教養としての芥川賞

  • 青弓社
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  • Amazon.co.jp ・本 (356ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784787292612

作品紹介・あらすじ

1935年に創設されて以来、数々の文学シーンを演出してきた文学賞である芥川賞。あまたある受賞作のなかで、いまあらためて読まれるべき作品、小説の魅力や可能性を教えてくれる作品とは何か。

第1回受賞作の石川達三『蒼氓』から大江健三郎『飼育』、宮本輝『螢川』、多和田葉子『犬婿入り』、綿矢りさ『蹴りたい背中』、宇佐見りん『推し、燃ゆ』まで、23作品を厳選。あらすじと作品の背景を概説したうえで、社会状況も踏まえながら、作品や作家の内面・奥行きを文芸評論家と文学研究者が縦横に語り合う。

「芥川賞と三島賞、野間文芸新人賞」「卓抜な新人認知システム」などのコラムで芥川賞の意義も解説。芥川賞受賞作をめぐる対話を通して教養を深めるためのブックガイド。最良の「文学の航海図」を手にすることで、小説の多面的な読み方も身につく一冊。

感想・レビュー・書評

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    【2022学生オンライン選書ツアー 書評】
    本書は、日本の純文学系の文学賞として中心に位置する芥川賞について、過去の受賞作品を取り上げながら文芸評論家と文芸研究者が対談を行い、それをまとめたもの
    である。
    作品についてだけでなく、コラムにて芥川賞の意義についても両者から解説されている。
    本書の特徴は、過去の受賞作品についての対談が、発表された当時の社会状況を浮き彫りにしていることである。
    ただ、村上春樹のような「非受賞作家」についての考察はさらに気になるところだ。

    <Y.Nさん>

  • 1980

    宮本輝読みたいと思った。

    綿矢りさ 蹴りたい背中

    綿矢りさが大化けする小説家ってみんなに言われてるよね

    今芥川賞の解説みたいなの読んでるんだけど、宮本輝の小説は美しさと不気味さがあるって言ってて、この蛍の身投げという現象も美しさと不気味さが共存した現象だと思った。

    356P

    ある種の世俗的なもの、浮世の義理や人間の体臭と関わらないと芥川賞はとりにくいということはわかります。かといって世俗だけでも芥川賞には手が届かない。世俗だけでも、世俗から離れすぎても受賞できないのが芥川賞という気がします。世俗をうまく結晶させて提示することが求められるように思いますね。

    助川幸逸郎
    1967年生まれ。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、横浜市立大学のほか、早稲田大学、東海大学、日本大学、立正大学、東京理科大学などで非常勤講師を務める。専門は日本文学だが、アイドル論やファッション史など、幅広いテーマで授業や講演を行っている。『源氏物語』の登場人物で、もっとも学ぶべきだと思うのは頭中将と源典侍、もっとも学んではいけないと思うのは光源氏と藤壺。著書に『文学理論の冒険』(東海大学出版会)、『可能性としてのリテラシー教育』、『21世紀における語ることの倫理』(ともに共編著・ひつじ書房)などがある。最新刊は、『光源氏になってはいけない』(プレジデント社)。

    重里徹也
    1957年、大阪市生まれ。聖徳大学教授、文芸評論家。大阪外国語大学(現・大阪大学)ロシア語学科卒。毎日新聞社で東京本社学芸部長、論説委員などを務めたのち、2015年から現職。著書に『文学館への旅』(毎日新聞社)、共著に『平成の文学とはなんだったのか』(はるかぜ書房)、『つたえるエッセイ』(新泉社)、『村上春樹で世界を読む』(祥伝社)、『司馬遼太郎を歩く』全3巻(毎日新聞社)など。聞き書きに吉本隆明『日本近代文学の名作』『詩の力』(ともに新潮社)。「東京新聞」「産経新聞」、「毎日新聞」のサイト「経済プレミア」で書評を執筆中。

    1 石川達三『蒼氓』第一回、1935年・上半期
    移民する農民たちを描く/倫理も思想も問わない社会派/群像を見る視点はどこにあるか/太宰治と芥川賞/

    石川達三
    (1905-1985)秋田県横手町(現・横手市)生れ。早稲田大学英文科中退。1930(昭和5)年、移民船に便乗してブラジルに渡り半年後帰国、1935年移民の実態を描いた『蒼氓』で第1回芥川賞受賞。戦後は『風にそよぐ葦』や『人間の壁』など鋭い社会的問題意識をもった長編を続々発表、書名のいくつかは流行語ともなった。他に『結婚の生態』『青春の蹉跌』『その愛は損か得か』など、恋愛をテーマとした作品も数多い。

    私はこの小説を読んで二つのことを考えました。一つは、この『蒼氓』に比べたら、プロレタリア小説のほうが通俗小説としても面白いのではないか、ということ。プロレタリア小説は、しばしば極限状況を描くのでドラマチック。人物造形も、一面的なケースが多いとはいえキャラは立っています。どちらも、『蒼氓』には欠けている魅力です。もう一つは、さっき新聞記事みたい、という言い方をしましたが、この文体はノンフィクションを書くほうがフィットする感じがするんです。ですから、この書き方で石川自身のブラジル体験をありのまま書いてほしかった。石川は、自分のブラジル体験を、『最近南米往来記』(昭文閣書房、一九三一年)と銘打った実録として公表しています。どうしたわけか、この実録のほうが『蒼氓』よりもずっと文学的というか、美文的なスタイルで書かれているのです。『蒼氓』のニュートラルな文体で、実録を書いてくれたらよかったのに

