ行ってもお目にかかるのは、商売・製造業・大商業の生み出した習性の混合物だと言えそうである」
    とし、あらゆる我々の困難の原因を人間性にではなく、社会構造の中に求めることで、政治経済学者と対立した。

    オウエンの主張は以下の2点にまとめられる。
    1)生産諸条件の変化は、生産者である人間に根本的変化をもたらしている。
    2)産業革命はかような大変革であり、事実上新しい種類の人間というべきものをつくりだした。

    問題は新しい道徳的世界を選ぶか、無秩序を選ぶかであった。これは社会工学の問題であり、彼の基本原理は、
    「適当な手段を用いれば、どんな一般的性格でも、最善のものから最悪のものまで、もっとも無知なものからもっとも知識あるものまで、どんな社会にも、広く世界にさえも与えることができる。しかもその手段の大部分は、世事に影響力をもっている人びとが意のままに支配している」というものであった。

    産業革命は、政治的・社会的・経済的変化は、勿論、芸術・芸術家及び社会における両者の地位に関する考え方が根本的に変化したのである。
    1) 主要な変化が著作家と読者との関係の性質に起こったこと。
    2) 従来とは異なる「公衆」にたいする習慣的態度が定着しつつあったこと。
    3) 芸術作品は、生産一般と全く同一の諸条件に従いはするが、いくつかの特別な製品の一つとみなされるようになったこと。
    4) 想像的真理の座としての芸術のすぐれた実在性を唱える理論がますます重みを増していることが容認されつつあったこと。
    5) 独立の著作家、つまり自律的天才の観念が一種の定則になりつつあったこと。

    この変化に反応したのが、イジャートン・ブリッジス卿で
    「文学がヨーロッパのいたるところで全く商売となっていることは恥ずべき弊害である。これほど堕落した趣味を育て無知なものに識者にまさる力をあたえたものは、これまでなかった。新価は、今日では一般に、著者が引きつけうる読者の多数によってはかられている。無教養な精神が、教養あるものを楽しませるものを賞賛するだろうか」
    同様にトム・ムーアは、
    「審判者集団の拡大から、市場が著者たちのことから必ず生ずるにちがいない基準の低下」について語った。ここで彼は大衆と教養ある少数とを区別した。
    市場や専門家制作の観念がしだいに重要となることが容認されたこの時代に、芸術に関する思考体系も成長したのは確かである。
    その体系のもっとも重要な諸要素は、「想像的真理に至る手段としての芸術活動の特殊性の強調」であり、「特別な種類の人間としての芸術家の強調」である。

    産業革命に向かう社会の発展が脅かしているとか破壊していると感じられる、人間的な価値・能力・活力が芸術のなかに具現されていることを強調することであり、新時代を画しつつあるような文明に対する反対につながった。
    ロマン主義は、全ヨーロッパ的運動であるので、新しい諸観念をヨーロッパ志向の総体における偉大な観念体系に位置づけることも可能である。


    ◆ジョンステュアート・ミル
    ジョンステュアート・ミルのコウルリッジについての論文は19世紀の思想史の最も注目に値する記録のひとつである。
    功利主義的立場と理想主義的立場との両方の真理を吸収し、取捨選択することによって統合しようとするミルの試みは、イギリス的思考の歴史(特に社会と文化)に対する序曲である
    「人類は、文明によってどれほどの利益を得たかという問題を例にとってみよう。ある観察者は、物質的安楽品の増大、知識の進歩と普及、迷信の凋落、相互交通の利便、風習の柔和化、戦争や個人的闘争の衰退、強者の弱者にふるう専制の制限の漸増、民衆の協力によって地球のいたるところに成就された偉業、これらの事実によって強烈に感銘を与えられる。そうして彼は、あのきわめてありふれた人物である我が文明時代の礼賛者となるのである」

