よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書 30)

  • 未来社
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  • Amazon.co.jp ・本 (394ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784624932305

作品紹介・あらすじ

批判的合理主義の巨星、カール・ポパーの思想的エッセンスを集約しそのパースペクティヴを与える講演・エッセイ集。ここには知識について歴史についてその他さまざまなテーマについて折りにふれて探究された十六篇の講演とエッセイが有機的に配列されている。知識人や科学者のありかたをめぐって現代世界に向けて鋭い批判の矢を放つポパーの精神が躍動する。

感想・レビュー・書評

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  • 敬愛するポパーの著作。FacebookやGoogleなどのIT企業は世界の透明性を高めることを志向しているようだが、いち早くその問題に取り組んでいたのは他ならぬポパーその人である。もうひとつのキーワード「オープン化」についても「開かれた社会ー開かれた宇宙」(未来社)の対談集でコメントしている。

  • !注意!
    きつい言葉を使用した長文感想なので、読む場合は注意してください。









    『開かれた社会とその敵』以後のポパーの集大成のようで非常に満足した。
    戦後のポパーの講演集がもとで、全部で16章。
    開かれた社会と閉じた社会、知による自己解放、歴史崇拝批判、科学崇拝批判、にせ予言者、3つの世界論、知の源泉、知と無知などポパー哲学のエッセンスが凝縮されてて分かりやすいし面白い。
    どれも非人間的で不寛容で全体主義的な閉じた社会を批判し、人間が自由と安全を確保しつつ前に進んでいくためにはどうしたらいいかを提示するものとなる。ポパーの提示する少しずつの改革は、カリスマ指導者!必ず繁栄する革命的巨大計画!のようなロマンチックなものではなく、無名の人達がお互いの間違いを見つけあって少しづつ進んでいくという、ある意味ひたすら地味なものだ。彼はロマンチックなものは全体主義・独裁に繋がるとして拒否する。
    というかポパーがこんなに講演をしていたとは知らなかった。彼は「講演する哲学者」だった。
    訳者の一人である小河原誠氏が岩波文庫版『開かれた社会とその敵』で、ポパーの論理が欧州の左派勢力に対してすさまじい破壊力を発揮したと述べているが、あながち言い過ぎではないように思える。これだけ定期的に学者や知識人や権力者の前で(あるときはオーストリア大統領臨席のもとで)以下に感想を述べるところの理論や理念を提示していたなら、その影響力は過少に評価すべきでないと思う。そしてこれはポパー自身が15章で述べている通り、相手を説き伏せようとか、ましてや正義を振りかざして自分の考えを押し付ける、といった行為ではないことが重要だ。

    ■3つの世界論について 1章、7章、12章

    人類はいかにして自然淘汰(選択を誤った生物は容赦なく抹殺される)を克服したのか。
    それは、確実性を追求せず真理の探究を目指したことによる。人間のあらゆる知識は論理学と数学の狭い世界をのぞいて不確実であり、容易に誤り得る。誤りは許容する必要がある。絶対に誤らない権威ある情報源など探求しても割に合わない、真理と確実性は鋭く区別する必要がある、という、ポパーが一貫して主張するテーゼによって。

    ポパーの「3つの世界論」とは
    世界1:物理的世界。生命あるものと生命のないものが区別され、緊張、運動、力といった特殊な状態や過程が含まれる世界
    世界2:意識的か無意識かは問わない経験の世界。
    世界3:人間の精神が客観的に生み出したものの世界、書物・交響曲・芸術作品・日用品・乗り物・コンピューター…人間の精神活動によって計画された、あるいは欲せられた生産物の世界。

