- Amazon.co.jp ・本 (386ページ)
- / ISBN・EAN: 9784634611818
感想・レビュー・書評
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「ナショナリズムが維新の特性にどう影響したのか」「一九世紀半ばに西洋と再会したとき、なぜ「日本」が自明の政治単位・自治単位として考えられたのか」(p.6)という問題意識から、明治維新を改めて考え直す一書である。
本書が提示した維新の前提条件…つまり、「書物による文化共有がもたらす均一化」と「藩の自立性が強まった分権状態」―は、枠組みとして興味深いものだ。しかし、「書物による文化共有がもたらす均一化」は第一章で知識人が取り上げられる以外はあまり掘り下げられず、分析は主として後者を起点とした幕末期の政治的意思決定の形成過程へと集約しており、冒頭の問いとは必ずしも内容がリンクしていないような印象がある。
とはいえ、「公議」の問題のところは個人的にも参考になるところが多く、その意味では良い勉強になった。幕末期の「公議」の問題は、「その範囲をどこまで広げるか」が問題であったんだな、ということが確認できたのは、よかった。そう考えると、近代になってはじめて「どうやって公議をつくるか」という「範囲」ではない問題が浮上してくるのだろうな、と思う。
しかし、8章によける「家」身分制の問題は水林彪の「家産・家業・家名」をイエと設定する議論とどうかかわるのか、とか、9章ではどうして維新が血を流さず武士は諾々と改革に従ったのか、という問いにおける鈴木正幸の「総体的領有制」の議論をどう考えるのか、とか、そういう研究史の位置づけ的な問題が気になった。まあ、相手にしていないのかもしれないが(特に鈴木は重要な提起をしているように思うのだが、研究史ではほとんど評価されておらず、もったいないと思う)。あ、でも鈴木の『国民国家と天皇制』が出たのはこの本のあとだから、もしかしたら「総体的領有制」の問題も三谷の本のあとで出てきたのかもしれないが(それ以前に論文で書いてる気もするが)。まあそのへんは前後関係を調べていないので、不当な意見かもしれない。
あと、なんせ謝辞が長い。詳細をみるコメント0件をすべて表示