小池昌代詩集 (現代詩文庫 第 1期174)

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  • 思潮社
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  • / ISBN・EAN: 9784783709497

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  • 小池昌代さんが編まれたアンソロジーは、今までに何冊か拝読しましたが、御自身のまとまった詩集を拝読したのは、本編が初めてです。

    なにげない、日常にある光景、少しだけ非日常の情景などを切り取るのが非常に上手いと思いました。
    切り取って何か意味のあるものへとぐいぐいと移行していかれ何かそこに物語が生まれている。

    まだ、寒さ厳しい立春を過ぎたばかりだけど、日が長くなってきたことが感じられる午後の穏やかな薄曇りの光の差す中で、誰もいないところで、ひとり静かにひっそりと読みたい、そんな詩集でした。

    作家の角田光代さんが巻末に寄せていらっしゃる文章に「小池さんの詩を初めて読んだとき、難解だ、と私は思った。なんて難解な、詩らしい詩なのだろう、と」という部分がありますが、同様に思いました。


    「蜜柑のように」
    さよなら
    と言ってドアに手をかける

    あのひとが
    蜜柑をひとつポケットに入れてくれる
     あくまでも
     わたしにではなく
     ポケットに
    蜜柑のおもさ
    それはしなびた蜜柑だったから
    わたしはすぐに忘れてしまう
    しかし、さむい二月の夜
    さむい冬の夜道を歩くと
    大きめのオーバーのポケットの底
    蜜柑が足にうるさくぶつかるので
    わたしはこの果物の存在をおもいだし
    帰りぎわのあのひとのしぐさをおもいだす
     あくまでも
     わたしにではなく
     ポケットに…
    とおまわりした気持ちがようやく届いて
    うれしいとおもう
    わたしの遅さ
    蜜柑一個
    わたしたちはいつも
    それぐらいの何かを欠いて生きている
    やさしさは異物感
    ごつごつして見慣れない固まり
    辺鄙な場所へ落ちた、とおくからの届け物
    深いポケットに指をのばして
    わたしはおそるおそる蜜柑に触れる
    ひんやりした
    この夜の
    夜気よりも冷えたすこやかな固まり
    誰のものでもない、この固まりを
    蜜柑のように
    無造作に
    ポケットの底に
    ころがして歩く


    理解が追いつかない作品もありましたが、他では、
    「こども」「空豆がのこる」「夕日」「吉田」「おんぶらまいふ」も好きでした。

  • 打ち拉ぐほどの寒空の夜道に背中を丸め、包まる古び草臥れたオーバーを漸くハンガーに吊るした一息の形状を見て。ある詩を思い出した。そのオーバーの詩はきちんと本棚の合間に潜み囚われ待ち続け、私の不意の思い付きに鳥となって羽搏いた。詩はこうやって遅れてやってくる。記憶と同じように痛みを伴い解き放たれる。驚いたのは無意識下での私の官能の露呈。それは林檎一個分に測量され、はたまたポケットに丁度収まる蜜柑のでこぼこの肌触りを通して全身を貫く。静かにたおやかに見せかけながら暴力的にあばき出す。このざわめきをどう沈めよう。


    ちょっとのつもりが結局全部読んでしまった。以前読んだ時の感覚とぜんぜん違う。小池昌代は詩以外にも小説、エッセイとそれなりに読んできたが、読み手のその時の心情によっていくらでも感受のしようが変化する色合いの幅を言葉に与している。今の私にはかなりの突き刺さりようだった。まいった。

  • 目や耳でとらえた感覚から感情を呼び出すのがとてもうまい。それから、だんだん抽象的な名前や概念から景色や思いを呼ぶのが得意になっていく。精神を介して身体と詩が一続きになって、交互に行き来する感じ。走ることもなくて、ていねいに言葉をつないでいく。

  • ワンフレーズ、一行、たったひとつの単語でも
    こんなものが自分の中から出てきたら
    嬉しくって小躍りしてしまうんじゃないか、というくらい
    妬ましいほど素敵な言葉が並んでいて
    キラキラしているのでも眩しいのでもないのに
    なぜか眼を細めてしまうような言葉が並んでいる。

    例えばそれは、ロラン・バルトみたいなキラキラさではなく
    世界への視点も全然違っていて
    たぶんこの人は回転しないひとつの視点を持っていて
    まっすぐまっすぐそこから、見ているのかもしれない。

