スポーツは誰のためのものか

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  • 慶應義塾大学出版会
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  • Amazon.co.jp ・本 (276ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784766418293

作品紹介・あらすじ

スポーツは誰のためのものか?
半世紀以上にもわたりスポーツ報道現場にたちつづけた著者による「これからの日本スポーツ論」。日本人の非常に偏りのある「スポーツ認識」が、一般市民がスポーツを愛好しにくい現状を生み出していることを指摘し、地域に根ざしたスポーツ活動の促進を説く。

感想・レビュー・書評

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  • 散漫

  • 本来、「スポーツ」とは、日常生活の規範や束縛から離れる動きを表す「気晴らし」や、転じて自分の意志で「楽しむ」、「遊ぶ」という意味である。気晴らしに身体を動かして楽しく遊ぶといった娯楽としての役割がスポーツの原点で、私たちにとっての大きな魅力の一つではないだろうか。
    日本のスポーツは、教育現場を中心に発達してきた。ヨーロッパやアメリカから主に大学に伝来したことや、スポーツを教育的に捉えられたこともあり、日本は独特のスポーツ観を築き上げることとなった。競技志向で、スポーツにおける勝負、勝利至上の精神論が強く謳われた。また武士道のように、スポーツも「道」として理解しようとした。最近は、健康のためや地域活性のためスポーツを「楽しむ」こと第一に身体を動かす場も増えてきていると思う。しかし、日本でスポーツといえば、「気晴らし」や「遊び」という印象よりも、競技的なイメージをまず始めに思い浮かべるのではないだろうか。一生懸命に取り組む、忍耐強く諦めずに頑張る、といった精神が美徳であると考えられているし、メディアでもそのように取り上げられている。このような日本の価値観は本来のスポーツの魅力を狭めてしまっているのかもしれない。
    私たちは、小・中・高・大学の教育機関で過ごす間で、スポーツに触れる機会というものは沢山ある。小学校では、中間休み、お昼休み、放課後の沢山の自由時間にスポーツをして遊ぶ機会がある。これらの時間は、イベント行事がない限り、好きなことをして遊べる。外で遊ぶことも、中で遊ぶことも、遊ばずにボーっとすることも許される、自由な時間である。自分が遊びたい気持ちのときに、遊びたいことをして遊ぶことが出来るのである。この年代では、スポーツを好きなときに楽しめていると思う。小学校では自由に遊ぶ時間があったにもかかわらず、中学校、高校になると、そのような時間はなく、競技的にスポーツに取り組むクラブ活動が行われている。自身の経験を振り返ってみると思い出されることは様々あるだろうと思う。種目ごとのクラブが存在し、競技的にスポーツに取り組む。楽しむことよりも、試合での成績が良いと賞賛され、技術の向上を求められる。生徒間での上下関係、生活指導、礼儀、など、クラブ活動時だけでなく、学校生活全般についても厳しく指導される。社会人や大学生のOG,OBがコーチに来ることも多い。顧問の先生はいるが、練習や指導は上級生から下級生へ伝わっていく。小学校のときに、学校外で地域のスポーツチーム等、競技的にスポーツをしていない者は、初めての環境に身を置くこととなる。中学、高校でのクラブ活動は、レベルは様々であろうが、志向は単一で、その環境が心地よくない者、楽しく身体を動かしたい者は、クラブ活動を辞めざるを得ない。大学では、競技志向のクラブ活動の他に、より娯楽志向のサークルや同好会が存在する。クラブよりも練習日数が少なかったり、厳しくなかったり、サークルごとに様々であるので、自分の求める形でスポーツを楽しむ環境に出会える確率は高い。同好会やサークルが存在はするが、大学からの資金は乏しく、施設の利用は出来ない所が多い。大学側もスポーツで有名になろう、という思惑があるのだとは思うが、この現状からもスポーツというものは、一生懸命競技的に行なうほうが善いのである、と考えることが可能である。ヨーロッパのクラブでは、参加目的ごとにカテゴリーが準備されているシステムがなされている。競技志向、娯楽志向の2派があり、他のクラブとは同じカテゴリーで交流しあうという仕組みである。日本の教育現場でのスポーツ活動は偏っていて、中学、高校のクラブでは娯楽志向でスポーツを楽しめる場は少ない。そのような活動にしようとする指導者がいないのかもしれない。大学になるとそのような場が出てくるものの、学校側からの支援を考えると、競技志向のクラブが優先であることから、日本のスポーツの価値観が伺える。スポーツとは自分たちの好きなように自由な志向で楽しむことも大事であるということを、学校教育において教えられる機会があっても良いのではないだろうか。
    スポーツを通じて、私たちは沢山のものを得ることができる。スポーツの本質はそれを通じて人と人がつながることが出来るところにあると私は考える。技術面だけでなく、人と人との関わりや、自分の身体との関わり。スポーツを通じて打ち解けられたり、新しい発見が出来たり、スポーツがもたらすものは大きいと自分の経験上そう思う。しかし、それはある一定の楽しみ方だけでは万人には受け入れられないし、一定のものしか得ることが出来ない。
    日本のスポーツ文化がもたらしたのは、単一のスポーツ観とそれによって少なからず生じたスポーツ嫌いであると思う。中学や高校のクラブ活動によってスポーツの捉え方が固定され、スポーツが嫌いになってしまうと、その後の長い生涯でスポーツを楽しむという選択肢は無くしてしまうだろう。競技志向でスポーツに取り組むことを否定する訳ではなく、競技志向で一生懸命に取り組むことは誰もが出来ることではないし、素晴らしいことだと思う。しかし、スポーツの競技志向の部分だけを提示するのではなく、選択肢を増やして、スポーツの楽しみ方は多様にあるということを子どもの頃から感じていけるような社会となれば、自分なりに生涯でスポーツを楽しめるようになるのではないだろうか。
    誰のために、スポーツをするのか。誰のためでもない。自分の人生を豊かにし、楽しむためにするのである。自分のためにスポーツをする。そのためには、スポーツの楽しみ方を沢山知っていた方が、自分なりに自由に楽しむことが出来るであろう。今一度、スポーツのあり方を考えてみて欲しいと思う。(図書館サポートグループ・メンバー)

    ↓貸出状況確認はこちら↓
    https://opac2.lib.nara-wu.ac.jp/webopac/BB00168017

  • 新着図書コーナー展示は、2週間です。
    通常の配架場所は、2階 請求記号780.13/Su49

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著者プロフィール

スポーツプロデューサー
1936年東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。
元スポーツ報道センター長(1998〜92年)。
NHK のディレクターとして、スポーツ番組の企画、制作、取材、放送権交渉などを手がけ、長野冬季オリンピックでは放送機構マネージングディレクターを務めた。 1998年NHK退局後は、スポーツ評論の著述、番組制作会社エキスプレス・スポーツのエグゼクティブプロデューサーなどで活躍。
リーグ理事(1998〜2002 年)、2002年ワールドカップ日本組織委員会放送業務局長(〜2002年7月)のほか、慶應義塾大学大学院健康マネジメント研究科客員教授(2005〜9年)などを歴任。
著作に『テレビスポーツ50年—オリンピックとテレビの発展 力道山から松井秀喜まで(杉山茂&角川インタラクティブ・メディア)』角川書店(2003年)、「スポーツ・あ・いブラウン管からみたスポーツ」(日本体育協会『スポーツジャーナル』連載、95年度「ミズノ・スポーツライター賞」受賞)。

「2011年 『スポーツは誰のためのものか』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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