- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784781611006
作品紹介・あらすじ
観る者を魅了する人物は、どのように作られるのか?映画監督の著者が、偏愛するさまざまなシーンを取り上げながら、心をつかむ"演技と演出"の核心に迫る連続講義。
感想・レビュー・書評
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宇多丸、梅雨の読書特集推薦。
まさに慧眼!
「演じる」というのは高い知性(けっして偏差値だとか知識だとかではなく)が問われる作業だと著者は説く。
<blockquote>おそらく映画の演技においてもっとも重要な能力は、自分お役柄に求められているものを瞬時に把握するための直感力でしょう。ジャネット・リーは自分のやっていることを言葉で理解して演じているのではなく、直感的に把握して演じているはずです。だから、必要なことは全てやっている(逆に不必要なことは一切やっていない)。映画で重要なのは、こうした直感であって、じゃあこの直感を養うにはどうしたらいいかというと、多分無意識を可能な限り厚くすることなんですね。(P.66)</blockquote>
俳優養成所において1ヶ月もレッスンをすれば、誰しもが他人の視線に耐えうる顔つきになってくるという。目に映っていることをどれだけ意識できるか。無意識を意識できるか。
顔は履歴書などというけれど、それもそういうことだろう。いい役者、良い演技がデキるかはその人自身が面白いかどうかだという。そのための(遠回りだが)確実な道筋が"無意識を可能な限り厚くすること"だと説かれている。
そのサンプルを様々な映画のシーンから丁寧に解きほぐされている。何気ない所作から読み取れる心の機敏。先の引用にあるジャネット・リーのように言葉で理解され演じられたわけではないのも多いだろう。呆然と見ていても"無意識"に分かる感情の流れをフィルムに焼き付けるための工夫が平易な言葉で説かれている。
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ずっと言葉に出来てなかった行動が「無意識を厚くする」と言語化されててすっきりした
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この本で解説されているような、監督の意図までちゃんと読み解けるような映画ウォッチャーになれたらかっこいいなあと思います。
最近ちゃんと見れてないんですが、映画っていいですよね。まあ、監督の意図だけが頭でっかちな映画はちょっといただけませんが。(2015年3月4日読了) -
題材になっている映画は古く感じるが、内容は、難解になりがちな映画評論や撮影術の本とは違い、講義を書き起こしたものであるがゆえに、とても理解しやすい内容になっている。映画はかなり見る方だと思うが、どうしても表面のストーリーに引っ張られた感想しか出てこず、もっと技術的な解釈や歴史的背景に基づいた解説が出来るようになりたいと思い、映画のことをもっと勉強しようと思っているその第一歩としてちょうどいい温度感の本。最終的にはヒッチコックとトリュフォーの映画術までたどり着きたい。
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映像を文章だけで説明するのは分かりにくく、難しいはずだが、塩田監督の話の内容は、撮影術やカットが作られた理由などが非常に理解しやすく、分かりやすかった。例題がちょっと古いかもしれないが、シーンのテンポや、会話の機微を感じながら観るには、その方がいいのかもしれない。例題となった作品を、何本か観ようと思います。
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映画てなんて奥深いのだろうと感動した。いままで漫然と見ていた。この本が教えてくれた見方を持っていたら、もっと面白く深く映画を理解できたかもしれない。映画鑑賞だけでなく、映画製作をする上でもヒントになるものがたくさんある。映画が好きな人はぜひお勧めしたい本である。
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映画の基本的なあれこれ。載っている作品は全部みたい。
