野戦郵便から読み解く「ふつうのドイツ兵」: 第二次世界大戦末期におけるイデオロギーと「主体性」 (山川歴史モノグラフ 26)
- 山川出版社 (2012年11月1日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (324ページ)
- / ISBN・EAN: 9784634673847
感想・レビュー・書評
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個人化が極度に進行し、競争社会のような業績主義が軍隊内でも説得力を有し、個々人の生存を図るために一方では、相互依存、他方では水面下での出し抜きあいが横行する。
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第二次世界大戦終了間際に書かれた、ドイツ兵の手紙の分析。
対象がドイツ兵だから当然ナチがらみではあるけれど、ホロコースト研究ではない。
もっとどこにでもあるような、愛国心や排他的ナショナリズムや蔑視やらを見ている。
離れた所から見れば馬鹿げているけれど、渦中にあるとはまってしまう流れみたいなものを個人の手紙からみようとしている。
スラヴォイ・ジジェクはイデオロギーを「クッションの閉じ目」にたとえたそうな。
不安や不満がつまったクッションの口がイデオロギー。
イデオロギーのアホさを論破しても不安は解消されないから、それで眼が覚めたりはしない。
信じたいものを信じるだけの無茶な論理それ自体ではなく、それを信じようとする理由を考えなきゃいけないってことか。
「神話」の重要なポイントは「誤りなのに通用する」ではなく、「通用させてしまう思考停止」かもしれないと思うようになってきた。
必ずしもナチズムを信奉しているわけじゃない徴兵の軍が、それでも敗戦濃厚の44年45年に至っても闘い続けたのはなぜか。
メンタリティの分析を見ていると、「ネットと愛国」を思い出す。
この本自体はあくまでドイツ兵だけを扱っていて、現在になぞらえようとはしていないけれど。
紹介される当時のドイツの「ふつうの人」の「空気」が、今と戦時の日本の本に書かれたものとそっくりだ。
・先行きの見えない不安や、自分たちが支払った犠牲への不満を蔑視の対象となる他者にぶつける。
無力感が敵(とみなした相手)への憎悪や暴力に転化する。
ナチはイデオロギーを作りだしたのではなく、もともとあった東方への蔑視にうまくのっかっただけ。
・軍隊内では猥談や「昔はワルだった」自慢が仲間意識を高める。
ゆえにのれない人はのったふりをしながら孤立感を強める。
実際どうだったかは問題じゃない。「こんなに悪いことを言える俺」が重要。
・生命共同体の「戦友」はいても、感情や価値観を共有できる「友人」のいない場所では、自分という個の次のまとまりがいきなり「国」「民族」という巨大なくくりになってしまう。
あいだがないから極端な考えに走る。
・現状に理由を与え、自己肯定を国に仮託して自国や自民族を理想化する。
・お上への批判や不満がでてきても、総帥への信頼はゆらがない。悪いのはまわりのやつらだよ総帥はわるくないよ。
個人崇拝だけじゃなくて、疑ってしまったら今まで払った犠牲が無意味になってしまうから無意味さを認められないという意味もある。
・「不幸の均霑(きんてん)」みんなを満足させるにはみんなが平等に不幸になるしかない。
(でも幸福と同じで、すぐに新たな差異をみつける)
「清潔で」「勤勉で」「時間厳守」な「素晴らしい自分たち」と、そうできない劣った他民族。という自国を中心にした価値観による優劣の判断が、日本人の自己肯定や、他国への蔑視とそっくりでぞっとした。
ファシズムの時代だからとか、日本とドイツの国民性が似ているとかって言いたくなってしまうけれど、清潔や勤勉を別の言葉に変えれば古今東西似たようなものだ。
たとえば「平和のために戦う無辜の我が国を他国は理解しようとしない」ってのはアメリカにも見られる。
有用な本だったけど語りが弱腰なのが好きじゃない。
批判と部分的肯定をセットにして先行研究を参照する・自分の研究の問題点をあらかじめ指摘して、でもここが重要ですという。
こういうのは学術のルールとして重要なのかもしれないけれど、どうも守りの姿勢が強いように感じる。
ホロコーストよりも軍隊がゆがむ構造に興味がある感じの内容。
そういう視点の研究も大事だけど、学術のための研究でしかないような気がしてしまう。
手紙の読み方にしても、個人の手紙を見ているのに史料的価値しか見ていないように感じる。
蔑視はないけど敬意もない。ないっていうか、興味が先に立っちゃって敬意を忘れているような。
私は個人を勝手に調べるような研究には敬意が不可欠だと思ってる。
それと訳や体裁の問題だけど、手紙の区切りがわかりにくい。
無駄に難しい単語が使われるわりに言葉の選び方が雑だったりするのもやや読みづらい。
気になる部分がちょこちょこあるけれど、このシリーズは面白そう。