    風が通り抜けるみたいに言葉が通り抜ける、そんな軽やかさもあって
    気づくと「好きだ、好きだ」と言う自分の声と一緒に読んでいる
    そんな不思議な詩がつまっている、薄い本。

  • 詩人としての小池昌代と向き合ったことがこれまでなかった。小池昌代が詩人であることは知っていたのだが、とにかく機会がなかった。機会がなかったのは、自分がそもそも、詩、という世界に向き合っていないということもあるし、詩の世界が極端に小さく、それ故回りの世界からの侵入者を容易に受け入れない、という事情もあると思う。事実、さて小池昌代の詩集を手にしてみたいと思い立っても、簡単には手に入らない。おそらく行くべきところへ足を運べば書棚に並んでいるのかも知れないけれど、それがどこなのかが解らない。そんな中で手に入れたのが思潮社の現代詩文庫に納められている「小池昌代詩集」である。

    この一冊には小池昌代の第一詩集「水の町から歩きだして」から2001年に刊行され辛うじて今でも一般的な書籍販売網に乗っている「雨男、山男、豆をひく男」までの六つの詩集から選ばれた詩が収められている。だからこの詩集の最初の頁から順番に読むことは小池昌代の詩の年代譜を眺めることでもある。当然といえば当然なのかもしれないが、そこに見いだされる変化は決して小さくない。しかしそれを論じる視点を自分は持たないし、まして小池昌代を研究しようというのでもないから、その変化は単に変化として受け止めておく。あるいは小池昌代というパステルセットの中に収まっている多くのクレパス色の違いと考えることで十分である。もちろん、好きな色もあるし、それ程でもない色もある。

    色に例えて見て思ったのだが、それでは好きな色のクレパスを一本ずつ買い集めて何かの容れものに納めたら、どうなるのか。同じ色ばかりが集まるわけではないだろう。きっと少しずつ異なる色のクレパスが並ぶことになるだろうなと予想される。そして思うのだが、それでもその中に、より好きな色とそれ程でもない色が混ざっているのだろう。この詩集のあり方はある意味でそんな風にして選んだ小池昌代パステルセットのようなものなのだな、と気付く。もし、小池昌代の全ての詩を並べてみて、その中から好きな色の詩を見つけ出すという機会に恵まれたら、ここには入らなかった詩が自分の選んだセットの一色になるかも知れない。しかしその機会は今のところ与えられていない。詩の選者は小池昌代本人なのだろうか。いずれにしてもその目の感光性が、そして色に対する感覚が自分と近しいことを願うばかりだ。

    詩集を読んでいて思うのだが、好きな色とそうでもない色、ということとは別に、つまずくことなく読む詩と、つっかえながら読む詩がある。これは選ばれた言葉の集合問題でもあるけれど、体のリズム、というようなもう少し身体的なものと関係していることであるようにも思う。

    言葉の集合問題というのは、小池昌代の脳の中にイメージされている言葉の持つ世界(=集合)が、自分の脳の中にイメージされている集合とどう重なるのか、という意味だ。その言葉が意味することが可能な全体集合の中で、おそらく小池昌代のイメージも自分のイメージも部分集合であるに過ぎないだろうし、A=Bであるとは期待していない。それでもA∩Bが大きければ理解も大きいだろうからつまずきにくいと予測できるだろう。実際には、逆につまずきにくいことから、A∩Bが大きいだろうと期待しているのだが。

    一方で身体的な問題というのは、ブレスの位置の問題という意味だ。句読点そのものの問題である場合もあるし、一連の言葉の繋がりをどこまで一気に頭の中に取り込むのかという問題でもある。その区切りが自然に、意識的な拍子を働かせることなく、リズムとして流れる詩と、意識してリズムを取らなければいけないと感じる詩がある。もっとも、新しい楽譜を手にしそこに書かれている曲を再生するという作業を繰り返してきた経験から言えるのは、最初頭の中にメトロノームを置くようにして考えながらでなければ音にできなかった旋律でも、いずれ体に染み込んでしまえば、最初からそのようにしか歌うしかなかったものと感じるようになる。だから、リズムの合わない詩も繰り返し読むことによって、馴染んでくることもあるだろう。

    逆に全く馴染まない位置に「、」と打ってある文に出会うと、ぐっと詰まったような感覚を味わう。それが、嬉しい、と感じるか、うるさい、と感じるかで、その作者の評価が決まってしまうことだってある。意外性というのは案外難しいものだな、と思う。