    「他の観察者は、これらの便益がもっている価値にではなしに、これらの便益を得るために支払われた高価な犠牲に、その注意をそそぐ。すなわち、個人の活力と勇気の衰弱、堂々とし自らを頼む独立心の喪失、人類のきわめて多くの部分の人工的要品にたいする隷属、彼らが女々しくも苦痛の影をすら逃避しようとしていること、彼らの生活の退屈無刺激な単調さと彼らの性格の熱情なき無味乾燥と鮮明な個性の欠如、きまった仕事をきまったやり方で果たすことに費やされる生活によって生ずる狭い機械的な理解力と、すぐに目的に応じた手段を採りうるかどうかによって自己の生存と安全とが刻々と決定されてゆく森林の住民の多様な能力との著しい相違、富や社会的地位の著しい不平等がもたらす道徳的退廃、文明諸国の人民の大多数がその欲求は野蛮人の場合とほとんど同じくらいにしか満たされていないのに、野蛮人が代償として有している自由と刺激の代わりに、無数の足かせに縛られ苦しんでいること、などである」

    ジョンステュアート・ミルの「文明」についての論点は、産業主義に対するものとも言える。
    初期功利主義は、貴族階級の諸特権に向けられた改革を通じて自らの増大する力の確認を求めていた。新興中産階級に適切な教説であったし、新しい生産方法に相応しい諸価値によって染められていた。
    イギリスにおいて、初期の功利主義が産業革命初めの諸段階に照応する政治的社会的諸制度を造り出すのに役立った。しかし、富や社会的地位の著しい不平等をもたらしたのも事実である。

    ジョンステュアート・ミルは、世論と民主国家とに対する諸個人と諸少数者の権利の保全であり、多数者専制に対する危険を意識していた。
    また産業革命の第一期の成功の結果生じた、自由放任的商業主義による、国民生活支配の危険性を指摘。
    「口達者な経済学者の卑しむべき民主的寡頭政によって支配されることに比べれば、貴族的政治の最悪の形態のほうがよっぽど有り難いものであろう」
    とし、功利主義改革の諸方法と諸要求を、台頭する労働者階級利益へと拡張することならびに、個人的自由と民主主義的統制手段とを調整しようと努力することが彼の晩年の仕事となった。
    彼は、社会制度の面からは、国民教育制度の拡大によって十分保証されると考えていた。


    ◆トマス・カーライル
    トマス・カーライルは、産業革命以降に起こった、生産諸方法おける変化について、
    「あらゆる方面で、生ける職人がその仕事場から追い出されて、より迅速な非人間的職人に席を譲っている。織り機の杼は布織工の手を離れ、より早く働かせる鉄の指にかかっていく。力のこのような付加は、社会制度にいかなる変化をもたらそうとしているかということ、どのようにして富はだんだんと増大し、同時に大きな固まりへと集中していき、旧諸関係を奇妙に改変し、富者と貧者の距離を拡大していくのかということが政治経済学者の問題となるであろう。しかもそれは彼らが今まで取り扱ったいずれのものよりも、はるかに複雑で重大な問題であろう」

    トマス・カーライルは、こういった変化が人間自体にも大きな変化をもたらしていると持論を展開。
    「外面的・物理的なもののみにとどまらず、内面的・精神的なものも、今や機械によって管理されている。同一の習性がわれわれの行動様式ばかりではなく、思想や感情の様式も規制している。人々はいかなる種類の個人的努力にも、自然力にも、信仰をもてなくなっている。人々が希望し苦悶するのは、内面的完成のためではなく、外面的結合や協定を、諸制度・諸組織を求めてのことである」
    外的なものへの執着がもたらした欠陥であるとし、以下の持論も展開。
    「宗教は少量の地上の楽しみを、はるかに大量の天上の楽しみと交換しうるかもしれないという、たんなる計算に基づいている賢明な用心深い感情なのである」

    「肉体的にも最強力なものにたいするこのような崇拝は、文学全体に広がっている。我々は作品を真実だと思ってほめるのではなく、力強いとほめるのである。我々の最高の賛美は、その作品が我々を感動させたということである」

    「我々の優れた道徳性とは、むしろ劣悪な犯罪性という方が正しいのである。それは、美徳を多いに愛することによってではなく、警察を、そしてあの世論と呼ばれるはるかに微妙で強力な警察を完備することによってつくりだされるのである」

    彼は、社会を主導する原理は、強力な指導者とそれを崇拝する臣民という原理を展開した。当代に特徴的な社会的諸関係がもたらす精神的空虚さを「人と人とのつながりとして、現金払いの関係があるにすぎない」とし、「一人立つ強者」という英雄像を創造するに至った。
    そして、英雄的目的・高邁なる使命は、その最終表現を産業的階級社会の理想化された人間関係概念の中に見いだすのである。

