- Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
- / ISBN・EAN: 9784781611495
作品紹介・あらすじ
タモリをもっと知りたくて。デビュー時から現在までの、タモリの様々な発言やエピソードを丹念に読み解き、その特異性と唯一無二の魅力に迫る。親しみ深くて謎の多い、孤高の男の実像とは。
感想・レビュー・書評
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【感想】
昔のタモリを知らない私にとって、タモリとは「多趣味のインテリおじさん」というイメージしかない。いいともを見ていた私でさえそうなのだから、いいともが終了した今、若い人にとってタモリは「素性の知れない人物」という評価になってしまうのではないだろうか。
しかし冷静に考えてみれば、29年間、毎日毎日生のバラエティ番組の司会をやり続けてきたというのは、尋常ではない。そこには生放送がゆえのハプニングがあり、毎日がゆえの疲労があり、そして29年間がゆえのマンネリがあるはずなのだ。にもかかわらず、タモリは一切の後腐れなく、飄々といいともをやり切ってしまった。いったい、この男は何者なのか。
本書『タモリ学』は、デビュー時から現在までの、タモリの様々な発言やエピソードを丹念に読み解き、そこから「タモリとは何か」という哲学に迫った一冊だ。といっても、タモリ本人にインタビューを行ったわけではなく、あくまで第三者目線でタモリの思想、人物像、芸風などを紐解いた「タモリ分析」である。
本書中のタモリ評として「なるほど」と思ったのは、「タモリは『芸』の人ではない」という考察だ。
タモリはそもそも、芸人としてどこかの養成所に入ったわけではなかった。タモリの面白さに惚れた赤塚不二夫が、タモリを自らのマンションに住まわせ、そのままバラエティ番組に出演させたのがテレビ初登場になる。その後赤塚らの口利きもあって田辺エージェンシーと契約を結ぶこととなり、ここから正式に芸能界入りしている。
そのため、タモリは「素人芸のプロフェッショナル」であった。デタラメな外国語を駆使した「4か国語麻雀」「イグアナの形態模写」など、持ちネタは演芸というよりも呑み会芸だった。初めて徹子の部屋に出たときは、いち芸能人ではなく「森田一義」名義であったという。
しかし、その素人っぽさが世間にウケた。今までのテレビは、大衆芸能といえど「プロ」と「素人」の間に乖離があった。そうした演芸空間としての「テレビ」をお茶の間に下ろしてきた人間が、タモリであったのだ。
タモリ本人は、「テレビが芸の時代じゃなくなってきた」と、80年代半ばに述べている。
「もともとテレビというのは、完成品には向いてない。あんな、ちいさな画面の中で、きちっとした落語なんていうのは。ちょっと向いてない」「テレビっていうのは状況ですからね。状況を流すということに一番威力を発揮するメディアだから、作られたものにはちょっと向いてないのかもしれない。完全に作りこまれたものには特に」
これは、タモリが素人とプロの中間で生きてきたことの証左だろう。タモリはアドリブ芸を得意とする。台本などの予定調和を嫌い、即興で作り上げるセッションを好む。だからこそ、生放送一発勝負という『いいとも』を、29年間にわたり作ってこられたのだ。
「タモリ」とは何者か。それはどこまでも自由であり、芸に縛られなかった芸人なのだ。
――「僕は予定調和が崩れて残骸が散らばった時に、また違うものになるのかどうかを目撃したいし、それが面白いんです。怖さ半分興味半分ですけど、結局は今そこで起こることが一番面白いわけですから」
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【まとめ】
1 偽善
タモリは小さい頃から「偽善」について考えていた。そのため、結婚式場やパーティや年賀状といった各種行事を一切行わない。
タモリは、「自分」とは何かについて次のように説く。