    世界123の系列はその古さによる。生命のないものが一番古く、生命のある部分が生まれ、そして体験の世界が出現し、人間と共に精神の産物の世界、文化と呼ばれる世界が出現した。
    ダーウィン主義の自然は残忍な世界像だ。爪と牙で容赦なく私達に襲い掛かってくる。これは私達と脅迫的に対立している見方。一方ポパーは、自然を「私達の自由を拡張するような可能性」として叙述する。自然が与えた問いに生物は回答を用意することで自由が拡張される(生物は光という関係において提起される問いを設定し眼を構築した。眼のおかげで生物の活動能力が飛躍的に向上したことは疑う余地はない。注目すべきは『開かれた社会』の頃のポパーはベルクソンを批判していたが、晩年のポパーはベルクソンを肯定的に評価しているということ。問題を設定し解く行為において本質的に規定されるのが生命、としたベルクソン-ドゥルーズに接近しているように思えるドゥルーズ『ベルクソニズム』)
    ポパーにとっては自然は敵対的ではなく友好的なものになるし、有機体は受動的ではなく能動的だ。有機体は持続的に問題解決に従事する。「生命とは問題解決である」38ページ
    ここで世界2を見てみると、意識というのは実は「評価し識別する意識、問題解決に従事する意識」だったということになる。その生命と意識が生み出した最大のものが言語。これのおかげでただ人類だけが、批判的な議論を通じて、自分達の理論に関して、それが客観的に真理であるかどうかを吟味するという一歩を成し遂げた。
    これが画期的だった。
    人類は批判を生み出したことで、理論の意識的な選択、意識的な淘汰が自然淘汰に代わって案出された。
    間違った理論を提出した人間ごと淘汰するのではなく、誤りの探索で間違いを見つけ役に立たない理論だけを殺すことによってその人間は生かすことに成功した。
    これは世界123がそれぞれ自律しているから可能になる。要するに批判するときに、論理と人格が分けられる。間違った論理を批判されたからって、その人の人格まで否定されることはない。私達が批判を厭うのは、間違いを指摘された時人格まで否定されたように思うから、また実際誤りを許容せず人格ごと否定するような人がいるから。

    ポパーは世界3という非物質的な世界は実在するという。そして世界2を媒介にし物質世界に多大な影響を及ぼす。例えば別の話になるが、知識人とされた人達の理論・教説・理念がときとして戦争や迫害、大量虐殺を起こした事実を私達は思い浮かべることができる。

    つまり、批判なくして知識はあり得ない。この意味で動物は知識を持っていない。46ページ
    ここに、なぜ批判を封じ込めてはいけないのか、自身への批判を弾圧する独裁者が間違っているのか理由の一つが述べられている。独裁者は人間でありながらいまだに自然淘汰を克服できない獣に戻っている。

    世界123の相互作用により実在が形成されていく。実在が最初からありそれを私達が探求するのではなく、私達が作品を通じて実在を創造する。人類が空を飛べるようになったのは、空を飛びたいという夢から始まった。歴史の法則でそうなったのではない。飛行機の出現は空を飛びたいという夢の全く予測不可能な帰結だ。私達の計画と帰結を完全に予測できる、と想像してはならないし、私達が全面的に確信してる理念のために、自己犠牲を強いたり、説得する権利はない。上述のごとく人間は誤りうる。他人がその生命を、理念のために犠牲にすることを強いられる必要のない世界を追求することが、よりよき世界を求めることの一部にならなければならない。

    ■にせ予言者にご用心 6章、10章、15章

    「没落する!」「衰退する!」「楽園がやってくる!」
    といった大それたことを自信満々に声高に主張することで脅迫し、私達の未来をその一つの道しかないように誘導していく人達への批判。