    それから、芥川賞には、かなりジャーナリスティックな性格があります。『逆行』は、いま読んでも確かに魅力的ですし、文章も普遍的な価値に届いています。しかし、一九三〇年代の文壇とか、この時代の日本社会を考えるには、圧倒的に『蒼氓』のほうが参考になるんです。文芸として、エヴァーグリーンな価値があるものよりも、そのときそのときの時流を映し出す作品が選ばれやすい傾向が、芥川賞には確かにある。そう考えると、『逆行』ではなく『蒼氓』という選択は、この賞らしい感じがしてきます。

    純然たる文学論を書きにくい作品にも受賞させるのが、この賞のジャーナリズム性ですね。だからこそ、芥川賞はいまでもこんなにメジャーなのかもしれません。ただ、文藝春秋が選考委員にお願いして、時流に合致した作品を選んでもらっているわけではないんですよね?

    どの作品で候補になるのかも、確かに受賞に影響しますよね。このときの芥川賞の候補作は、いまと同じように文春の社員が選んでいるんですか?

    2 石原慎太郎『太陽の季節』第三十四回、1955年・下半期
    動物の生態を描いた小説/求めるのは「許容する母性」/もってまわった疑問文/排除される崇高なもの/司馬遼太郎という対極

    第一回文學界新人賞を受賞し、続けて芥川賞を受賞した。ベストセラーになり、一大センセーションを巻き起こしたのは周知のところだ。いま読み返しても、反道徳性が際立っていて、この作品を支持する読者はそこに純粋さや人間の哀しみを感じ、眉をひそめる人は倫理的についていけないのだろう。

    戦後において、私たち日本人は結局、そういう社会を選び続けてきたのではなかったか。それは、石原慎太郎が選挙に出るたびに支持を集めた姿とダブって見える。

    日本人のマジョリティーは、革新自治体の誕生や一時的な政権交代はあったものの、リベラル派が噓っぽい理想論、現実離れした書生論を語るのに嫌悪感を抱き、石原的なものに投票し続けたのだろう。

    いや、女性に対する暴力、蔑視がひどいので、かなり危ういでしょう。少なくとも、ネットなどで炎上するのは避けられません……。

    この主人公には、倫理も思想もありません。ひたすら感覚的充足だけに突進していく。その「倫理も思想もない」というところを、井上靖は、自分と同質のニヒリズムを抱えているからだと誤解したのではないでしょうか。


    それは、ものすごく興味深いご指摘です。結局、断定というのは父性なんです。自分でリスクを背負って決断しなければ、断定はできない。やりたい放題やりたいのだけれど、責任を負いたくない場合は、もってまわったり、疑問形になったりします。

    断定=父性らしい。私も母子家庭になってから、優柔不断になって何も決められなくなった記憶ある。

    石原は、カントの言い方を借りると、崇高を避けて、常に美を書こうとする作家です。だから、天皇にも国家にも、ずっと触れないままでいる。でも、崇高をこれだけ徹底して避けているところを見ると、崇高の意味はきちんとわかっているのではと逆に思えてきます。

    石原はなぜ政治を書かないか、見えてきました。おそらく日本の小説家のなかで、政治権力の中枢を最も知っている一人が石原です。絶対、面白いものができるはずなのに、それは題材にしない。ヨットで嵐に遭ったとか、レーサーが極限のスピードを体験したとか、書くのはいつもそういう話ばっかりでしょう?

    司馬太郎は徹底して権力闘争を描き、生涯をかけて権力の正体とは何かを追い求めた作家です。石原は、そこをあえて避け続ける書き手です。二人は日本の戦後社会で、背中合わせになっている小説家だという気がします。

    司馬太郎はたぶん、自分よりも他人に関心がある。ところが石原は、最終的には自分を肯定することにしか興味がない。「あいつ、嫌いだけど面白いヤツだ」みたいな感覚って、石原にはないように思います。でも司馬なら、「こいつ、すごく気に食わないけど興味がある」みたいな人間を、舌なめずりをして観察して小説に書くのではないでしょうか。

    続けて読んだせいでよけいにそう思うのかもしれませんが、芥川賞の第一回受賞作と芥川賞中興の祖が、こういうふうに共通点があるというのは新たな発見でした。どちらも大変わかりやすい作品。そのうえ、それぞれが書かれた時代の風俗が鮮明に描かれています。『蒼氓』では、戦前の貧しい移民。『太陽の季節』は、戦後十年を経た時期の金持ちの不良。

    それは裕次郎がいたからかもしれません。私の知人に、石原慎太郎の湘南高校時代のクラスメートだった人がいます。その人によれば、高校時代の石原は「青白きインテリ」というタイプで、『太陽の季節』の主人公とは全く違っていたそうです。 これに対して裕次郎は、本物の不良だった。『太陽の季節』をはじめ、「湘南で遊んでいる金持ちの不良」の話を、慎太郎は裕次郎の体験をもとに書いたわけです。