    そんな理屈をこね回しながら詩を読む必要もないとは思うのだが、気に入った詩に印を付けていくと、どんな詩を自分が好むのか、そしてそれにどんな共通項があるのかが見えて来て面白い。そして二つの問題で言えば、自分の好みは平易な言葉でありながら意味の奥行きが感じられる置き方をされている詩、そしてミニマルなリズムの詩、ということになるようだ。

    「あたりまえのこと」という詩がある。

      男の大きな靴をはいてみた。ら、あまってしまって。
     それがまた、がぽがぽ、というような、えらくひどいあ
     まりかた。なので、あまってしまう、ということは、こ
     んなにも、エロティックなことだったか、と思うのだ。
      それにしても、と、この大きさを満たしている男の足
     を思ってみる。あのひとの日常。
      それにしても、と、今度は又、自分の小ささに戻って
     みる。
      知らないうちに、からだが、勝手に貸し出されていた
     ような気分である。
      さきっぽに届かないつま先が、なんだか、むずがゆく、
     あたらしい。
      ひとの靴のなかに、自分の足を入れてみる。そして、
     ぬいでみたりもするなんて。それから、そのようなこと、
     別に男に言うほどのことではない、などと考えている。
     そのこと。
      そのことさえ、たぶん、とてもエロティックなことな
     のだわ、と考える。さきほどの。男の靴。
     
    ひらがなと漢字の混合のされ方。「。」と「、」の入れられ方、使われ方。言葉が走り出そうとすると、すっと立ち止まる。そして、また、歩き出す。リズム。くぅとなる。言葉から立ち上がる世界もいい。事実の記載から逸脱して、それがとても性的な感情にも繋がっている。匂いまで「聞こえそうな」言葉だ。そして最後に「なのだわ」と来る。そこで一気に小池昌代の女性性の中に落ちていくような錯覚を覚える。そこから、粘膜質の世界を広げれば広げられそうなのに、急に、「さきほどの」の後に「。」と打ち、思わず小池昌代の頬に伸ばしかけていた手は払いのけられ、「男の靴。」と、あたかも昔話が「とってんぱらりのぷう」と終わるかのように放り出す。放り出される自分の慣性を、ずしりと意識させられる。それに「あたりまえのこと」という題を付ける。完全に小池昌代のとりことなる。

    「あたりまえのこと」ではどこか確信犯的な印象を残す詩人が、一転して中途に投げ出された地点にこそある安定と呼べるような心情を書き残してみせる「あいだ」という詩がある。個人的にはこの詩にある、どこにも行かない、行く必要のない、時間すら止まったような瞬間、心持ち、に理由もなく惹かれる。その世界の、佇まい、がよい。

     とおくからボールがころがってやってくる
     けられたボールがころころ、ころがって
     疲れたわたしの方へやってくる
     むこうから男の子が駆け足で追ってくる
     届くのかしら
     届かないのかしら
     届いてほしいような
     届かなくても、ほっとするような
     すると、ボールは ぽとぽと、ゆるまって
     ほんの手前
     つめたくて、すこしあまい距離をのこすと
     わたしに届かず止まってしまう
     あ、と見るわたし
     あ、と見たあのこ
     もちよったじかんが重なり合わない
     こどもと私とボールが在って
     みじかく向き合った名もないあいだ
     悔やむことなんて、きっとなかった
     届かないボールのなんというやさしさ

    「やさしさ」。どこへも行かないこと、どこへも行けないことを「やさしさ」と言って許す母性のような視点。とてもいい。それに、この詩の中では言葉遊びのように、短い言葉が置き換えられることによって、移動する視点、あるいは、感情の変化、などが巧みに言い表されていると思う。このような言葉の重なりが、個人的には、気に入っている。手法、というと少し固く響き過ぎるのだけれど、言葉が半分だけ生まれていてどこへ意味づけされていくのかが決定されていない瞬間、そういう時を切り取るのが小池昌代は得意であるように思う。例えば「きょう、ゆびわを」という詩が、そんな小池昌代の特徴を表していると思う。