たとえば「会社の課長」「芸能人」「妻がいて子供がふたりいる」「友達が何人いる」といった、現時点での自分自身の状況を横軸とし、「親は医者」「家系」「叔父が不動産業界にいる」「子供が東大生」など、自分の周囲の人間が持つ事実を縦軸とする、と。この横軸と縦軸が交差したものが「自分」であるとタモリは言う。
「そうすると、自分というのは一体何か、絶対的な自分とは何か、っていうと、わかんなくなってくるわけですね。それだけこういう、あやふやなものの中で自分が成り立っている」
そんな「自分」を成り立たせている横軸も縦軸も「余分なもの」であり、それを切り離した状態を、タモリは便宜上「実存のゼロ地点」と名付けた。
人は、「家族を大切にする父親」であったり「どこどこの総務課長」であったりといった「役割」を与えられると、安心する。その「役割」の糸こそがシガラミである。
そして大人になれば、そのシガラミを無視することは現実的に不可能だ。18歳から22歳くらいまでの大学時代は、そのシガラミがほとんどない時期である、とタモリは言う。そこでその時期にこそ「実存のゼロ地点」を通過しなければならない、と力説するのだ。
「若者よ、シガラミを排除し、実存のゼロ地点に立て!」と。それを経験しているのとしていないのとでは、大人になった後、腹のくくり方や覚悟の仕方が違ってくる。
ゆえにそんなシガラミを象徴するような各種行事を排除していかなければならないと、タモリは結論付けるのだ。
しかし一方でタモリは「最近、『人間関係をうまくやるには、偽善以外にはないんじゃないか』って思ってる」とも語っている。「偽善って、徹底的にやると、これまた、別のたのしみがあるんです」
24時間テレビのパロディであると同時に、テレビそのもののパロディでもあった『27時間テレビ』。言い方を変えればそれこそ「偽善」の塊である。25年を経て、同じように『いいとも』レギュラー陣で行われた『27時間テレビ』もまた、「テレビ」そのものであった。
裏を返せばこの「偽善」は、テレビという内輪の世界でしか通用しない。テレビの外部から見れば空々しく、いかがわしいものでしかない。タモリはそのことも熟知している。だからタモリは『27時間テレビ』の最後の挨拶、「団結したかもしれないけど、国民からは離れたかも」という言葉に続けて、こう言ったのだ。
「えー、テレビを見ていてくれた方々、そして見ない方にも感謝を申し上げます。どうもありがとうございました」
テレビを見てくれた内輪と、見ていない外部。
タモリはテレビの中で「偽善」を徹底的に楽しみつつ、外部の視点をもってそこにツッコミを与えたのではないだろうか。
2 アドリブ
タモリは「放っておいても絶対笑わせられるのは分かってる。みんな笑わせるセオリーを持ってるから、そこでわざと無理難題を吹っかけてみると、次の笑いを求めようとして新鮮なものが見られる。これが、マンネリ化を防いでる」と答えた。
タモリはセオリー通り、予定調和になりそうな空気を感じた時、そこに予期せぬフリを入れることでアドリブが生まれるのを促していくのだ。
鶴瓶はタモリを「受けて答える芸人じゃなくて、相手を俯瞰してもの言う芸人、セオリーを崩して、新たな一面を引き出す。これまでにない形の芸人」だと評する。
タモリと鶴瓶のあいだには『いいとも』で、いわば共犯関係が成立しているのだ。時にタモリの無意味で自由なムチャぶりを、鶴瓶は懐深く受け止め続ける。そしてふたりは目を光らせながら、何かハプニングが起きないかとさまざまな起爆剤をさり気なく仕掛けていく。
タモリ「僕は予定調和が崩れて残骸が散らばった時に、また違うものになるのかどうかを目撃したいし、それが面白いんです。怖さ半分興味半分ですけど、結局は今そこで起こることが一番面白いわけですから」
3 他者
