「心の闇」と動機の語彙: 犯罪報道の一九九〇年代 (青弓社ライブラリー 78)

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  • 青弓社
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  • Amazon.co.jp ・本 (171ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784787233660

作品紹介・あらすじ

神戸連続児童殺傷事件など、1990年代の犯罪事件の新聞報道を追い、「心の闇」という言葉が犯罪や「犯人」と結び付くことで、私たちの社会に他者を排除するモードをもたらしたことを明らかにする。そのうえで、他者を理解し関係を再構築していく方途を示す。

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  •  その行為の動機を理解しうる者と理解しえない者の一線。それは、私たちの社会の”まともな”メンバーであるか否かを分ける一線でもある。何らかの社会規範(例えば、法)に触れる行為をした者であっても、その理由が適切な形で理解されるならば、そのかぎりで彼/彼女は”私たちの社会の一員”である。しかし、全くわけがわからない理由で規範を侵犯する者を、”逸脱を犯してしまった仲間”として遇する必要があるだろうか。犯罪と逸脱をめぐる語り、その動機の理解に照準化された語りは、こうした問いの前に私たちを呼び寄せる。「心の闇」という言葉は、その行為者が私たちの社会のメンバーであるかどうかが疑わしいということを示そうとしているのかもしれない。私たちは、この定型句が、本当にその人間の「心」を理解せよと要求しているのか、そうではなくむしろ”理解不能”を宣告しようとしているのかを慎重に見極めていかなければらない。(38-9)


    現在でも犯罪報道において、犯行を犯した者の動機を語る際に用いられることのある「心の闇」という言葉。それは1990年代になって登場し、地下鉄サリン事件や酒鬼薔薇聖斗事件を皮切りに頻繁に用いられるようになった。本著はライト・ミルズの「動機の語彙論」をベースとしながら、現代までの心の闇言説自体の変遷、そしてその言説を私たちがいかに処理するようになったかの変遷をも記述するものである。


    90年代まで心の闇という言葉は、その対象について詮索を始めることを宣告するスタートの合図であった。そこでは、加害者への過剰な詮索や、精神分析や心理学のタームに過剰に依存した牽強付会ともいえる動機の説明がなされたりという弊害が、確かに生まれていた。

    しかし、90年代を通り過ぎた今、その言葉は詮索の幕引きを宣告する合図となっていると著者は考える。もはや人びとは、他者の「心」を詮索するゲームは不毛であることを認識したのかもしれない。その代償として「心」に対する関心ごと、喪失してしまった。理解不可能なものであることをどこかで懸念しながらも対象について語りを尽くそうとする動力は、消え去ってしまった。90年代の言説が正常なものであったと断言は出来ないが、現在では言説が生じるその余地自体が、やせ細ってしまった。


    つい先日の「黒子のバスケ事件」についての詮索の盛り上がりを見るにつけ、決して犯罪動機への詮索の欲求自体が衰えているわけではないとは思う。しかしその詮索の語りには、これまではあまり目立つことのなかった「被告が在日である」などといった(これは被告が否定している)「心」に動機を求めない語り、その対象の社会的・生得的属性に全てを還元させるような語りが、確実に現れてきている。そしてこうした語りもまた、他者への理解を早々に打ち切ろうとする幕引きの合図の、ひとつの亜種なのだろう。


    極めて日常的な話題から自分の「動機」「理由」という用法について再考する契機となる、好著。ボリュームも多すぎず、読みやすい。


    (参考:「『黒子のバスケ』脅迫事件の被告人意見陳述全文公開1」http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140315-00033576/

  • 「心の闇」という表現そのものに焦点を当てた一冊。

    第一章ではライト・ミルズの動機の語彙論を引き、「動機が判る」という事は一体どういう事なのかを論じる。
    二章では新聞記事を通じて「心の闇」と言う表現が使われ出し・一種の形容表現と化し・そして情報の受取り手に対しても広がって行った課程を酒鬼薔薇事件の記事から抽出し、「心の闇」というタームが理解しなければならない/が理解することは到底出来ないという二つの意味を同時に発している、と論。
    三章では「心の闇」という言説が広く使われ始めた酒鬼薔薇事件に対して大学生に対して行った質問から、情報の受け手側の受容の形式――「動機が判る/判らない、またどうすれば判りうるか」を分析。
    四章では酒鬼薔薇事件以降の「心の闇」表現から豊かな社会/キレる(非行を通り過ぎる・理解不能な)逸脱者、またいい子にみえたのに/得体の知れない不気味さ、という言説の中の二つの方向性を見、また「心の闇」表現に精神医療の言語が導入されていく課程を見る。
    五章では「物語モード」「論理-科学的モード」を引き、「心の闇」という従来の「物語モード」の動機理解の危機を契機に、「論理-科学的モード」に近い精神医療の言語が動機理解に導入されることによって、まさに行為を行った人物へのアプローチではなく要因→犯罪という個人の要素を省いたアプローチ方法に変容しているのではないかと論じる。

  • 1990年代以降の少年犯罪報道に焦点を当て、そこにおける「心の闇」なる言葉の使い方から犯罪報道の社会的役割について述べられた論考。少年犯罪言説で頻繁に使われるようになった「心の闇」なる言葉が、現代の若年層そのものをある種の「病理」として描き出し、そこから社会を「理解」してしまうスタイルが如何にして広がっていったかが立証されている。

    少年犯罪者、さらには若年層をめぐる「不可解さ」をめぐるメディア上の(読者も含めた)やりとりが社会の転換すら生み出してしまうという点を指摘しているという点で、おそらく多くの社会学者に反省を迫るものであるかもしれない。1990年代から現在に至る若い世代を「切断」してしまう言説(そしてそれには当の若い世代自信も関わっている)を批判的に捉えるために欠かせない一冊だ。

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著者プロフィール

鈴木 智之 1962年生まれ。法政大学社会学部教授。著書に、『村上春樹と物語の条件――――『ノルウェイの森』から『ねじまき鳥クロニクル』へ』(青弓社、2009年)、『眼の奥に突き立てられた言葉の銛――目取真俊の〈文学〉と沖縄戦の記憶』(晶文社、2013年)、『死者の土地における文学――大城貞俊と沖縄の記憶』(めるくまーる、2016年)、『郊外の記憶――文学とともに東京の縁を歩く』(青弓社、2021年)、『ケアとサポートの社会学』(共編著、法政大学出版局、2007年)、『ケアのリアリティ――境界を問いなおす』(共編著、法政大学出版局、2012年)、『不確かさの軌跡――――先天性心疾患とともに生きる人々の生活史と社会生活』(共著、ゆみる出版、2022年)など。訳書に、A・W・フランク『傷ついた物語の語り手――身体・病い・倫理』(ゆみる出版、2002年)、B・ライール『複数的人間――行為のさまざまな原動力』(法政大学出版局、2013年)、M・アルヴァックス『記憶の社会的枠組み』(青弓社、2018年)、C・マラブー『偶発事の存在論――破壊的可塑性についての試論』(法政大学出版局、2020年)などがある。

「2023年 『断絶』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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