    3 遠藤周作『白い人』第三十三回、一九五五年・上半期
    評論家の類型的な物語/遠藤周作と小川国夫/高度経済成長期の日本人/遠藤周作と「柄谷行人的なもの」

    ところが、キリスト教の神について小説で知的に問おうとするときに、日本を舞台にするとなかなかうまく状況が設定できません。逆にヨーロッパを舞台にすると、明確な図式が描ける。助川◆日本は八百万の神がいる国なので、一神教の信仰をめぐる問題が根づいていないということでしょうか。

    ところで、遠藤をめぐっては奇妙なことが起こります。戦後しばらくたつと、日本人のなかには遠藤に近づいていった人が少なくなかった。状況が高度経済成長期を境に反転していった面があるのです。つまり、一神教の信仰をもとに築かれたヨーロッパ文明のほうが、八百万神を崇めたてまつる土着の伝統よりも、ある種の日本人にとっては思い入れがしやすくなった。この変化が、遠藤のその後の文筆家としての歩みや受容のされ方に大きく影響している気がします。

    でも、それは一部の中高年インテリの話。若者は「ウチらには日本全体を動かす力はない。身近な人間関係のなかでうまくやれていればいい」みたいな感じになっています。この状況を私は、「江戸時代化」と呼んでいます。江戸時代の庶民って、天皇陛下や将軍様に支配されているという意識はないんです。天皇や将軍に直接会う機会って、ほとんどありませんから。庶民が実感できる「いちばんえらい人」は殿様。あるいは庄屋様。だから、「お前はどこに所属する人間だ?」といわれると、「日本人」ではなく、「どこそこ藩」か「何々村」になるわけです。現代の若者の感覚も、それに近いものがあるように思います。

    4 多和田葉子『犬婿入り』第百八回、一九九二年・下半期
    根拠にしない「郊外」/絶えず移動を続ける文学/ドイツとロシアを往復/「偶然」と「移動」/なぜ、郊外を描いて成功したのか

    多和田葉子
    1960(昭和35)年、東京生まれ。早稲田大学文学部卒。1982年、ドイツ・ハンブルクヘ。ハンブルク大学大学院修士課程修了。1991(平成3)年『かかとを失くして』で群像新人賞、1993年『犬婿入り』で芥川賞、2000年『ヒナギクのお茶の場合』で泉鏡花賞、2002年『球形時間』でドゥマゴ文学賞、『容疑者の夜行列車』で谷崎潤一郎賞、伊藤整文学賞を受賞。その他の作品に、『海に落とした名前』『尼僧とキューピッドの弓』『雲をつかむ話』などがある。日独二ヶ国語で作品を発表しており、1996年にはドイツ語での作家活動によりシャミッソー文学賞受賞。2018年『献灯使』で全米図書賞(翻訳文学部門)受賞。2006年よりベルリン在住。

    どんなにうまくいっているチームでも、やるべきことをやったらいったん解散したほうがいい、とよく言われます。ビジネス上のプロジェクトを立ち上げる場合も、音楽でユニットを組む場合も。

    当初は多和田のすごみがわからず、突然、雷に打たれたように多和田の輝きが実感できたというのは、私も全くそうです。最初は私が苦手なタイプの、知性をひけらかす作家だと勘違いしていました。「語学が得意な、器用で頭のいい作家」だと思っていたのです。 ところが全然、違った。そんな形容にとどまらない、「文学でしかできない挑戦をし続けている不屈の魂」というか。そういう特権的な作家ですね。

    興味深いのは、多和田の出身高校は都立の立川高校なのです。当時、立川高校には第二外国語があって、多和田はドイツ語を選択していたと年譜などには書かれています。それなのに、早稲田大学ではロシア文学を専攻し、卒業するとまたドイツ語に戻り、ドイツに留学する。ドイツとロシアを行ったり来たりしているところが、実に不思議で、魅力的で、多和田らしいといえないでしょうか。

    バブルの頃は、若者が贅沢をして、消費文化を引っ張っていました。そのせいで、「自分には世の中を動かす力がある」という「自己重要感」を持つこともできた。現代の大学生に、そんな「自己重要感」はありません。自分が世の中を変えられるとはみじんも思っていないのです。だから、主体的に動いて何かが起こるよりも、事件の渦に受け身的に巻き込まれるほうが、日頃の実感に近いのでしょう。

    辻村深月の小説に印象的な言葉がありました。現代の若者は自己肯定感は低いが自己愛は強い、というものです。言い得て妙だと思いました。自信がないから、新しいことを始める勇気をなかなか持てない。一方で自己愛が強いので、傷つくのをいやがる。根拠のないプライドを持っていて、自分が汚れるのを嫌う。

    5 森敦『月山』第七十回、一九七三年・下半期
    脱臼される異郷訪問譚/一九七〇年代における土俗の意味/中上健次のいら立ち/成長しない主人公/じっくり煮込んだ大根のような文章/日本近代における養蚕

    「土俗的なものは残っているけど、無力」というのは、一九七〇年代以来、ずっと続いている問題です。地方に住む古株の自民党支持者から、「いまさら他の政党は応援できないけど、自民党も昔の自民党ではなくなってしまった」という嘆きをしばしば聞かされます。いまの保守政治家はみんな二世や三世で、子どものときから都会で暮らし、地元の人間とのつながりも薄い。