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現役監督の映画の演出論。
どれも印象に残る言語化で映画を見る目が変わるのを感じる。
香港映画縦のアクションの動きが好きなものとしてはそのルーツが知れて興奮した。
ショットの考えより、映画も文脈の積み重ねと考えると様々な作品の出会えた分だけ楽しいといえる。
省略、伏せるの文脈は古典的手法としつつも魅力を大いに感じる。
映画は音楽に嫉妬するを示した終章付近の話もおもしろかった。
どの作品も見たいが座頭市物語は抑えたい。
映画は動きを撮りたいのに、俳優に行き着くのが矛盾していて面白かった。
顔の演技は戦争なんだ。 -
これまで映画を観るときは構図とか移動とか比喩とかそういうものばかり観ていたけど、もうすこしエモーショナルな部分にも目を向けたほうがたのしいし、俳優にあまり注目することがなかったので、読めてよかったと思った。
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映画監督塩田明彦の本、「映画術」読了。監督が何を考えながら、撮っていくかが面白い。出来上がった映画を観てそこまで読めたら、また面白いだろう。この表紙、『グロリア』だよね。
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第一回 成瀬巳喜男「乱れる」溝口健二「西鶴一代女」
第四回 動き ー ショット
三隅研次 座頭市物語、大菩薩峠
内田吐夢 大菩薩峠 「ドラゴン・イン 新龍門客桟」チン・シウトン
第五回 古典ハリウッド映画フリッツ・ヤング 「復讐は俺に任せろ」ジャン・リュック・ゴダール「はなればなれに」
第六回 音楽 加藤泰 「緋牡丹博徒 花札勝負」「男はつらいよフーテンの寅」増村保造「曽根崎心中」「この子の七つのお祝いに」
第七回 ジョン・カサヴェテスと神代辰巳 リチャード・フライシャー「マジェスティック」カサヴェテス「ミニー&モスコウィッツ」「壊れ行く女」神代「恋人たちは濡れた」 -
想像以上に面白かった!
映画というものの見る目が変わる。
機械的な技術ではなく、見る人のために、どこまで気を配るか、そういった気遣いを感じた。これは面白い。 -
貸し出し状況等、詳細情報の確認は下記URLへ
http://libsrv02.iamas.ac.jp/jhkweb_JPN/service/open_search_ex.asp?ISBN=9784781611006 -
めっちゃくちゃおもしろかった。
こういうひとからもっともっと話聞きたいとほんと思う。映画の見方が変わったかも。でも、気付けれるかな〜、演出とか -
これからも思いついた時に繰り返し手にとり読み返したくなる本。中野翠さんの「小津ごのみ」を買いたくて探したが店頭在庫がなく、何も買わぬのは少し悔しい、だけどこちらは2,300円(中野翠はちくま文庫でたしか900円)。最初に買おうとしていた本が同じ2千円程度の単行本であったら迷うこともなかったろうが、900円から2300円へのジャンプに戸惑い、なかなか「映画術」買いに踏み切れず、丸善店内を行ったり来たり。でも買ってよかった。当分の間、手元に置いておきたい一冊。
圧巻は新旧の「サイコ」の演出対比。60頁と61頁。アンソニー・パーキンス扮するノーマン・ベイツと、ジャネット・リーのマリオンが、モーテル事務室で相対する場面。ベイツが画面左側に座り、右側に座るマリオンに視線を向けている場面。ヒッチコック版では、ベイツの顔の右側から部屋の照明があたり、影となる顔左半分の暗さが強調されている。鷲鼻ほどではないけれどもそれなりの彫刻のような立派な鼻のラインも含めて、それはそれはきれいに顔の左半分が影となっている。マリオンをじっと見つめる視線の異常さが際立つ場面。
対する1998年のリメイク版ではカラーということもあるかもしれないが、ヒッチコック版のようなノーマンの陰影を強調した演出はされていない。もちろんヒッチコック版サイコを劇場で観た時(異常な登場人物、異様な空気感、そして異様なストーリーに圧倒されたが)こんな演出には気がつきませんでしたけれども。 -