    「きょう、ゆびわを」
    と言いかけて
    彼が立ちあがった
    きょうは、クリスマスである。
    その背中に
    (「あなたに、買った」)
    と構想を重ねたが
    人生は
    「道で拾った」
    と続くのだった
    指にはめるとぐらぐらとまわった
    小さなダイヤとサファイヤの。
    「けいさつに」
    届けるべきだろうか?
    そんなことは知らない
    がっかりしたので
    「がっかり」と言った
    彼は
    「え?なに?なに?」と言いながら
    ゆびわの今後に余念がない
    持ち主は
    ふっくらとした
    やさしい指をした女にちがいない
    わたしと
    彼と
    見知らぬ女と
    その日
    ゆびわのまわりには
    ゆれうごくいくつかの感情があり
    拾われて
    所有者を離れたゆびわのみが
    一点、 不埒に輝いている
    「きょう、ゆびわを」
    「いためて食べた」
    でも
    「きょうゆびわを」
    「みずうみで釣った」
    でもなく、
    なぜ
    「きょう、ゆびわを、道で拾った」のだ?
    わたしはふいに
    信じられないことだが
    この簡単な構文に
    自分が感動しているような気がした
    ひとが歩き、ひとが生きたあとを
    文が追っていく
    なんということだろう
    そして
    あのひとが
    「きょう、ゆびわを」
    と言ったあと
    そのあと
    一瞬、訪れた、深い沈黙
    文ができあがる
    私に意味が届く
    私をうちのめし、私を通りすぎ
    生きられたことばは
    すぐに消えてしまう
    私はあわてて紙に書きつける
    しかしそれは
    どこからどう見たとしても
    平凡でありきたりな一文だった
    「きょう、ゆびわを、道で拾った」

    余談だけれど、この詩は何故か縦書きよりも横書きの時の方が自分には、解る、感じがする。言葉が縦に書かれていると、どうしても時間が経過していかないような錯覚を覚えることがある。言葉の持つ、間、のようなもの、それは詩人が口にするのを、少しだけ躊躇う間、のようなものだと感じているのだけれど、縦書きだとそれに気づけないように思ってしまうことがあるのだ。

    ところで、この詩でもう一つ面白いと思うのは、言葉がさらさらと生まれて消えていく様を小池昌代が淡々と描いているようでいて、実は「あわてて紙に書きつける」ところだ。少しユーモラスな、少し真剣な詩人の姿がイメージされて来て、親しみが沸く。かわいらしい。だけれど、最後にまた、冷静に「平凡でありきたりな一文だった」と見切っているところが凄い。この冷静さ、そして、言葉が生まれた瞬間に持っている鮮度に対する感受性の高さが、小池昌代という詩人を成り立たせている要素だと思う。それは、例えば、この詩をもう少し小さなスペースに入れ直そうと、改行を「/」で置き換えたり、一部を省こうとしたりしようとすると、強烈に解る。冗長なようでいて、実はそのようなことを許さない、切り詰められた言葉の配置がそこにはある。そのような配置でなければ、生まれた瞬間に小池昌代が感じた思いを再現し得ないのだ、ということが解るのだ。

    ある風景を切り取り、切り取った断面を眺め、奥に隠れているものを探り出す。その手腕のしなやかさに感心し、こんな詩を書いてみたいとも思うのだが、それは決して誰もがまねのできるやり方という訳ではない。見つけたいものしか探し出せないように、小池昌代が探り当てるもの、それは小池昌代の視線でしか見えないもの、あるいは小池昌代の中にしか存在しないものなのだから。だから、その眼が見て、その耳が聞いて、言葉にされるのを待つしか、自分達には許されていないのだな、と観念するのだった。

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著者プロフィール

小池 昌代(こいけ まさよ)
詩人、小説家。
1959年東京都江東区生まれ。
津田塾大学国際関係学科卒業。
詩集に『永遠に来ないバス』(現代詩花椿賞)、『もっとも官能的な部屋』(高見順賞)、『夜明け前十分』、『ババ、バサラ、サラバ』(小野十三郎賞)、『コルカタ』(萩原朔太郎賞)、『野笑 Noemi』、『赤牛と質量』など。
小説集に『感光生活』、『裁縫師』、『タタド』(表題作で川端康成文学賞)、『ことば汁』、『怪訝山』、『黒蜜』、『弦と響』、『自虐蒲団』、『悪事』、『厩橋』、『たまもの』(泉鏡花文学賞)、『幼年 水の町』、『影を歩く』、『かきがら』など。
エッセイ集に『屋上への誘惑』(講談社エッセイ賞)、『産屋』、『井戸の底に落ちた星』、『詩についての小さなスケッチ』、『黒雲の下で卵をあたためる』など。
絵本に『あの子 THAT BOY』など。
編者として詩のアンソロジー『通勤電車でよむ詩集』、『おめでとう』、『恋愛詩集』など。
『池澤夏樹=個人編集 日本文学全集02』「百人一首」の現代語訳と解説、『ときめき百人一首』なども。

「2023年 『くたかけ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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