    助川◆村上は「日本の文化伝統と断絶した作家」として論じられるケースが多いのですが……。重里◆私の考えでは真逆です。森敦も村上春樹も、日本の大衆の生活実感をよく理解して、小説に登場させるイメージを構築している。だから、あれだけの説得力を作品に持たせられるのでしょう。

    6 又吉直樹『火花』第百五十三回、二〇一五年・上半期
    柄のいい小説家/「神様」という言葉をめぐって/異様な個性よりも洗練の時代/吉祥寺という街

    又吉は、自分の作品について書かれた批評をよく読んでいるのではないでしょうか。自分が描く女性像に対する批判も承知していると思います。それでも三作続けて、同じようなヒロインを出してくるわけですから、これは確信があってのことでしょう。フェミニズムを無視できなくなっている時代に、あえてこだわっているようにうかがえます。

    私の知り合いに、お笑いに詳しい青年がいます。彼に言わせると、『火花』に描かれたお笑いの状況は少し古いのだそうです。いまのお笑いは、いろんな技術が高度に突き詰められていて、高い水準でそれぞれの芸人の実力が均衡している。それだけに、傑出したカリスマが現れにくい。神谷みたいなエキセントリックな人間には居場所がなくて、全方位的にさまざまな能力を身に付けないと生き延びられない。それだけに手詰まりというか、どちらの方向を目指せばいいか、芸人たちにとって見えにくくなっているようです。

    私なりによくわかります。昨年(二〇一九年)のM-1の決勝に残った三組(ミルクボーイ、かまいたち、ぺこぱ)はみんな面白かったし、それなりに新しさを感じさせた。「異様な個性」というより、洗練されたものを感じました。横山やすしや坂田利夫が出にくい状況なのかもしれません。

    私はこの『火花』を、ものすごく正統的な芸術家小説だと思って読みました。 お笑いをやったり、芸術をやったりする人間は、みんな自分のなかのエキセントリックな部分に突き動かされていると思うんです。でも、そのエキセントリックなところをそのまま表現したのでは、誰にも理解されない。 そもそも言葉が通じるのは、その言葉をみんなが知っているからです。音楽だって、音階は既存のものですし、聴き手に蓄積された過去の音楽体験に訴えるから、自分の曲に感動してもらえる。文学にしろ音楽にしろ、ある程度「手垢のついた部分」とつながらないかぎり、表現したものをわかってもらうことはできません。

    売れている芸人やクリエイターは、「手垢のついた部分」につながる面とそうでない部分を打ち出すことの折り合いが、何とかついているんだと思います。でも、そうやって売れた人たちでさえ、「自分が本当にやりたかったのはこれだったのか?」という疑いを捨てきれないのではないでしょうか。

    そして、職業的にクリエイティブなことをやっているというわけではない人にも、又吉の「股裂き」は共感できるのではないでしょうか。 たとえば、人間関係のなかでどこまで自分を押し通すか、本音を正直に口にすることは許されるのか。そういう悩みは、誰もが抱えているはずです。神谷のように何もかも自分をさらけ出す人間に、「自分はあんなふうにできない」という反発とともに、「あんなふうに生きたら、どんな具合だろう」と羨望を抱く。これは、決して特定のタイプにだけ起こる感情の動きではない気がします。 仕事の現場でも、しばしば直面しますね。ちゃぶ台ひっくり返したろか、と内心は思いながらも、笑顔で上司や取り引き相手の言うことにうなずく。もちろん、その後で友人と居酒屋に行ったら、こんな仕事辞めたるわ、とクダを巻くのですが(笑)。

    昭和レトロな住宅街、学生文化の街、下北沢につながる街、渋谷に影響される街──吉祥寺という街は、ざっくりいえばこの四層構造でできています。

    吉祥寺というのは、先ほども言いましたが、戦前から現代にかけての文化が多層的に折り重なっているところです。おしゃれで意識高そうなカフェや趣味のいい骨董品屋があったりする一方で、戦後の闇市そのままという感じのアーケード街が駅前に残っていたりする。大島弓子をはじめ多くの漫画家が居を構えていて、それに引かれて吉祥寺に住む人もいるようです。『火花』の二人組の「エキセントリックさへのあこがれ」と、「それに徹して突きぬけきれない小市民性」。この両面を包み込める街といったら、東京では吉祥寺がいちばんなのかもしれません。

    7 吉行淳之介『驟雨』第三十一回、一九五四年・上半期
    性愛で自由を問う/刻印された戦争体験/迷い戸惑う「永沢さん」/吉行淳之介とPC

    吉行淳之介は性を通じて生のあり方を追求する作家だ。その達成は、戦後の日本文学のなかでも独自な位置を占めるものだろう。私は抜群に魅力的で優れたものだと考える。ただ、こういう言い方を吉行は好まなかったかもしれない。もっとなにげない言い方を好む作家だっただろう。

    恋愛といっても、ロマンチックなものではなくて、人間の「骨」というか、「はらわた」というか、「生き物としての根っこ」というか、本質をえぐり出すような恋愛ですね。そして、人間関係というのは一体、どういうものなのかを探っているように思います。とても面白いと思ったのは、自由の問題です。人間は本当に自由を求めているのだろうか、という問題です。それが問われている。

