石橋湛山:思想は人間活動の根本・動力なり (ミネルヴァ日本評伝選)

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  • ミネルヴァ書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (424ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784623080922

作品紹介・あらすじ

戦前は東洋経済新報社でリベラル派の論客として活躍し、戦後は政界に転身、吉田内閣蔵相などを経て自民党総裁、首相となる。日中米ソの平和同盟を構想するも、病により退陣を余儀なくされる。本書では、湛山の思想・言論・政策を丁寧に辿り、今日に改めて問いかける。

感想・レビュー・書評

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  • 石橋湛山の生涯を、特に政治家に転身してからの動向を詳述している。吉川弘文館のほうは「脱ナショナリズム」の側面を強調していたが、こちらの方はその点は控えめで自由主義者として戦前、戦中を貫き戦後は政界でその実現に努めた姿を丁寧に描いている。
    石橋湛山は若い時に哲学を専攻したからか、何事も根本に立ち返って自らよく考えた。その結果が様々な主張としてあらわれたが、中でも日米中ソ同盟論は日本の置かれた状況を的確に踏まえた出色の議論であろう。

  •  本書は石橋湛山(以下,湛山)研究の第一人者であり,現在,立正大学石橋湛山研究センター長でもある著者による本格的な人物評伝である。
     言うまでもなく湛山は,戦前期においては『東洋経済新報』(以下,『新報』)の主幹として自由主義の立場から一貫してその主張を貫いた人物であり,戦後は政治家として首相にまで上り詰めた。首相としての在職期間は短かったが,その後も1973年に88歳で没するまで世界平和のために尽力した。
     湛山の代表的な主張のひとつは「小日本主義」である。帝国主義的な領土拡張論が主流であった戦前期にあってこのユニークな主張がいかに形成されたのか。そして,戦後にそれは継承されたのか。第一に読者が興味を抱くのはこの点であろう。第二には,湛山の積極財政主義,新平価解禁論など様々な経済論について,同様の興味関心がある。
     本書はまず湛山の青年期の思想形成について述べる。日蓮宗の僧であった実父の杉田湛誓は,早くに省三(湛山の幼名,18歳の時に改名)を母方の親戚に預ける。育ての父親も僧であった。そのような環境のなかで湛山は仏教的寛容の精神を自らのものとしていく。さらに早稲田大学で田中王堂からプラグマティズム思想の影響を受ける。また東洋経済新報社(以下,新報社)の入社面接の際,副主幹格であった三浦鐵太郎に提出した論文は,福沢諭吉論であった。福沢の思想と湛山のプラグマティズムの共鳴が感じられるエピソードである。
     湛山が新報社に採用されたときの主幹は植松考昭であり,三浦とともに自由主義・民主主義・反帝国主義の論陣を張っていた。1912年,植松の急死後,主幹になった三浦は翌年「大日本主義乎小日本主義乎」「満州放棄乎軍備拡張乎」を発表,同時期に湛山も『東洋時論』に「小日本主義」などの新語彙を用いて外交論を展開した。しかし,三浦が唱えた満州放棄論の「満州放棄」とは日本の国防線を旅順および朝鮮国境まで後退させるとの意味であったが,のちに湛山はそれを「(朝鮮・台湾を含む)植民地全廃論」にまで昇華・体系化させていった。そこに「三浦と湛山の見解の根本的相違があった」(p.78)。また湛山は,同時期の論客であり大正デモクラシーの旗手であった吉野作造の民本主義よりもさらに徹底した国民主権論,民主主義論を展開した。
