- Amazon.co.jp ・本 (189ページ)
- / ISBN・EAN: 9784779110696
作品紹介・あらすじ
★「人にとって死とはなにか」をたえず問いつづける歌人による寺山修司論ふただび。寺山を「石川啄木になりたかった男」としてとらえ直し、寺山芸術における歌の精神のあり方を鮮明に描く。
★あわせて「夭折論」「寺山家」の歌人論を付す。
感想・レビュー・書評
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寺山修司の葬儀委員長は谷川俊太郎。寺山氏が生きていたら、まだまだ大活躍していただろうな。現役時代は知らないが、あまりにも若くして亡くなってしまったのが残念だ。
人間が人間として在るということはどういうことであるか。フランクるの夜と霧。これはご存じのフランクる自らがユダヤ人として体験した強制収容所の記録。フランクるは己の体を骸骨もしくは屍と思い違いするほどに衰弱し、精神的にはきょくどの圧迫と失望で打ちのめされている。そんな状況にあっても人間の最後の自由は決して奪われるものではなかった。それは愛しい人々に思いを致すという内面的な自由である。
テロリストという語感には死をもった人間の悲しみがにじみ出ている。
貧しい時代だったが、みんな一途でひたむきだったよ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
後年の私たちからすれば、初期・寺山修司が詩歌との決別を遂げたことを史実として知っていても、そしてそれは全史のなかの瑣末な事柄にすぎないかもしれませんが、当の本人にとっては、それこそ一大事であって、それはあくまで断固として、その後の自分とは明確にたもとを分かつ、まったく別の存在なのだということが、ひょっとして著者の福島泰樹には、わかっていても尚こだわらざるを得ない問題としてあったのでしょうか。
とことん好きで寺山修司に浸り切ってきた私としては、この本の石川啄木になりたかった寺山修司などという措定には、にわかには承服しがたいものがありますが、やはり私などの数倍の熱狂的な寺山修司愛好者たる福島泰樹のことです、強引にグイグイ引っ張っていって読ませます。
ただ、いま現在の私は、後期・寺山修司の演劇・映画にドップリと親しんでいるせいか、あまりそれほどの説得力はありませんが。 -
2010/6/2購入
これから出る本。必ず買う。
ぼくだって父親は兵隊にとられて死んで、母親に働かせながら大学に行ってるということで、社会に対する怒りをメモリアルにやるならいくらでもやれる。だからってプロレタリア短歌的なパターンに頼っていられるかい。第三存在(ウィニコットの著作でこの第三存在について言及していたような気がする)
を設定することで、もっと本質的な生へ迫ることが出来るならちっぽけなことじゃないか。自分一個の生活なんて。
映画演劇をふくめたすべての作品のなかで、この詩が寺山の最高傑作であろう。否、いのちをもって漂した近現代詩中の最高峰であろう。そして、詩は激しく転調しながら、最終行へと向かってゆく。
子供の頃、ぼくは
汽車の口真似が上手かった
ぼくは
世界の涯てが
自分自身の夢のなかにしかないことを
しっていたのだ