    ジャン゠ポール・サルトルが「人間は自由の刑に処されている」というふうに言っています。実は人間が自分を自由だって感じるのは、うまく枠にはまっているときなのかもしれません。 私は恋愛をしている。私は会社のために一生懸命働いている。そういう「わかりやすく名づけられる状況」を選んで、そこに身を投じているときに、人間は「なんて自分らしいんだ」と感じて「自由」を自覚するのだと思います。 反対に、いままで体験したことがない状況に置かれ、自分だけの判断でどこかに行かなければならない場合、人間は、自分の感情に名をつけられなくなり、苦しむのではないでしょうか。

    かつて、スラヴォイ・ジジェク(スロベニアの哲学者)が「社会主義体制というのは、本気で社会主義を信じている人間に支えられていたわけではない。社会主義を微塵も信じていないがゆえに、体制に服するそぶりを完璧に演じられる人間たちが維持していた」(「共同インタビュー スラヴォイ・ジジェク氏に聞く スターリンからラカンへ」「批評空間」第六号、福武書店、一九九二年、一四─一五ページ)という意味の発言をしていましたね。

    左翼体験であり、政治闘争体験であり、リベラリズム的なイデオロギーですね。政治運動をした当事者はもちろん、そうではない人たちも考えざるをえなかった。自由とは何か。自分は本当に自由を求めているのか。ひょっとしたら、日本人は自由なんて欲していないということはないのか。自由とは、そんなに価値があるものなのか。自由に優先する価値はないのか。これは見逃せないポイントのように思います。それは、ポリティカル・コレクトネス(PC、政治的正しさ)の問題とも関わってきます。

    本当に鬼畜な人間は、鬼畜な人間を小説に書きません。鬼畜な人間との間に距離があるからこそ、そういう人間を描いて問題提起ができるのです。文鳥を死なせてしまって悪いと思っていない人間は、文鳥のことなど、題材にしません。華奢な文鳥に比べて、自分の手が大きいことを意識しているからこそ、夏目漱石は『文鳥』(「大阪朝日新聞」一九〇八年六月十三─二十一日付)を書いたのでしょう。 それよりも、もう少し複雑なPCの話をしましょう。『驟雨』のディテールで気になることがありました。主人公が娼婦の道子に髪を洗ってもらう場面がありますよね。又吉直樹がよくこれを書くんですよ。

    助川◆あの主人公は自分でもほとんど無意識のうちに女と遊んでいるつもりで女に母性を感じてしまった。それがつまずきの石になった。そういうことを吉行は書きたかったのかもしれません。重里◆あるいは、吉行がはっきり自覚しないで、そういう男を描いてしまったという見方もできますね。これは、PCの問題とからめても面白いと思います。男性にとっての母性をどう考えるか。助川◆一般的には、男性が女性に母性を求める姿勢は批判の対象になります。確かに、幼児が母親に求めるような「無条件の承認」を、自分にとって「他者」でしかない相手からお願いされても女性は迷惑でしょう。しかし、母性と一切関係がない性愛や恋愛というのは、少なくとも男性にとってありうるのだろうか。

    私は、母親とあまり相性がよくなかったので(笑)、自分の母親に似たタイプの女性を好きになったことはありません。でも、女性に優しくされたときに妙な安心感を覚えて、「世間の人は、母親からこういう感情を与えられていたのか」としみじみ思うことはあります。こんなふうに感じること自体が「害悪」なのでしょうか──もちろん、女性に「癒やし」だけを求めるのが「女性蔑視」にほかならないのはわかるのですが。

    8 小川洋子『妊娠カレンダー』第百四回、一九九〇年・下半期
    芥川賞は世俗や悪意が好き?/「阿美寮」で暮らす小川的世界/生きながら死んでいる/村上と小川が示す平成という時代

    私たちと一緒に読書会をやっている若い女性が、この小説について名言を口にしています。「芥川賞って汚い小説だととれるんですね」って。『妊娠カレンダー』について、これ以上に的確な評価はないのではないでしょうか。

    小川洋子というのは大ざっぱにいえば、純粋で美しい世界を描く作家というイメージが強いですね。死と近接した異界を透明でピュアな空間として描いた印象が強いです。そこでは人間の善意や美点が切なく描かれる。けれども、浮世のしがらみや世俗のあつれき、人間の悪意や心の闇を描いたほうが芥川賞に近づくという意味ですね。

    芥川賞というのは、どこか自然主義リアリズム的な意味でのリアリティを、作品に要求するところがあるのではないでしょうか。 小川洋子には小川洋子なりのリアリティというのがあるのだけれども、それだけでは芥川賞は認めてくれない。どこか「生きていることに伴う汚れ」というか、「体臭」がダイレクトに漂ってくるような部分がないと芥川賞はもらえにくいのではないでしょうか。

    ある種の世俗的なもの、浮世の義理や人間の体臭と関わらないと芥川賞はとりにくいということはわかります。かといって世俗だけでも芥川賞には手が届かない。世俗だけでも、世俗から離れすぎても受賞できないのが芥川賞という気がします。世俗をうまく結晶させて提示することが求められるように思いますね。

    『妊娠カレンダー』の主人公って、よくよく考えると、ぜんぜん悪い人ではありません。むしろ善人なのにすごく無理して、自分の悪意をほじくり返しているようなところがあって……。腹黒い人の悪意ははたから見ていて面白いんですけど、善人の悪意は小市民的で、読まされてもあんまり興奮しないんです(笑)。