     湛山の思想がさらに深化していく契機となったのは第1次世界大戦であった。湛山は第1次世界大戦後の国際連盟,平和秩序構想に大きな期待を寄せる。湛山に取って大戦の結果は帝国主義の没落と民主主義の勝利であった。ケインズの『平和の経済的帰結』(1919年)の主張に共鳴し,いち早く日本に紹介もしている。ワシントン軍縮会議を契機に太平洋問題研究会を設立したのも大戦後の世界が太平洋,中国をめぐって大きく展開することを予想したからであった。湛山は,この時期に中国問題に起因する日米戦争の危険性を指摘するなどの時代を先取りした論を数多く提示するとともに代表的な論説「一切を棄つるの覚悟」「大日本主義の幻想」も発表し,世界自由貿易による小日本主義の主張をより鮮明にしていった。
     湛山のこうした主義主張がいかに形成されたかを解く手掛かりは,新報社を拠点とした人的ネットワークの広がりに求められよう。もちろん湛山個人の能力(湛山は,『新報』担当になった後,独学でミル,スミス,リカードー,マルクス,マーシャルなどを読み漁り,その思想理解を深めた)も大前提ではあるが,知の拠点としての新報社にはさまざまな人々が集ってきた。のちにそれは1931年の経済倶楽部設立に繋がった。
     1924年,湛山は東洋経済の第5代主幹,25年に代表取締役専務(社長制は1940年以降)に就任する。この時期の湛山の言説は,金解禁論争に向けられた。なぜ金解禁だったのか。大戦後,世界は国際的な平和秩序をどう再建するかという問題に国際連盟設立などをもって対応したが,国際経済の安定には金本位制の問題を避けて通れなかったからである。それゆえ23年のジェノバ国際経済会議では各国の金本位制への復帰が決議された。日本も金本位制への復帰を旧平価でおこなうことが政府の方針となった。
     湛山が懸念したのは政府が方針とした旧平価での解禁が急激な円切り上げを伴い,日本経済に大きなダメージを与える可能性があることであった。そこで湛山が相談したのは1918年に新報社に入社していた高橋亀吉であった。高橋はグスタフ・カッセルの購買力平価論に寄って平価を切り下げるしかないとアドヴァイスを与え,湛山もそれに直ちに同意したという(p.117)。しかし,浜口民政党内閣は旧平価解禁を断行した。湛山は金解禁後も金本位制の停止もしくは新平価への切り下げを主張し続けたが,結局,民政党政権が瓦解するまで金再禁止は実現できなかった。湛山がこの論争を機に言論に限界を感じたことが,戦後の政界進出にも大きな影響を与えた(p.123)。
     1931年末からの高橋財政期に湛山は,低為替放任,赤字公債発行などによる高橋のインフレーション政策を全面的に支持した。また同時期に『新報』の売り上げが3倍増になったのみならず,名声を得た湛山は政府の各種委員会委員に選出されることも増加した。政官界に人脈が形成されることで戦後の政界進出への基盤が形成されたのである。
     二・二六事件で高橋財政が潰えた後も湛山は,日本の外交政策を厳しく批判した。なかでも注目すべきは1940年に実際に満州を訪問し,その見聞に基づく満州経営批判を展開した点であろう。基本的に湛山の小日本主義の主張は,理論面から主張されたものであったが,実地の調査に基づく主張はより湛山の確信を強める結果となった。
     しかし,軍部の益々の台頭は言論の自由に対する脅威となって現れた。湛山は,こうした脅威に対して婉曲的な表現を用いつつ抵抗を続けた。それでも戦局の悪化に伴い,紙やインクの制限を受けて経営の危機に瀕したが,政界,官界,はては軍部の中にも湛山を支持する声があったため,かろうじてその難局を乗り越えることができた。また1934年に創刊された英文雑誌『オリエンタル・エコノミスト』創刊は湛山のリベラルな主張を海外に知らしめる役割をはたし,戦後GHQの湛山に対する印象,評価にも影響を与えた。より直接的な戦後への連続性としては,1944年7月に小磯国昭内閣成立後,湛山発案で組織された戦時経済特別調査室の役割が重要であった。ここで湛山は荒木光太郎,大河内一男,中山伊知郎らとともに日本の敗戦後の構想を極秘裏に練った。世界経済機構案などの広大なスケールをもったこのプランは,まさに湛山の「小日本主義」の発展形態であった。