タモリは他者を観察し、思想まで模写することによって、自我からも解放される自由を手に入れた。すでに幼少時にその萌芽があった観察眼は、タモリの複雑な家系、家族関係に因るところもあるのではないだろうか。そうした環境であればこそ、大人たちの動向をつぶさに観察せざるを得なかったのだろう。そこで幼いうちにも、家族を客観的に俯瞰して見るような身の処し方を会得していったと考えられる。言い換えればそれは、家族の中にあっても「他者」を意識せずにはいられないということだ。
どこでも関係なくノリまくれるヤツはお笑いの世界で大成したためしがない、というのがタモリの持論だ。とにかく積極性が重視されがちと思われる業界だが、だからといって周囲のことなどおかまいなしに、自分のペースだけで押し切ろうとするようなタイプは、やはり適性があるとは言い難い。
「その場がどういう状況なのか、自分で感知する能力がないとだめなんだよ。どこでも同じノリをしちゃうヤツは、そういうのが働かない」
「この世界はフィーリングだから、どんなに面白くても嫌われる奴はダメで、どんなにつまらなくても好かれる奴は成功する。それを君に教えることはできない」
つまりこの世界では、人間性こそがもっとも大事だというのだ。その人間性を、その人の本質の部分を、テレビというメディアは如実に伝えてしまう。タモリは別のインタビューで、このように語っている。
「テレビっていうのはある面でおそろしいのは、その人の本当のところがよく映るんですよ」「テレビじっと見ていると、大体人間分かりますよ。表づらだけじゃなく。怖いですよ」
テレビによって映し出される世界は、「現実」とは似て非なるものであり、いわば恣意的に作られたものだ。しかし、いやだからこそ、そこにいる人間のごまかしようのない部分は、よりリアルに生々しく浮き彫りにされてしまう。
4 仕事
タモリはいいとも放送開始前の心境をこう語る。
「あれはね、オレ、3ヵ月で終わると思っていたんだ。3ヵ月の約束だったんですよ。オレ、毎日朝からはいやだし、どっちみちつなぎだろうと。だったら3ヵ月くらいやってもいいんじゃないかというぐらいの意識だったんですよね」
消極的にではあったが、ここで出演を決断し引き受けたことが、結果としてタモリに大きな飛躍をもたらした。
「仕事って面白いもんで、自分が、『これくらいの力があって、もっと力を付けたいんだけども、この辺くらいに行ったときにちょうどこの仕事が来ると良いな』と思ってたら来ないんだよ。あれ、絶対(実力が備わる)前の段階で来るんだ。で、そこでひるんだらココまでまた行けないんだよね」
横澤はタモリに「自然体」でやるようにも指示。当初は事前にゲストと打ち合わせを行い、トークの内容もある程度決めていたというが、それもやめた。
「まずくいったときはまずくいったで、それを見せちゃったほうが、見てる人は『今日、なんかちょっとぎくしゃくしてんじゃねえか』って……。毎日やってんだからいいじゃねえかって」
横澤は3日目で、タモリは1ヵ月で手応えを掴み始めていた。
「(仕事を)しんどいと思ったことはないね。現場は楽しい」とタモリは言う。横澤は「タケちゃん(ビートたけし)は遊びを仕事にしたんだ。タモリは仕事を遊びにした」と評した。
「笑いというのは贅沢品でしょう。精神のゆとりの中で笑ってるわけですからね」というタモリは、それゆえ仕事の時も遊び心を何より大切にする。
その緩やかな雰囲気をもって、「楽しくなければお昼じゃない!」という番組のコンセプトどおりの空気を作り出した。
横澤はタモリを「これほど、芸人として我のないやつに会ったことない」という。「攻撃力はない。でも受けに回ると、絶対ミスはない」と評し、以下のように語っている。
「どう攻め込まれても、なんて言うか、柔らかいでしょ。非常にふところ広いし。やっぱりソフトだけどガード固いしね」「誰とでも会話出来るっていう。タモリやさしいじゃない。だから一緒に出ている人、なんとかたててやろうというのがプラスに出るときと、マイナスに出るときが半々にあるんだけどね(笑)」
タモリの座右の銘が「適当」であることは有名だ。他にも「現状維持」「俺は努力ということをしない」などを挙げることもある。共通点は「頑張って向上する」ということを拒否した言葉であるということだ。「向上心なんてなかったですからねぇ。今もないし」とタモリは言う。