    この主人公の「悪意」というのは、女性社員が気に食わない上司にお茶を入れるときに、わざと洗っていない茶碗を使った、というのよりももっと罪がない「悪意」だと思います。

    だから『博士の愛した数式』で、あの博士への愛と阪神タイガース愛が爆発して、「ああ、小川洋子は、美しいものを美しいという作家なんだ」って本当によくわかりましたね。

    ある意味で小川洋子って、生きながら死んでいるんですよね。でも、あるタイミングで本気で生きようと思ったんでしょう。生きている世界を書けないと、芥川賞をとりにくいよ、みたいなことを周りにいわれたのかもしれない。

    にもかかわらず、やっぱり生きながら死んでいる世界が彼女の居場所だったんですね。

    日本って、ガラパゴス化しているっていうか、世界の趨勢からものすごくずれている部分があるわけですよ。 たとえば、新型コロナウイルスが流行してリモートワークするように求められたときに、そういう状況を押して出勤してきたサラリーマンたちにインタビューしたら、「今日はどうしてもハンコを押さなくてはいけない用件があって出社しました」って語る人がいた。この光景をアメリカのマスコミなんかが、「日本はファクスとハンコがまだ生き残っている国である!」と書き立てたりしています。 そういう閉ざされた特殊な空間から、日本の庶民の大多数は自由意思で抜け出せないわけです。そして、この空間のなかにあるかけがえのないものを大切にして生きていくしかないと考える。そういう現代日本人のメンタリティーに、小川はフィットするのではないでしょうか。

    小川も、海外でよく読まれているのですが、特にフランスで人気があるようです。フランスは、アニメとかビジュアル系バンドとか、日本の固有の文化が受ける傾向にあるので、小川のフランスでの人気もそこのあたりとも関係があるのかなと思ったりもします。現代日本というちょっと孤立した空間のなかで特殊に発達して研ぎ澄まされたものを、フランス人は愛でる傾向があるのかなと。明治維新で日本が開国した直後、ジャポニズムがいちばん強烈に台頭したのもフランスでした。

    9 中上健次『岬』第七十四回、一九七五年・下半期
    知的に制御された作品/自由意思と宿命/吉行淳之介と安岡章太郎/鮮やかで魅力的な女性像

    中上 健次(なかがみ けんじ、1946年〈昭和21年〉8月2日 - 1992年〈平成4年〉8月12日)は、日本の小説家[1]。妻は作家の紀和鏡、長女は作家の中上紀。和歌山県新宮市生まれ。和歌山県立新宮高等学校卒業。新宿でのフーテン生活の後、羽田空港などで肉体労働に従事しながら作家修行をする。1976年『岬』で第74回芥川賞を受賞、戦後生まれで初めての芥川賞作家となった。

    10 大庭みな子『三匹の蟹』第五十九回、一九六八年・上半期
    映し出される女性の立ち位置/吹きだまりの人間模様/根なし草たちの特性/社会の闇は境界に表れる/二十ドル、ベトナム戦争、原爆

    カルチャーが世を席巻していた。医者や聖職者や学者など、知的スノッブたちはそういうものに関わらず、意味がない会話とカードゲームと酒とケーキと恋愛ごっこに明け暮れている。由梨はそこから抜け出すが、家の外にも同じく、ただむなしい世界が待っているだけだった。日本人の専業主婦が家から飛び出して行きずりの外国人に身を任せるというセンセーショナルな題材で話題になったらしい。ウーマンリブが盛んになり始めた時期で、それも多くの読者に迎えられた背景といえるだろう。

    表現が直接的ですが、いわば、人間の吹きだまりみたいなところが舞台になっていますよね。それが舞台として選ばれたアラスカです。アメリカとは何かという問題になってしまいますが、いわばアメリカであってアメリカではないともいえる土地ですね。もちろん、これこそがアメリカなのだという言い方も可能ですが。そういう大きな構図がまず、あるのだと思います。

    アラスカという辺境が舞台なのに、登場する人物たちはみんなそれなりにインテリじゃないですか。医者だったり、大学で教えていたり。そして、アラスカといういわば人工的な空間で、生活に根づいたキャラクターは一人も出てきません。

    社会の闇は境界に表れる

    この小説もそうだなと考えました。むしろ自分はマイノリティーではなくてミドルクラスで、社会システムのなかで比較的うまくやれているんだと思っている人たちの偽善的な生き方、社会に馴致されていく生き方が、社会のシステムからはじかれていく人間を生み出していく構造をうまく描いている小説だと思ったのです。社会システムの闇は、実はそういうところに露出している。そのことが、すごくよくわかる作品だと。そこでカサヴェテスの映画と重なるなと感じました。

    11 大江健三郎『飼育』第三十九回、一九五八年・上半期
    イメージを喚起する叙情的な文体/母親と方言を排除した作品世界/街から差別される共同体/土着性とおフランス/戦後日本人と重なる被害者意識/読んでも元気が出ない小説



    12 井上靖『闘牛』第二十二回、一九四九年・下半期
    虚無感を物語で楽しむ/井上靖が大人な三つの理由/変わらない日本人/西域、歴史、美、大自然への亡命/芥川賞作品の二つのタイプ

