ソウル・ハンターズ――シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学

  • 亜紀書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784750515410

作品紹介・あらすじ

人類学と哲学、人間と動物が絡まり合う場所で

ヴィヴェイロス・デ・カストロ、ハイデガー、インゴルド、ラカンらの思想を武器に、シベリアの狩猟民の世界に肉薄する。
人間と人間ならざるものが対等に出会う地平を描き出し、人類学の「存在論的転回」を決定づけるパースペクティヴィズムの重要著作、ついに翻訳!

感想・レビュー・書評

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  • ユカギールのような、特異性を備えた生活や認知をしていたいなと思った。そうした生活の成立や認知においては、必ずしも、文明的知性を前提としていない。


    ◎以下引用

    動物やモノの人格性は、狩猟の際中に、綿密で実践的な没入が生じる特定の状況下において立ち現れる

    近代においては、ミメーシスの能力は、諸々のイメージとシミュラクルが横溢し、ゆえに現実的と感じるものが何もないような世界をもたらした

    写し取ることと、感覚的な接触を伴う二重構造のミメーシス。それは表象の一形式

    私ではなく、私ではなくはない―ミメーシス。類似によって布置され、差異によって定義づけられる

    意味は、人々と世界との直接的で知覚的な関わりの中で生じる関係的文脈に内在しており、心的表象、もしくは認知はもとからあるものではなく、没入する活動の実践的な背景に由来する

    狩猟民族は、概念的に把握されねばならない自然という外部世界として環境にアプローチしているわけではない。実際には、彼らの思考と実践において、精神と自然の分離はあり得ない。

    ★物を認識することは、それと重なり合うこと、つまりそれであることではない。ある現象が現前するには、距離をとること、つまり認識のここと現象のあそことの間にある空間が必要となる、そして、あそこがあそことして現れるためには、たとえ暗黙的なものであったとしても、ここにまつわる意識がなければならない

    ★あるものについてのいかなる思惟も同時に自己意識であり、これがなければ思惟は対象を持つことができないであろう

    ミメーシス=第二の自然を作るために文化が利用する自然である

    ユカギールにおいて、ミメーシスは最大限の能力を生かしている。まねることをとおして、、、

    ★ミメーシスは、アニミズムの象徴世界における実践的側面、つまり世界=内=存在の不可欠な様式

    身体変容=まったく馴染みの薄い言語的、社会的、道徳的なコードからなる、完全に異質なパースペクティブの想定。

    ふつうの状況で、動物を人間、あるいは、人間を動物であると見ることはない。

    変容は容易におこなわれるものではない。それは自らを異なるものにすることについての深い不安の経験、あるいは、先に私が人間の人格を喪失する感覚と呼んだものを含んでいる

    ユカギールでは、狩猟者が獲物をまねるという状況では、主体つまり「私である身体」と客体つまり「動物の身体」との間のこの概念上の区別が溶解してしまう。狩猟者は、主体と客体、自己と他者の両方で有るような曖昧ものとして、自らの身体と同様に動物の身体を経験する

    ★狩猟者は、彼に向って歩み寄るエルクを見ているだけではなく、あたかも自分がエルクであるかのように、外部から自分自身を見ている。つまり彼は他者が彼について持つようなパースペクティブを自分自身に引き受ける。

    ★模倣行為の最中に狩猟者が持つ人間のパースペクティブーつまり、世界についての自らの主体的な観点を有する
    自意識を持った主体としての自覚-は、それ自体を超えて、エルクに対して、外側から投影されるようになる

    エルクが、意思、意識、情動性などの力を持たない、純粋な世界=内=客体にすぎないと考えようとすれば、狩猟者は、自らに対してもそのような諸性質を否定することになる、自己を欠いたまま置き去りにされてしまう

    アニミズム=模倣的な共感。単に表面的なまね、シミュレーション、物まねをすることではなく、より深くて強烈な何か、すなわち、豊かな想像力により自分自身を他者の領域に入り込ませる能力、自らの想像力の中に他者のパースペクティブを再生産することを強調する。それはしかし、私は他者の見方を直接的には経験することができないということをも意味している。私はただ創造力を駆使して、それを理解することができるだけ。それゆr、私には、他者存在の視点から世界がいったいどのようであるかを確実に知ることは決してできない。しかし、身体的なふるまい、感覚、共感的感性を模倣することで、他者と共有することになる経験が共有されると想像される