「目標をもつと、達成できないとイヤだし、達成するためにやりたいことを我慢するなんてバカみたいでしょう。(略)人間、行き当たりバッタリがいちばんですよ」
タモリが支持されたのは、そういったスタンスが時代のニーズにあったからではないかと自身も分析している。
「反省」もしない、「目標」も立てないのは、タモリが単純な虛無主義だからではない。むしろ逆で、過去の自分を振り返ったり、将来のことを考えてしまいがちな自分を嫌というほど知っているからこそ、あえてその執着を捨てたのではないか。それは「過去」の自分にも「未来」の自分にも縛られないということだ。「過去」からも「未来」からも自由になる。それは短絡的な絶望でも、安易な全肯定でもない。
「オレは何事においても期待していないところがある」
さまざまな紆余曲折を経たうえで、悲観も楽観もせず「これでいいのだ」とありのままに受け入れ、自由に生きる。それこそがタモリをタモリたらしめているのだ。その現在にしか希望はないのだ。
5 タモリにとってタモリとはなにか
タモリにはウソも本当もない。
「(『いいとも』などで)演技してないかっていうと、そんなことないんです。してるんですよ。ただそのベースに置くものが地なのか地でないのかの差だけで。だから地のところの振幅をちょっと増幅してやってるだけの話なんですね。だから演技はしてるんだけど、いわゆる役者の演技とは違うんです」
「俺の本当の芸は、なりすましってやつだよ」
タモリは自らの芸人人生をそう評した。けっして若くはない年齢で芸能界入りしたタモリ。「30歳で入ったから、ほとんどが先輩だった」と言うように、異例とも言える遅いデビューだったが、本当に異例なのはその出世のスピードだ。
「オレ、10年早く出てきたら、だめだったんじゃないかと思うんですよ。だから、30(歳)からのデビューは遅いと言われるけど、オレとしてはちょうどよかったんじゃないかと思うんですよね」とも話している。
タモリのような異質な芸を受け入れる土壌が、それ以前にはまだ整っていなかったのだ。だが、タモリの素人感覚を忘れない批評性が、時代に合致した。
「どうしても『こっちの世界』だけの感覚にはなりきれないんですよね。いまだに」「まだ『博多でテレビを見ていた人』の感覚が残ってるんですよ。奥のほうに」
だからタモリは番組を無理に盛り上げようとしないし、興味がないことにはどこまでも無関心で、嫌いなものは嫌いだとはっきり言う。番組を破綻なく進行させることよりも、ハプニングが起こることを期待する。すなわちプロフェッショナルであることに拘泥せず、アマチュアリズムに徹しているのだ。タモリは自らが「完成」してしまうことを嫌う。
「芸じゃないですよ、オレのやってるのは。むしろ芸といわれたらもう終りっていうか、イヤなんです。極端にいえば芸はやりたくないし、芸として成り立っているものを壊そうと、いつも思ってる」
『いいとも』の企画会議で横澤は、スタッフから提案された企画に必ず「その企画は何をバカにしていますか?」と聞いていたという。これはまさにタモリのスタンスそのものではないだろうか。タモリは視聴者の目線と出演者の目線を行き来しつつ、テレビも視聴者も言葉も意味も芸も俯瞰し、そして「タモリ」自身をも小馬鹿にしているのだ。だから何事にも動じないし、ひるまない。
そしてそれが受け入れられた。タモリはもはやジャンルを超え「タモリ」としかいいようのない存在となった。しかしだからといって、世間に対し自分のすべてを受け入れてほしいなどとは、ゆめゆめ思っていない。
「俺、あんまり社会と関わりたくないんだよね。勝手にやってるから勝手に見てくれた方がいい」
だからタモリはどこまでも自由だ。ブロらしい振る舞いからも、「過去」にも「未来」にも「社会」にも、そして「自分」にも縛られることはない。
