特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか (光人社NF文庫)
- 潮書房光人新社 (2020年7月21日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (520ページ)
- / ISBN・EAN: 9784769831785
作品紹介・あらすじ
「特攻隊の英霊に曰す 善く戦ひたり深謝す」。そう書き遺し、昭和二十年八月十六日、大西瀧治郎海軍中将は自刃した。自ら「統率の外道」と称した体当り攻撃をなぜ最後まで主導し続けたのか。生前の大西を良く知る元側近や元特攻隊員らへの取材を重ね、「特攻の父」の実像と隠された真実に迫る。
感想・レビュー・書評
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大東亜戦争末期、日本軍が採った戦法、特攻、それを命じた大西中将のお話。
大西中将の一番近いところで使えた、角田氏、門司氏の記憶、記憶を丁寧に掘り起こし、書かれた大西中将の真意を探る記録書でした。
お二人の記憶、記録をしっかり書き綴った著者のご苦労に感謝です。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
先日、予科練平和記念館へ行った。
その際、特攻の生みの親と言われている大西瀧治郎という人物がいることを知った。
また、その後観た映画「日本のいちばん長い日」にも、最後の最後まで特攻を行おうとする大西が描かれていた。
そのため、大西は頭の固い、無謀な軍人という認識を持っていた。
しかし、実はそうではなさそうだということを知り、本書を読むに至った。
副題に「大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか」とあるけれど、大西に関する記述はあまりない。
大西の副官であった門司親徳主計大尉と、零戦搭乗員角田和男少尉という大西を近くで見ていた二人の話がほとんどである。
結論から言うと、大西は特攻は「フィリピンを最後の戦場にし、天皇陛下に戦争終結のご聖断を仰ぎ、講和を結ぶための最後の手段である」(p46)と小田原俊彦大佐に語っていたように、戦争を早く終わらせてこれ以上の犠牲を出したくないという思いがあった。
また、終戦後すぐに自刃したのも、特攻を命じた自分が生きているわけにはいかないと考えたからのようだ。
部下たちだけを死なすわけにいかないという彼の思いがそうさせたのであろう。
部下たちからの信頼も厚く、副官であった門司は大西のが割腹した命日(昭和20年8月16日)と同じ日(平成20年8月16日)に亡くなった。ただの偶然と言ってしまえばそれまでだが、大西を慕っていた門司の思いを感じる。
角田、門司を含め生還した特攻隊員は、戦後も一緒に戦って亡くなった仲間を慰霊し、毎日のように彼らに思いを馳せ、供養をしていた。
亡くなるまで、彼らの中では戦争というものが続いていたかのようである。
また、昭和21年11月9日に行われた第十三期飛行科予備学生戦没者慰霊法要において、大西の妻、淑惠は皆の前に出て土下座をしたというのがとても印象に残った。
それに対して、十三期生の誰かが、「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」と声を上げた(p372)
「大西は、特攻の引き金を引いたにすぎず、『特攻の生みの親』とはいえない。せいぜい『産婆』役と呼ぶのが適当ではないか」という意見もある(p442)
しかし、様々なところで「特攻の生みの親」と称されており、そのように受け取っている人も多いだろう。
けれども、大西自身それは想定していたことであり、甘受したであろうと思う。
門司は、大西中将を「神風特攻隊の生みの親」と呼ぶことにためらいはないと言う。〈生んだ子とともに死ぬ覚悟がない者に、親たる者の資格はないと思うからであります。〉と門司が生前、最後に書いた遺構の一行にある(p442)
どの時代でも、真実は1つとは限らない。
彼は、ある意味では特攻の生みの親だったかもしれない。それは自身も死ぬ覚悟を持って特攻を命じたからである。
内容の濃い本であったが、人物の名前や地名、戦闘シーンなど、馴染みのない表現が多くてあまり頭に入ってこない部分が多く、評価は低いけれど、それは私の理解力がなかったということです。しかも、初めの方はコロナで少し頭がボーっとしている状態で読んでいたかもしれません。
文春文庫の方を読んだけれど、ブクログにはなかったので光文社NF文庫の方で登録。