現役の映画監督による、「映画と演出の出会う場所から映画を再考する」という視点からの連続講義。映画学校で生徒を前に講義した内容を原稿化したものである。
ところで、『映画術』という表題を持つ本には、すでに晶文社刊『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』という大著がある。晶文社には、その道の先達による後身に対するガイド本として「○○術」という表題を冠したシリーズがあるが、これはその中でも別格に位置する。フランソワ・トリュフォーによるヒッチコックへの単独ロングインタビューを山田宏一、蓮実重彦両氏が訳したもので、巨匠のフィルモグラフィーの時間軸に沿って、五百枚を超える写真を駆使し、その卓越した映画技法を監督自らが明かす、マニア垂涎の一巻である。そのひそみに倣ったのだろう、本書においても、本文に付された写真資料が講義に説得力を増す役割を果たしている。
映画を見るのに理屈はいらない。好きなように見ればいい。しかし、映画を作る立場に立てば、そうも言っていられない。何事につけても物にはやり方というものがある。大工には大工の、料理人には料理人の長年にわたって先人が積み重ねてきた技術や理屈の蓄積というものがあり、それを知らずして一朝一夕にして事がなるわけがない。映画には映画の文法というものがある。先に述べた晶文社の本がまさにそれで、あの本を読んであるのと読まないのでは、監督としてのスタート地点で大きな差がついているだろう。
講義の相手は、役者志望の若者である。それだけに、講義はどこまでも実践的。名作とされる映画の一コマ一コマを取り上げ、比較し、監督の意図や演者の表情、視線がどこにあるかを精細にチェックしてゆく。特に、一つのシーンを分解して選び抜いた十枚、十五枚の写真を時間の順序に配列し、その演出意図を分析するあたりは、さすがに現役監督ならではと感じさせられた。
なかでも、冒頭に置かれた第一回目の講義「動線」が素晴らしい。成瀬巳喜男の『乱れる』を例にとり、こえてはならない「一線」が、どのように映像化されているのかを解説する、その手際があざやかだ。その前に予習として取り上げた溝口の『西鶴一代女』における、身分の差のある男女を区切る「一線」とは、座敷と庭を区切る上下の区別だった。知ってのとおり、『乱れる』は、高峰秀子演じる死んだ兄の妻に思いを寄せる加山雄三の愛が成就するのかどうか、という一点に観客の関心はある。そこで、成瀬は高峰秀子に奇妙な演技をさせている。
警察からの呼び出しを受けた高嶺秀子は電話のある場所から店先に移動するのに土間に敷かれた渡り板の上を歩いている。また警察からの帰り道、いっしょに渡ってきた橋の歩道の最後のところで、高峰秀子は反対側に移る。それは何故か、というのが筆者の問いである。答えは、その橋がこえてはならない「一線」を象徴するものだからだ。橋は最後の温泉場のシーンでも再び登場する。戸板に乗せられた加山を追おうとして渡りかけた橋を、高峰は何故か立ち止まり、遠ざかる加山の死体を見送る。
ここでは橋が二人を隔てるものとしての役割を振られている。観客がそれに気づこうと気づかずにいようと、それは構わない。ただ監督としては、観客の無意識に訴えかけるように、何度も渡り板や橋の映像を提示する。われわれ観客は、反復される橋の横断に対する躊躇を無意識の裡に見ることで、はらはらどきどきしつつ、二人の関係の行方に引き込まれてゆくわけである。
評者のように一映画ファンに過ぎない者にも、この講義は面白かった。成瀬巳喜男の映画が好きで、何度繰り返し見ても、そのたびに胸打たれるものがあるのだが、その理由が、こうした演出の一つ一つにあったのだな、とあらためて教えられた。
第四回「動き」では三隅研次監督『座頭市物語』を取り上げている。勝新太郎と天知茂の出会いの場面(横並び)、交誼の場面(天知の背に勝)、勝負の場面(勝の背に天知)のそれぞれを見比べながら、二人の位置関係を確認し、二人が互いの顔を見合す位置にないことを指摘する。互いの力量を知る者通し、顔と顔を見合わせること、つまり斬り合いになることへの忌避がそこにある、という分析にも驚かされた。教えられることの多い一冊である。 -
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