    歴代芥川賞受賞作品のなかでも傑出した作品の一つだと思います。アジア・太平洋戦争を体験し、敗北した日本人の虚無感が根底にある作品です。それは「焼跡」という言葉が計八回、使われていることにも端的に表れています。

    井上靖はベストセラー作家でした。大衆がその仕事の貴重さを本能的にわかったということかもしれません。新聞小説でも活躍しました。ただ、現代を描いても、さっき言った山岳もそうですし、湖を描いたり、渡り鳥たちを描写したり、仏像や音楽を題材にしたり、どこかナマの現実と距離を置くという姿勢はありましたね。



    13 開高健『裸の王様』第三十八回、一九五七年・下半期
    身体でつかんだ認識/成熟した大人の小説/コピーライターの先駆け/物語は始まらない

    単にシステムを否定しても、何も生み出せないのです。本人たちはそのときは気持ちいいかもしれませんが。知的な遊戯に対する違和感というか、いたずらに欧米の思潮に付和雷同して何かをやった気になっているインテリに対する反発というか。そういうものは、この作品から強く感じますね。

    14 三浦哲郎『忍ぶ川』第四十四回、一九六〇年・下半期
    ある種のメルヘン/志乃はなぜ、「私」を好きになったのか/なぜ、志乃の思いを描けなかったのか/背景にある階級の問題/井伏鱒二に引かれた作家たち

    15 大城立裕『カクテル・パーティー』第五十七回、一九六七年・上半期
    沖縄問題入門のガイドブック/気になるレイプの描き方/魅力的な中国人の登場人物/図式を超えるものがあるのか/背後にある大城のニヒリズム

    大城立裕
    1925年、沖縄県中城村に生まれ、1943年、上海にあった東亜同文書院大学予科に入学したが、敗戦による大学閉鎖のため中退。戦後は、琉球政府通産局通商課長、県立博物館長などを務める一方、敗戦直後から青春の挫折と沖縄の運命を繋ぐ思想的な動機で文学を始め、1959年に『小説琉球処分』の新聞連載開始、1967年『カクテル・パーティー』で沖縄初の芥川賞作家となる。戦後の沖縄文学を牽引して、沖縄の歴史と文化を主題とした小説や戯曲、エッセイを書き続ける。小説『対馬丸』『日の果てから』『かがやける荒野』『恋を売る家』『普天間よ』のほか、『花の幻――琉球組踊十番』『真北風(まにし)が吹けば――琉球組踊続十番』などの著書がある。2002年には『大城立裕全集』(全13巻)が刊行された。2010年、日本演劇協会演劇功労者表彰、2015年、初の私小説「レールの向こう」で、川端康成文学賞を受賞。

    うーん。たとえば、松浦理英子について、彼女はまず、『ナチュラル・ウーマン』(トレヴィル、一九八七年)ではっきりと、自分が理想とする性愛の像を書いたわけです。その後、『ナチュラル・ウーマン』だけだと、もともと自分に嗜好や感覚が近い人にしか伝わらないと考えて、『親指Pの修業時代』(河出書房新社、一九九三年)を書いた。『親指P』は、嚙んで含めるように説明的です。『ナチュラル・ウーマン』で伝えたくて伝わらなかったことを、『親指P』でわかりやすく図式的に書いたんですね。 私は、大城に詳しくないのでお尋ねしたいのですが、大城に『ナチュラル・ウーマン』に相当する作品があって、松浦理英子の『親指P』みたいな位置づけでこの『カクテル・パーティー』を書いた、というのなら共感できるのですが、大城は『ナチュラル・ウーマン』的な作品をどこかで書いていますか?

    ところで、この後、一九九〇年代に一時期、沖縄文学ブームみたいなものがあったのですが、長くは続かなかった。逆にポピュラー音楽やダンスで続々と才能が出てきた。安室奈美恵はその象徴的な存在でしょう。沖縄の表現者の出方が変わったのかもしれません。助川◆ダンスだったら、いろんな要因が入り組んでいたとしても、図式的に交通整理する必要がありませんね。ひと目見れば、すぐにわかりますから。重里◆音感や身体のキレが本土の子どもたちとは何か違うような印象がありますね。物心がついた頃から、英語やアメリカ文化にさらされていることと関係があるのかどうか。ダンスだと、沖縄が置かれている立場がそのままアドバンテージになるような気がします。



    16 古山高麗雄『プレオー8の夜明け』第六十三回、一九七〇年・上半期
    無能な中央政治と優秀な現場/繰り返されるインパール作戦/システムが壊れた後で/徹底した自己相対化/声高に「正しさ」を主張しない/しなやかで温かい文体

    重里◆とてもしなやかで、自由な文章ですね。けれども、装飾は剝ぎ取っている。着飾らない。それに人懐っこいですよね、なんか。温かみがある。体温を感じる。助川◆そうなんです。愛嬌があるんですよ。要するに。チャーミングなんだと思うんですよね。かわいげがある、すごく主人公が。重里◆このチャームの正体は何ですか?助川◆自己愛みたいなものがないことでしょうか。愛されようとか、受けようとかしていない人間ってチャーミングなんですよ。


    古山はそういうんじゃないんです。そういう技巧なんかは一切かまわないところがあります。俵万智は俵万智で、並の歌人じゃないのはまちがいありませんが。俵万智は、とにかく技巧が水際立っている。千年以上のこの国の歌の歴史のなかでも、トップクラスといっていいうまい歌人だと思います、技巧という点でいえば、俵万智は、和泉式部とかとの比較に堪えるレベルではないでしょうか。