    カーライルは、民主主義を自由放任精神の表現であると考えていた。自己の利害を自由に追求しうるような、秩序と統治の解消とみなしている。
    彼は、社会の再編における貴族階級の指導権を期待していたのである。


    ◆マシュー・アーノルド
    マシュー・アーノルドは、人間の本分を「完成の追求」とみなす伝統的観念に依拠していた。彼は人々の好きなようにする自由が、個人的主張が唯一の基準となる精神的無秩序の危険と、新興の階級がその権力をふるったときに起こる社会的無秩序の危険とを察知していた。
    彼の立場は、産業主義の根本的批判および貧困と苦悩の証拠の累積に対する伝統文化的反応と一致している。

    彼は、全般的完成の代理人として国家を推奨した。
    そして実際問題として、国家の中心をどのように構成されるべきか、ということについて、各階級を順々に調べた。
    貴族階級は、その特有の長所が現状擁護の職務の必要からつくりだされたものであるという理由で、階級としては役に立たなかった。
    中産階級は、外面的文明への執着のため役に立たなかった。
    労働者階級は、できるだけ早く俗物になることだけを願って、退廃的・粗暴的存在であり、暗黒の貯蔵所であるかに見えた。
    「しかし、この権威をどのように組織すべきであるか。あるいはそれを行使することを、だれの手に委ねるべきであるか。社会の正しい道理を集約し、事情によっては、それを強力に発動させる国家をどのようにして得るべきであるか」と、困難な問題を残しながらも、諸階級にとって超越的な機関としての国家が必要であると結論したのである。

    アーノルドの自由に対する考え方を表すものに
    「自由主義者は自由を信奉する。自由とは国家の不干渉を意味する、しかしそのような理想はまだ我々から前途ほど遠いところにある。それを無限の距離に遠ざけるその手段は、国家があまりに早くその活動を撤去することであろう」とした。
    「権威と光明の中心」としての国家が、権力と尊厳を人々の諸特権を保護する道具でありながらも、中産階級はこれに反発して、国家権力を縮小することにのみ努め、無規制の個人的活動から生まれてくる自然法則へ完成をゆだねることを示している。
    ただし、彼は無政府状態を支持していたのではなく、秩序がなければ社会は存在し得ず、社会がなければ人間の完成はありえないとした。



    アーノルドが「完成の追求」を社会制度において模索したように、同時期において、芸術面からも同様のアプローチが展開された。

    ◆ウィリアム・モリス
    ウィリアム・モリスは、芸術の社会における有用性として、「労働者に充実した合理的な生活という真の理想を提供することが芸術の本領である」と定義した。
    彼は、資本主義体制の終焉と社会主義の設立を望んだ。
    「強制を後楯とする自由放任という旧式のウィッグ流の混乱状態を、公共の利益のための能率的行政に取り替えること」が、ウィリアム・モリスの社会主義であり、諸産業は自治体によって営まれ、その管理を商業投機家かの手から解放することを目的としていた。

    本書においてまとめられているのは、大衆が客観的に存在するという幻想から脱却して、人間と諸関係についてのいっそう現実的で、いっそう積極的な概念に向かって進んで行くことが、実際は新しい自由を実現させることであるという主張である。
    そして、読み手に対するメッセージとして、
    「今なお改変しつつある諸勢力は、産業と民主主義である。この長い革命を理解することは、それに到達することが用意でない意味の水準にある」ということなのだろう。


    最後に興味深かった記述を2つほどメモしておく。

    ◆ウォルター・ペイター
    「芸術は、過ぎて行く我々のせいの瞬間に、しかもそれらの瞬間のためだけに、最高の価値のみを与えることを率直に約束するからである」

    ◆アリック・ウェスト
    「文学の価値は、文学が社会的活力の組織を維持し変更するという事実から生ずる。我々は、同じ種類の活力を自身の中に覚醒させることによって価値を認識するのである」

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著者プロフィール

1921-1988年
元 ケンブリッジ大学教授。作家、批評家

「2020年 『テレビジョン テクノロジーと文化の形成』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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