    これは、ポパーが一貫して批判しているヒストリシズム(歴史の法則的展開の必然性を信じる立場)で、私達は私達には分からないリズム(有名なのはヘーゲルの正反合の3拍子のリズム)に乗せられて動かされており、それに抗う術はない、といった考え方。そして「楽園がやってくる!」系の予言者の特徴の、社会の全体系を準備し、指揮し、社会生活全体を規制することを強要されていると私達に向かって言うことは、ユートピア主義的計画を避けがたいものにしている「歴史的な力」により、私達を脅迫する試みである、ということは常に念頭に置いておくべきだろう(『ヒストリシズムの貧困』岩坂彰訳142ページ)
    ここに彼らがやたらと自信満々で声高な理由がある。彼らには、人々が気づかない法則を発見した、つまり自分は他人よりも多くのことを知っている、という知識人が陥りやすい悪徳、うぬぼれや独善とも言われるが知的虚栄心が潜んでいる。

    ポパーの批判は、私達が確実性などというものを手にすることは不可能だということ。私達が誤りを犯さなかったと全面的に確信できることはない。測定して事実を積み上げていけば客観的になるのでは、と思われるが、科学的探究は事実の蓄積ではなく、厳しく批判され検討されうる理念からなる。私達は推測で我慢しなければならない。そして科学者は自分がいかに誤る人間であるか、そして真理からほど遠い場所にいるのかよく理解しているので謙虚であって、大言壮語はしない。
    別の角度からの批判は、私達が没落するか進歩するかは私達次第、というある意味当たり前のこと。彼らの言う法則というのは初期条件に依存するトレンドのことで、初期条件が変化または消滅してしまえばトレンドも消滅する。例えば西欧は今でこそ平和だが、かつては戦争ばかりしていた。ずっと戦争や闘争がトレンドでマルクスもその事実を大量に蓄積したことで勘違いしたが、いがみ合うのを止めてみんなで仲良くしよう、という理念を据えた。そうしたら完全に無くなったわけではないが、ぱったりと戦争が消えた。これは歴史法則でそうなったのではなく、西欧の人々が自分達でこうしようとして実現した。差別や迫害についても同じことが言えるだろう。

    歴史的に未来は決まってるとか、歴史になすすべもなく動かされる無力な人間という見解や予言者風の大言壮語は、科学的でもないし、私達自身が努力すべきな事柄に対して怠惰にしてしまう。そしてこの怠惰がさらに進行すると、全体主義や独裁、人間の知力の抑圧に繋がっていく。なぜなら確実な法則によって未来を予見できるということは、しかるべき時にしかるべく用意されている将来の権力者の側につくことができるということだから。予言者と権力者のタッグで容易に独裁体制に移行できる。

    にせ予言者から学ぶべきことがあるとすればそれは、予言は恣意的で偶然的だが「強力な宣伝効果は持つ」というところ。理念の持つ精神的威力は絶大なものだ。知識人とされた人達の理論・教説・理念がときとして戦争や迫害、大量虐殺を起こした事実を私達は思い浮かべることができる。だとするならば、逆もまたしかりなのではないか?
    人々が歴史の中にある法則、闘争の法則等を読み取るのではなく、人々の方が歴史に人間に相応しく政治的に可能な意味や目標を与えるといった。なぜなら客観的であったがままの過去の歴史など存在せず、あるのはただ「権力者の歴史」だからだ…。

    ■知による自己解放について 9章、10章

    知による自己解放の理念をポパーはカントから受け取った。

    「未成年とは、他の人の指導がなければ自分の知力を使用できない無能力のことである」
    「他の人の指導なしに、知力を使用する決断と勇気の欠乏にあるならば、未成年の状態は自ら責めを負うべきものである」
    カント『啓蒙とは何か』