タモリはいつだって、確固たる思想に裏打ちされたうえで、不毛で無意味な虚無の存在であり続けた。だから僕らは、無益で無意味なことが、かけがえのないものだということに気付くことができたのだ。
喜怒哀楽のうち「楽」は軽んじられがちだ。「喜」とも混同されやすいが、しかし明確に違う。タモリは「笑わせる」でも「笑われる」でもない「笑い合う」という「楽しい」笑いを、日々お茶の間に届け続けたのだ。淡々とした中にほのかな狂気を潜ませながら。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
タモリの自分も他人も期待しない絶望力は、共感できる部分が多々ある。目的も計画も持たない。刹那的に生きる。何事も楽しむのが知性的である。
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心に響くフレーズ
① 基本的な俺の姿勢は、若い奴らは若い奴らでやればいい。関わり合いなんて必要ない。
② コツは、はりきらないこと。感情を入れれば入れるほど客は引く。やる気のあるやつは去れ。
③ 人間にとって一番恥ずかしいのは、立派になるということです。
④ 自分にも他人にも期待しない。
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読もうかどうしようか迷って、やっぱり読むことにした1冊。読んでよかったかどうかは微妙。
なぜなら、読めば読むほど「タモリの謎」の深さを思い知らされるから。
それくらい、本書は「タモリ」という人をくっきりと浮かび上がらせている。
浮かび上がらせているにも関わらず、いやむしろ浮かび上がらせているからこそ、タモリの底なしの虚無が強く意識される。
「オールナイトニッポン」のパーソナリティをしているころから、なんとなく好きだった。好きなんだけど、絶対近寄りたくない感じもしていた。その理由が本書を読むとわかってくる。
大変な力作である。「タモリ」っていったいどういうやつなんだ、と思った人は読んだほうがいい。
読んで、一瞬わかったような気になって、でもやっぱり全然わかんないや、と思うことだろう。 -
笑っていいともの司会者、タモリ倶楽部、ブラタモリミュージックステーションの司会者。
唯一無二の芸能人。誰も目指せないタレントとして未だに君臨している。その理由は知性のある、何もしなさにあるのだろうか。幼稚園でお遊戯している園児をみて、こんな子供っぽいことやってられるかと言って、入園拒否したところからタモリの原型がある。 -
好きな言葉は「適当」
座右の銘は「現状維持」
コツはね、はりきらないこと。
やる気のある奴は去れ。
真剣にやれよ!仕事じゃねぇんだぞ!
タモリさんの考え方は自分と真逆なのでとても面白いし、よく人から頑張りすぎなんだよ、と言われる力み体質なのでとても参考にしたい。
努力することや一生懸命頑張ることも
素晴らしいと思うが、根性論や論理的思考ばかりではなく、人にも自分にも期待せず、現状を受け入れて刹那を生きる生き方は、肩の力を抜いてどこか余裕があるような、心が豊かになるような、、
タモリさんの思考は面白いと思ったし、自分にはない発想だと思った。
「人見知り」を自分の中ではネガティブに捉えていたので、「人見知りは才能」と言うタモリさんの言葉に救われたし、敢えて目標なんて持たない、という生き方はできるようで簡単にできないので、羨ましいなと思った。 -
タモリの思想を垣間見ることができる本。エピソードが独特で、読んでいて大変面白い。
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具体的な発言やアクションを詳述した、タモリのエピソード紹介。「芸能界における」タモリというパーソナリティについて学ぶのに格好。
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深い。丹念に資料を読み込んである。
そしてタモリという稀有な存在をあぶりだしている。