- Amazon.co.jp ・本 (303ページ)
- / ISBN・EAN: 9784787291882
作品紹介・あらすじ
アキバの空、アリアケの夏──。アニメ的なイラストが特徴のエンターテインメント小説、ライトノベル。歴史や周辺事項を解説しながら読み解くための多様な視点を示し、具体的な作品読解も交えてライトノベルにアプローチする方法をレクチャーする入門書。
感想・レビュー・書評
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2022/2/5読了。
短期集中独学講座「ライトノベル概論」二冊目。
ライトノベルを文学研究の対象ジャンルの一つとして扱うといった体でまとめられたラノベ語り入門書。
文学部に「中世文学概論」「近世文学概論」などと並んで「ライトノベル概論」という授業があったとして(もうほんとうにあるのかな? 最近の大学のことはよく分からん)、その受講生が授業が始まる前に読んでおきなさいと渡されるサブテキストのような内容だなと思った。好きでラノベを読んできた学生に、ライトノベルを研究対象として扱う際の切り口やアプローチのトレンドを紹介するという内容でもある。もちろん新興のジャンルであるから、そこで紹介されるものはすべて序説になるわけである。
(研究序説以前の、高校生の読書感想文レベルの稿が含まれているのはご愛嬌だろうか。第四部のお稲荷様とスレイヤーズの感想文のことだが。)
サブカル批評視点じゃなくて、こういう基礎勉強視点でライトノベルを扱う本を読んでみたかったので、個人的には参考になる部分が多かった。中でも第三部の読者論の稿が、僕自身がライトノベル全体に底流する何物かに対して感じる違和感の正体を探る上で、たいへん参考になった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
様々な分野が網羅的に研究されており、読みたいところだけを抜き出して読むことも可能
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『児童文学』の教科書だったので読んだ。ラノベにおいてストーリー性<キャラクターなのが、よくわかる。
文学少女の記述が好き。 -
2011 9/12読了。文学フリマ(2011春)で購入。
買ってからずいぶん積読してしまっていた本。
出版から購入までにも間があるので、出てから読むにはかなりの期間があいていることに。
中身は正しく文学フリマで売っていそうなライトノベル批評をいっぱい集めた感じの本。
「ライトノベルとは何か」とか激論飛び交うところに突っ込んでいく本かと思ったらそういうことは特になく、使われる道具としても割と馴染みのあるところ(大塚/東/新城etc...)が多い感じ。
学部生・院生が集まって作った本、ということでもあるので、これはまあこういうノリでいいんじゃないかと思う・・・が、「研究」っぽいものを期待しているとちょっと肩透かしかも?(そういう意味ではコラム的に入っている情報工学の人が本気で情報工学的にライトノベル研究してくれたりすると面白い)
佐藤ちひろ論文のライトノベルはイラストだけでなく、本文もマンガ的な表現(顔に青い縦線、など)を事実のように描写することで取り込んでいる、というところは言われるまで気づいてなかったので面白い。 -
(2010年:清水均先生推薦)ライトノベル研究書としては『ライトノベル文学論』『キャラクター小説の作り方』『ライトノベル「超」入門』『ライトノベルよ、
どこへいく』が傑出しているが、本書は『ライトノベルよ、どこへいく』と並び、ライトノベルの「現在地」を見定めるために
は欠かせないものである。ただし、いまだにイラストの機能について正面から論じたものがないことは問題である。 -
入荷先:府中市立中央図書館
とてもじゃないが評価できる代物ではない。あいた口がふさがらないとはまさにこのことか。
確認するが、本書は体裁として「ライトノベル」を文学批評してみようというノリで一貫しているのだろうと推測する。本書をとても評価できない理由もまさしく「推測する」ことしかできない点に集約される。
以下の文章ではかなりの悪態をつくのでそのつもりで。
評者自身、「批評」という地点に達することはおそらく困難な営みになっていることを自覚してはいるのだが(むしろここのところ、ネット上での「ぶっくれびゅー」がレビューなのか、書評なのか、「どくしょかんそうぶん」なのかの区別がつかなくなる時がある)、そうした苦悩が執筆者たちのノリでは一切見ることができない。ただの自己満足に成り下がっている。コミケ3日目の「評論サークル」のどうしようもない同人誌の羅列と言い切ったほうがてっとり早いし、もはや結論になってしまっている。
とりわけ評者をカンカンに激怒させたのは、ライトノベルのジェンダー分析という8章(久米依子)と木原音瀬の分析をしたという13章(山田健一朗)。全体的にテクストを満足に扱えていない印象がある中で、13章の読みの杜撰さにはどうコメントすればいいのだろうか。一読者そして一評者としてコメントすれば、もし木原を取り扱う以上、極北作品といわれる『Will』の分析なくして木原の分析は成立しない(私が木原を分析できないのもこれによる。逆説的な意味では、作家のばらつきという問題を考える好例かもしれない)。ある作品だけをピックアップするときに必要な動機付けがまったくと言っていいほど見られないし、しようとする努力の痕跡も見られない(すくなくともシロウトレビューアーの私だってするときはする)。
また久米の言説にはジュディス・バトラーがいないのだ(久米のあの程度の言い方ではバトラーをまともに読めているとは到底言えない)。あなたは80年代のアクティビストで思考停止しているのではあるまいか?
また執筆者たちの意識や見方もどことなく「なんちゃって文学分析」・「なんちゃって社会学」という批判が免れず(一覧にすると、クロスメディア・オーディエンス文化とオーディエンス・マンガ・版元・ゲーム・児童文学・SF・「しゃかいがく」・「じぇんだー」・などなど批判や多角化を要求される分野からしかものが言えていない)、そのような分析をしたからといって何になるのか。御用学者になって鼻天狗になるのが関の山だ。
主編者である一柳についても、本務校である横浜国立大学出身者から「こっくりさんしかできないダメな人」という声を聞く(だから『我が家のお稲荷様』というおバカな三流ライトノベルにハマれるのね、あれもキツネが絡むから!)。そしてこれではっきりと明確なものになったようだ。ライトノベル(ボーイズラブでもいいけど)から早急に足を洗わないとわが身も危うくなるのだということを。
とてもじゃないが、この現状ではお粗末すぎる。ライトノベル分析以前に、執筆者たちの分析様式そのものが奈落の底に落ちているという事実(と言うにはあまりに情けない惨状っぷり)だけを読まされているようなものだ。 -
学校の教科書。
かなり興味深い内容だったけど、まだまだ序説だなーって感じ。