    私達は知によってのみ精神的に解放される。誤った理念・偏見・偶像の奴隷とされている状態から。
    逆に言えば、ここを権力者が解放しなければいつまでも民を未成年の状態に縛り付けておくことが可能。ただそれは人間ではない、獣の社会だ。それは理念と人間が同一視されている状態。世界2による世界3の批判・検討が不可能になっている状態。全体主義独裁の国を論理的に描写するとこのようになるだろう。
    私達は理念からは分離されていなければならない。その上で理念を常に批判できるようにしなければならない。批判というのは誤りを探すことだが、独裁者はこの道を塞いでいる。自身の理念の誤りは探させない、なぜなら絶対に間違いなど犯さないと思い込んでいるから。ポパーはこのような状況を狂信と呼び禍と呼ぶ。しつこいようだが、何度も言うと、間違いを犯さない人間などいないからだ。理想の支配者やカリスマと持ち上げられてる人も例外ではない。というかそういう権力を一手に集中させた人物が批判を受けず野放しになってることほど恐ろしいものはない、ミスによる被害者数も桁違いになるからだ。

    知による自己解放とは、このような狂信からの自己解放といった理念でもある。間違いを見つけてそれを修正するからこそ人間は進歩する。創作するとき一度も作業を誤らず完成する人はいるだろうか。私は何度も間違いを見つけ何度も修正してやっと完成する。間違いがあってもそれに目をつぶり自分は間違ってない!などと強弁することはできない。

    話を戻すと、しかし狂信からの自己解放といっても難しい。なぜならそのような狂信状態で元々批判が困難だったうえ、その手のカリスマが死去した後はたいてい神格化され(現代のミイラ化も閉じた社会への回帰のように思える)、さらに批判など不可能になるからだ。ここにポパーが、悪しき支配者が現れた場合合法的に平和裏に排除できる民主主義体制を支持する理由がある。そうでないと流血沙汰以外に排除できなくなり、知による自己解放不可能状態になり、獣の状態から抜け出せなくなる。

    ■科学崇拝と理想的で誤ることのない知識の源泉 1章、2章、3章、4章、5章、9章、15章など

    ポパーは科学を尊重するが、科学主義者ではない。科学主義者とは自然科学の方法とその成果の持つ権威を独断的に信じ込んでいる人。ポパーは科学崇拝を批判したが、これもカントに負うところが大きい。
    カントはコペルニクス転回によって、道徳の立法者を神(自然)から人間へと転回した。自然にああしろこうしろと命じられてるのではなく、人間が自分達に相応しいように自分達で道徳律を確立させるのだ。これも知による自己解放、自律の理論。ここからどういう結論が引き出されるかというと

    「われわれは権威の命令には決して盲目的に従ってはならない」211ページ

    道徳の立法者として、超人間的な権威であろうと盲目的に服従してはいけないという。
    たとえ神が出現しようと、権威の下す命令がはたして道徳的であるか非道徳なのか、私達自身が判断する。盲目的に服従するということは、この責任を放棄することになる。

    そして偉大な自然科学者は皆謙虚だった。ニュートンは自分は浜辺で遊んでいる子供にすぎない、真理の大海原は全く見つけられずに横たわっていたと述べ、アインシュタインは一般相対性理論をかげろうのごときものと呼んだ。彼らは、科学上の問題解決は、常にまた多くの未解決の問題を提起することを知っていた。つまり自分はなんて知らないことが多いのだろう、というあのソクラテスの洞察に行きついた。理想的で誤ることのない支配者がいないように、理想的で誤ることのない知識の源泉も存在しない(どのような情報だろうといつかは批判を浴びて時代遅れとなる。もし戦争を起こした情報源が間違っていると後で気づいたらどうなるだろか…)
    こうして見てみると、ある科学者達が結束し巨大組織を作り上げ、自分達の成果を権威化し批判をできなくさせるような科学崇拝的な行為は思い上がりも甚だしいし、とんでもない間違いをしでかしてるのではないかとも思うし、ポパーの懸念は残念ながら現在当たっているのではないかとも思う。111ページ