     戦後,湛山は衆議院選挙に立候補し,政界に打って出た。選挙では落選したものの,第1次吉田茂内閣の蔵相に抜擢され,復金融資を主とするインフレーション政策を実行した。しかし,この政策はGHQが許容するものではなかった。湛山は1947年に公職追放となった。湛山が公職追放になった理由について本書は,湛山の経済政策がGHQに意向に沿わなかったことのほかに,戦時補償をめぐっての対立,吉田茂との確執などを指摘している。単純に経済政策面での対立には還元できない部分があったわけであるが,筋金入りの自由主義者であり,戦後民主主義の担い手の代表とも言える湛山が,不当にパージされたのは日本の戦後史にとって不幸なことであった。
     しかし,それでも時代は湛山を必要としていた。反吉田派の鳩山内閣が成立すると通産相を務めた。本来,蔵相であってもおかしくなかったので,通産相は不本意であったが,湛山は日ソ,日中の貿易改善に尽力した。鳩山後継を選出する1956年の自民党総裁選では3人の候補者が立ち,初回の投票では2位の湛山であったが,2回目投票では7票差で岸信介を破り,首相となった。しかし,健康を害して短命政権に終わってしまったことは戦後日本の歴史を大きく変えていくこととなった。もし湛山が長く政権を維持していたとすれば,どうなったか。衆院を解散し総選挙で政権基盤を強化できたとすれば,湛山の積極財政論はそれなりに効果を上げたであろうし,高度経済成長が早まったかもしれない。何よりも対米依存一辺倒から脱却した自立的な外交路線を確立できたかもしれないと著者は述べる(p.303〜4)。
     本書の副題は「思想は人間の活動の根本であり,動力である。其の善いか,悪いか,換言すれば其れが能く国民の活動を自由にし,盛んにし,生活の向上発展を齎すものであるか,何うかに由って国家社会の栄枯盛衰は決定する」という湛山の言葉から取られている。では,湛山自身の思想の特徴は何なのか。著者はそれを湛山イズムと名づけ,「自由主義と個人主義」,「合理主義と現実主義」,「実利主義と民主主義」,「世界主義と平和主義」といった4つの原理があり,それらが湛山の「特異な言論や行動の起爆剤となった」と総括する(p.342)。
     21世紀の現在,世界は狭い自国中心主義に回帰し,さらには非寛容な宗教が跋扈するようになっている。湛山は「世界政府」を構想し,実際に中国やソ連との交流を深めて少しでもそれに近づくよう努力した。「小日本主義」はナショナリズムに翻弄される時代にあえてそのナショナルな利害を極限まで狭めて考えようとした思想であった。現代の我々が湛山の思想から学ぶべきことは多い。
     以上,非常に豊富な内容を含む本書を評者の問題関心を中心に要約しつつ論評してきた。言及すべき論点は多々残されているが,最後に1点のみ付け加えておくと湛山と同時代に生きた人々との比較の観点が弱いことが気になった。「評伝」という本書の性格上やむを得ないところであるが,湛山一人が決して孤高の存在であったのではないことは留意しておきたい。

    『社会経済史学』第84巻2号(2018)掲載

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著者プロフィール

立正大学名誉教授、前東洋英和女学院大学教授、平和祈念展示資料館名誉館長。
1947年生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程修了。法学博士。
専門分野:日本政治外交史。
主要著作:
『石橋湛山研究―「小日本主義者」の国際認識』(東洋経済新報社、1990年)、
『公職追放―三大政治パージの研究』(東京大学出版会、1996年)、
『自衛隊の誕生―日本の再軍備とアメリカ』(中公新書、2004年)、
『マッカーサー―フィリピン統治から日本占領へ』(中公新書、2009年)、
『ニクソン訪中と冷戦構造の変容―米中接近の衝撃と周辺諸国』 (編著、慶應義塾大学出版会、2006年)、
『大日本帝国の崩壊と引揚・復員』(編著、慶應義塾大学出版会、2012年)、
『周恩来キッシンジャー機密会談録』(共監訳、岩波書店、2004年)、ほか多数。

「2019年 『南方からの帰還 日本軍兵士の抑留と復員』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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