    共感が起こるのは、正確には他者の経験が私のものではないから、私たちが私たちの相違にも関わらず、基本的に、身体的、感覚的経験を持つ異なる存在であるから

    それぞれの生を営む一般人にとって、世界の中の実態や過程は抽象的な考察の対象とはならない。文脈から切り離された思弁がおこなわれる状況は、実質的には存在します

    ★★知的文化の概念は、主体と世界の分離という想像上の過程から出発する。したがって、主体は言語により提供された概念とカテゴリーを用いることで、世界への意味あるすべての関わりに先んじて精神の内に世界を構築しなければならない。そうした世界は生きられる前に構築されている。換言すれば、世界制作の行為が住まうという行為に先行しているのだ。

    実生活で地図を使うという問題が生じるのは、人々がどのように旅を続けていくのかあるいは、ランドスケープの中のどうやって経路を見つけるのか、わかっていないときだけ。

    ★ただ師の足跡を追うだけのものは、ひたすらついて歩くだけのロボットのようになる。自律的になるには、自分自身で狩りに行かねばならない。そうやって初めて周囲にある無数のこまごまとしたものに本当に気づき始めるのだ

    人間の空間環境への習熟は、実践者が一揃いの抽象かされた表象的知識、経路を示してくれるような世界についての地図的構造を獲得していることに依拠する。これが獲得の文化、他方、実践における理解は、日常的な現在地の把握や経路発見の技術が、実践と経験を通して実現されることを含意する。「について語ること」よりも、直接知覚的な関わりのための実践的技術を獲得することに結びついている。

    師が、指導者として、役割を果たせるかどうかは、自身が持つ表象を見習いへと移植できるかどうかにかかっているのではない。むしろ、手本を示して支援する能力、つまり見習いが、ランドスケープについて自身の感覚を発展させられるような状況を仕立てられるかどうかにかかっている。したがって、経験を積んだ狩猟者が、経験の少ないものに与えるのは、それをとおして見習いが自信の知覚と行為の力を発展させられるような、特定の経験の文脈なのだ。これはインゴルド適切にも「注意の教育」と呼んだものである。それには、ランドスケープの中を動きまわり、探索し、注意を払い、ランドスケープを明らかにするサインを拾い上げられるように感覚を研ぎ澄ますことが含まれる。

    狩猟者の語りの場が、教育的機能を果たしているとは思わない。もし彼らの語りのモードが、ランドスケープに関する知識の伝達を目的とするなら、なぜ物語はかくもミニマルで省略された形式なのか。

    意味は言語記号の中に即座に現前するのではない。

    ★我々はただ言葉が意味するところに立ち返るだけなく、人々が言葉を用いてなすところへ立ち返るのだ
    →言葉それ自体でメディアとして成立するわけでなく、あくまで言葉は、「容器」にすぎないということ。「なにか」を乗せるという全体があって「メディア」となる

    狩猟者の語りの場は、世界についての知識を運ぶのではない。彼らにとって知識とは、世界内存在としての非言語的なモードの文脈、つまり住まうという実践的な活動に埋め込まれたものだから。むしろ、彼らが語りの場に加わり、語らなければならないのは、ある種の「人間化」の効果をもたらすため

    意図した効果をもたらすのは、語りの行。語りの行為は、狩猟者を飲み込むかのようにして、彼らがいったんそこから立ちさった人間社会の生活の圧倒的な現実を突きつけ、狩野出来事をこうした人間の言葉遣いで吟味するよう強制する。この点で、語りは、内政を促すことへと直接的にかかわっている。語りの場への参加を通して、その日の狩りを振り返り、狩りから離れてキャンプ地という人間社会の領域の内側からそれを見る機会を獲得する。彼ら自身の意識について意識的になる

    ★基礎概念は言語学習によってではなく、経験と実践に由来し、それらは辞書項目や特徴の一覧表のようにコード化されるものではない。
    →語彙や概念を覚えても、それに合致する「感覚」がなければ、学習したことにならない