    ■自らに封印を施し反論不可能にしてる体系(人物)は何も語っていないに等しい

    ここまで帰結。
    私達はいつでも誤り得るし、確実なものなどない。私達を誤りに導かず、疑いが起きたときの最終審として訴えることのできる知の源泉など迷信である。私達は犯した誤りから学ぶことによってのみ前進する。逆に言うと、犯した誤りを認めない人物は学んでいないし前進もしていない。それが権力者だったらどうか。
    このような権力者が「我が民族が迫害を受けている、虐殺された事件が起きた」とスケールの大きいことを公表しても(この手の権力者はしばしば一方的に主張する)残念ながら全く信用に値しない。なぜなら反論を不可能にしてるということは、その情報源の審査・批判・検討が不可能になっているということで、間違っているのかもしれないのにそれが修正できていないからだ。つまりこういう人物は何も語っていないに等しい。そんなものをこちらが真面目に取り合わなければならない決まりなどないし、信用して欲しいならまず国内で支配者の公式見解に対して批判する自由を認めてくれと言うだけだ。
    自身への批判を許容してる権力者と、自身への批判を許容しない権力者のどちらの言い分が信用できるかという問いは、どちらも間違ってる可能性もあるが、虐殺があったかなかったのかなどの重大論争の判断材料の一つにはなる。

    ■西側の価値観について 15章

    本章は1958年の講演がもととなっている。東西冷戦進行中の頃。

    ・理念と人間の分離

    西側は何を信じているのだろうか、ということについて西側の人間も実はよく分かっていない。イギリス首相になったマクミランが外務大臣時代にフルシチョフにやり込められた。

    マ「西側が何を信じているか?キリスト教だ」
    フ「君達はキリスト教徒と称してるにすぎない。共産主義者の我々こそ本物のキリスト教徒だ。なぜなら君達は金銭を崇拝しているが、我々は抑圧されている人々、苦労してる人々のために闘っているのだから」

    このような答えが西側のキリスト教徒や知識人に影響を与え、西側社会に懐疑的になっていたり、悲観的になっていたりしたという。
    なんか西側には東側の共産主義みたいな一本の太い柱が無いなあ、確固とした統一的な理念が無いよなあ、こんな感じで誰もフルシチョフの答えに反論できなかった。
    そんな時代背景の中ポパーが反論に名乗りを上げる。西側の信じてるものはキリスト教だというマクミランの答えがそもそも間違っている。正真正銘キリスト教原理主義みたいな国は西欧にはない、というか教会が世俗権力を手にしようとする野望を阻止してきたのが西欧の伝統ではないのか。また、キリスト教は達成できるとしたら本物の聖者が長い修行の末達成できるようなもので、そういう精神に全面的に鼓吹されたような社会を建設しようとした試みは全て失敗に終わった。地上に天国を建設しようとする試みはいつも必然的に、非寛容と不自由と強制収容所の地獄と化す。西欧は真正のキリスト教社会ではないし、キリスト教は何か統一的な観念でもない。じゃあ西側の信じているものとは何かそれは

    理念と人間の統一ではなく、理念と人間の不統一
    そのための知による自己解放
    そのための批判(西側ではすべてが批判の対象となる)
    そのための自由(言論の自由が認められないと批判は不可能)

    西側では、神だろうと宗教だろうとどんな権力者だろうとどのような思想だろうと批判からは逃れられないし、逃れているとみなされてもならない。

    「全てが批判にさらされなければならない」
    「否定判断はひたすらまちがいを防ぐという独自の仕事を持っている」
    「吟味・点検するこの検査を逃れてよい聖域もない。そのような検査は、人物の威信を気にもとめない」
    ポパーが多大な影響を受けたカントの『純粋理性批判』から。

    西側の価値観、信じているものはこれじゃないかとポパーは提示した。
    これこそが、自分自身に批判的で自分は何も知らないと洞察し、権威を恐れず屈することもなかったソクラテスに連なる西欧の伝統的価値観だった。
    これをポパーはこう言い換えた。

    「どの情報源であれ利用されていいが、どの情報源にも権威はない」『開かれた社会とその敵』

    人間の営みである以上どの情報源であろうと誤りうる、ということは常に誤った情報により誤導される恐れがあるので批判はかかさずしなければならないし、何より批判こそが間違いや誤謬を発見し、体系的に学んでいける唯一の道だと。

    フルシチョフのソ連は理念と人間が一体化している。一体化しているためユートピアという理念の批判ができない。散々述べた通り、私達人間は批判を通じて進歩するのに。フルシチョフを含めた「善意のユートピア主義者」からは抜け落ちている部分、理念と人間が一体化し批判や検証が不可能な状態では、人々が暮らしやすい社会を形成する、という目的が「人々が暮らしやすいユートピア社会に適した人間を形成する」という全体論的目的で置き換わってしまう。いや私はユートピアとか魂の救済とかいらないんで…と拒否したら、お前はまだユートピア社会に馴染んでいないとか言われて再教育キャンプに連れていかれる(ユートピア社会工学の問題はまだ多い。それだけ批判の声を封じ込めあまつさえ数十年かかっても完成しない計画など論外、政策は現実的な期間で完成するようなものにすべき等)

    「(地上に天国を作るといった試みは)われわれの道徳義務についての完全な誤解にもとづいている」
    「助けを必要とする人を助けるのは義務であるが、他の人を幸せにするのは義務ではない」
    「われわれには自らの価値観を友人に伝えるという権利があるが、この権利があるのは、かれらがわれわれの努力を拒否できるときである」
    『開かれた社会とその敵』岩波文庫版小河原誠訳160-161ページ

    権力者が自分の価値観を他人に押し付けるために政治的手段を用いる、このような危機に対して当時の東側の国々は対応できない。できなかった。東西関係なく今でもできてない国はある。
    西側はこういう社会を拒否した。西側における弱者の救済は長くなるので割愛するが『開かれた社会とその敵』に詳しい。別に放置してるわけではないし、むしろ一番貧困撲滅に貢献したのがマルクスが名付けた資本主義社会だろう。レーニンはプロレタリアのブルジョア化は植民地から収奪してるからだと言い繕ったが、植民地を持たない国でも貧困撲滅は起きた。ここにフルシチョフみたいなことを言われたらどう反論すべきか、西側の価値があると思われる。
    しかし、西欧が共産主義を拒否するのは、計画経済じゃ貧困撲滅が上手くいかないとかそういう理由ではなく、上述の通り不自由で非人間的だから。仮に計画経済が素晴らしくても拒否すべきものとなる。自分達の批判の自由を豆のスープのごとく市場で売り飛ばしてはいけない。非人間的な理由の一つは、ユートピアのようなゴールの世界は人間には不可能だということ。人間は真理にたどり着けない代わりに、永遠に探求を続けることができる。要するに進歩の止まった完全完璧な世界に永住するのではなく、永遠に冒険を続ける。人間をむりやりユートピアのような場所に閉じ込めるのは獣の世界になるだけだ。
    それにしても『ヒストリシズムの貧困』が最初に発表されたのは1945年で、これはユートピアを作ろうとした各地の共産主義的実験の結果がまだ出ていない時だ。それでも見事に結果を予測したのは、流石にせ予言者を批判した者と言える。

    ・問いは「誰が統治すべきか」ではない

    西側が信じているもの、その2。
    しかし西側が拒否しているものも、西側(プラトン)から生まれた。

    プラトン2000年来の呪文
    「国は誰が支配すべきか、どういう人が統治すべきか」

    こう問われると答えは必然的に決定する。どこの誰が愚か者や無知な者に国を任せようと思うのか、国のかじ取りは頭がよくて全てを知ってるような賢者にこそふさわしい。しかしそのような人物は少数だろう、つまり愚かな多数ではなくエリートカリスマによる少数支配体制がいい。人々はこの呪文にずっと呪縛され続け今でも呪縛されている。
    ルソーはプラトンに反対したと思われたが「少数ではなく多数派が支配すべきだ」と述べた、これは実は根本的に何も変わってない。マルクスも支配者は資本家かプロレタリアかの二者択一にしたがこれもそう。あなたは権力を授かるのに相応しい優秀者、他の凡俗には無理だがあなたなら大権を握ることができる、という神格化に繋がる。