    子どもは、「家」のような基礎概念を、その後を実際に発することができるようになるはるか以前から持っている

    ★宗教的表象の真正さの感覚がまず確保されるのは、山や川といった自然現象を非言語的且つ直接的な様態において経験することによるのだ

    フロイトはじめ、西洋の思想家の多くは、心は世界から分離しているとの前提から出発している

    人が起きていようと、寝ていようと、人格が出会う相手は常に世界内存在。空白の現実ではない。

    人間存在の表象主義的な見方の拒絶。表象主義において人間は、外的客体の世界からは距離を置いて立つしゅたであり、ある種の心的表象の「認知」システムをそこに投射することにより、世界についての信念を持つ

    ★★人間実存の基本的な情態は世界について抽象的な主張をする観照的主体ではなく、生という実践的な作業の中で人間と非人間を同様に含む他者との動的な知覚的関りにことのはじめから侵されているものだ。そして彼らが世界の中で見出す意味とは、自らの心が世界に押し付けたものではなく、日々の実践的な経験におけるこうした関係的な文脈から引き出されるものだ。したがって、どこに精霊がいるのかと問うならば、答えは「人々の頭の中」ではなく、「世界のそこ」あるいは、より鋭角に言えば、、人々の活動の関係的な文脈の中にいる

    精霊は世界のうちに「見出される」ものであり、世界との活発な交流の中で人々により作られるものでもある。

    ★★現実世界は、人間経験から独立して存在するという主張を乗り越えねばならない。世界とは我々から分離した何かではなく、そのうちに私たちが生きる場なのである。

    理論的な説明よりも、直接経験から開始することにこだわる、なぜなら世界とはどのようであるかと人々が創造的に思いめぐらすことができるのが、こうした生きられた経験の立ち位置からだけであるから。

    ★★意味とは思考の中ではなく、まず活動の中に構成されるのだと彼らは言い、そもそも世界と活発に交流していることが、我々が世界について考えることのできる唯一の理由

    精霊のみならず人間を含めたあらゆる存在が、こうした関係的かつ文脈依存的なやり方で理解される。

    ★ユカギールの世界では、あらゆる存在者が、たえずお互いを鏡映・共鳴し、自己と他者の様々な境界は透過的で簡単に乗り越えられる。こうした世界において、その力を規定するのが、類似性と同一性を混同しない能力。
    →【一緒だけれど、一緒でない。非同一の同一。また冒頭は、増山さんの写真を想起する文章だな】

    空間を仕切りかつ、つなげる空間、文字通りには「しきい」であるところの境界性。あいだにあることの本質。

    もしわれわれが、アニミズムを真剣に受け取ろうとするなら、世界との完全な一致、あるいは世界からの完全な分離といった考えは放棄しなければならない。そのうえで、世界に接触させつつ、そこから切り離す存在様態について説明しなければならない、このような存在様態は、ミメーシスに基づく様態である

    ミメーシスは、本質的に関係的であり、模倣者は模擬されているモノや人格の外部には、あるいはそれから切り離されては、独立した実在をもたない、それでいて、模倣者は、決して合致に至ることなく、常に自分自身へと再帰的に投げ返される。したがって、ミメーシスは、他者性との同化を進める一方で、境界を引いて自己を区分もする。アニミズムは、この両方を必要としており、したがって、ミメーシスなしには、アニミズム的なつながりの基礎そのものが崩壊してしまう

    実践的なミメーシスこそ、アニミズムの妥当な基礎だということ

  • 獲物を取るには獲物のものまねをしないといけないが本物過ぎてもいけない。つまり、ニッチローやジャッキーちゃんほど寄せすぎず、かといってコロッケほど創作をしない…ホリとか原口とかが一番いいということですね(?)

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著者プロフィール

1971年生まれ。国立デンマーク博物館館長。2003年、ケンブリッジ大学人類学科博士課程修了。博士(人類学)。マンチェスター大学(イギリス)、オーフス大学ムースガルド博物館(デンマーク)、オスロ大学文化史博物館(ノルウェー)を経て現職。

「2018年 『ソウル・ハンターズ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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