    そこでポパーは、国家理論の根本的な問いを「誰が統治すべきか、誰が権力を握るべきか」ではなく「政府にはどの程度の権力が容認されるべきか」または「無能かつ不誠実な権力者が大きな害を出さないように、私達は政治制度をどのように作り上げることができるだろか」に置き換える。
    誰がとかは関係ない。無名の自分やあなたが考えて作り上げていかなければいけない。
    ここで西側が信じている民主主義体制が登場する。ポパーはこれを最上の理想の体制などとは言わないが、現実的に今はこれだけが権力をコントロールし私達の自由と安全を確保できると述べる。

    ■絶対に起きてはいけない乗り物の事故ですら起きてしまう

    訳者解説から
    間違いを犯さない人間などいない、ということをまず認め間違いを許容することが大事だと。
    飛行機の事故なんて絶対起こしてはいけないのに、起きてしまう。注意をしてない他の事柄ではなおさらだ。それでも飛行機の事故が他の乗り物の事故に比べ少ないのは、航空業界が偉大なカリスマに率いられてるからではなく、誤りを共同作業で見つけて指摘しあってるからだ、という話は分かりやすい。
    人が何人だとかどういう思想を信じてるとかは関係ない、非イデオロギー的な真理への接近方法があるということ。重要なのは誰が正しいかではなく、共同作業で真理に近づけたかどうか。
    私達が前に進んでいく目的としてどのような理念でも提示していいが、それを常に批判できるようにするのが大事。これが今の時代でもできてないように思える。どのような立場の人も自分の好きな思想を絶対正義のごとく振りかざし押し付けてくる、そして批判を許さない。ポパーが批判した狂信に陥ってるように見える。私達は誤りうる、つまり理念も誤りうる、間違った理念と一体化してはいけない。
    私達はすごいし偉いので誤りなど起きない!と強弁するのではなく誤りを認め、誤りと正面からまともにつきあい、誤っても抹殺されないような社会を作ることが、非人間的な状態から成長していく要諦だと。誤りを認めない社会は往々にして、誤りを隠蔽したり誤った本人を抹殺する不誠実な社会となる。
    それは先に述べた3つの世界論で解決できる。私達は、間違いが見つかったり時代遅れになり役に立たなくなった理論を殺すことで、人間本人を殺さずに済むようになった。一見当たり前のことを言ってるようだが、西側社会だろうとにせ予言者や権威主義者はいるので、あえてまた繰り返すことが今こそ必要に思える。
    「没落する!」系のにせ予言者も今でもいる。彼らへの対処法を知れたのでよかった。ああいう人達への批判って全く見たことなかったから新鮮だった。

  • 【由来】
    ・amazonでポパーの関連本を探していて。

    【期待したもの】


    【要約】


    【ノート】


    【目次】

  • ポパーって素晴らしいですね。
    まえがきとしての要約だけでお腹いっぱいです。

  • 読むのに時間がかかりました。ポパーという人に興味があったので読んでみました。これほど上手くまとめることは俺には出来ませんが、俺が常々考えていたことが多く書かれています。考えていても実際文字に起こすとこれだけのボリュームになるんだなあと。
    全てのことは仮説であるというのが一番共感を得る部分です。又、世界1、2、3について書かれている箇所がなかなか興味深いです。簡単に言えば、1は自然に存在してる部分、2は人の意識の部分、3はその意識が生み出した部分です。
    知識の定義みたいなこともおもしろかったです。理解するのにちょっと時間かかりましたけど。まあ頭の埋まっていない穴が埋まる感じでいいんじゃないでしょうか。

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