    17 古井由吉『杳子』第六十四回、一九七〇年・下半期
    固有名を喪失する病気/「彼」はなぜ、外を向かないのか/集合的無意識でつながりたい/ツッコミだけでボケがない小説/古井由吉の代表作は

    簡単にいうと、「重里さん、今日は変だよね」ということが、ボーダーライン・パーソナリティー障害の人は言えなくなってしまうんです。普通は人間って他者を二重化していて、重里さんという名前で重里さんを呼んでいるときには、いま見ている重里さんと、これまでずっと付き合ってきて私のなかで重里さんはこういう人だっていうイメージとを、二重にして見ているわけです。ところがボーダーライン・パーソナリティー障害の人は、そのときそのときのその人しか見られないんです、簡単にいうと。 今日、重里さんが私に対してちょっと態度が冷たかったとしても、もう芥川賞企画をやめるのかな、とかまでは思わないですよね。それはこれまでのお付き合いがあるからなんですが、ボーダーライン・パーソナリティー障害の人は、それまでどんなに大事にされても、その日一日心が通い合わないと、もう絶望して死んでしまったり、リストカットをしたりするわけですよね。それは要するに、そのときの自分、目の前に現前している他者とそれまでの蓄積によってできたその人に関するイメージみたいなものが、普通の人間は二重になるんだけども、ボーダーライン・パーソナリティー障害の人は重ならないんです。常にその瞬間を生きている相手しか見られない感じになってしまうんですね。だから、先週使ったのと同じ喫茶店に来ても、同じ喫茶店という実感が持てない。杳子はたぶんそういう時間帯を生きている。

    そうなんです。だから他人の感情に移りやすいし、他人の感情が胸に浸透してきやすいのです。もう一つの現代人の病である統合失調症はある意味反対です。統合失調症の人というのは、逆にいうと目の前の現実みたいなものに対する実感がすごく希薄になってしまうんですね。



    18 李恢成『砧をうつ女』第六十六回、一九七一年・下半期
    在日コリアンと日本語/一つひとつ確かめながら書かれた言葉/母親を描く意味/人間を描くということ/なぜ、父ではないのか/小説は腹で読め

    初めて外国籍の書き手が芥川賞を受賞した作品ということになります。在日コリアン作家にとって、日本語とは何なのか。そんなことも考えさせられる作品です。小説としても、とても印象的なものです。

    これは母語にもたれかかってナチュラルなものとして母性を描いていないだけに、逆にすごく抽象的な、イデアルな母性みたいなものの表現に成功していると思います。男性が「母性なるもの」に対して感じる飢えみたいなものを、非常に抽象化というか普遍化して書いているところがある。そこがこの作品の成功の一つの原因かもしれない、という感じが私はしました。

    そうなんですね。これは内田樹がいっているのですが、国家というものが父性なんですね。だから、父性の問題というものは、やはりそれなりに民族を区切っていったり、家を区切っていったりするわけです。 それに対して母というのは、もっと普遍的・一般的なものです。たぶんこれを父の問題で書いてしまうと、もっと民族対立が前面に出てきてしまうように思います。

    その文学でしか描けない問題というものに対して、芥川賞はとても敏感なところがありますね。それは、実際に小説を書いてきた実作者が選ぶ文学賞だからだと思います。評論家が選ぶのとは違うのだということを私は強調したいです。そして、このことは、芥川賞がメジャーな賞であり続けていることの理由の一つでもあると思います。

    論じやすい作品というのは、問題がはっきりと提出されている作品です。だけど、実作者はその問題がはっきり出ているかどうかということよりは、その問題が抽象的ではなくて、実感として腹に、頭じゃなくて腹に響くかどうかということで判断しますね。明確でなくてもいいから、しっかりとお腹に届くかどうかという観点から実作者は選びます。どうしても、評論家は頭で明確にわかるように問題が書かれた作品を評価しがちですね。

    二流の評論家には、頭がいい人が多いからでしょうね(笑)。彼らは明快に図式が描けるもの、わざとらしいぐらいに「問題」が提示されている小説を評価しますね。それは能力が低い評論家ほど、そうですね。それで、わかりやすい作品を称賛してしまう。その怖さはありますね。ときには何かのイデオロギーを使って評価し、ときには状況論にからめて批評する。新聞記事みたいな図式を好みますね。

    確かに人間をしっかり描いた小説は魅力的です。ただ、「世界が滅びる」みたいな感覚をキラキラした言葉で語る三島由紀夫の小説なんかも心にしみるわけです。古山高麗雄や李恢成の作品もいいけど、三島由紀夫も魅力的です。「人間」という言葉は広く捉えたいですね。

    小説は腹で読め



    19 村上龍『限りなく透明に近いブルー』第七十五回、一九七六年・上半期
    ヒシヒシと感じる鮮やかな才能/敗戦後三十年の日本の貧しさ/対照的な静と動/「行動」ではなく「観察」の作家/文学界の清原和博

    群像新人文学賞の受賞作として発表されるや、特に薬物や性の描写が注目されてセンセーショナルな話題になった。当時の群像新人文学賞の選考委員は埴谷雄高、福永武彦、井上光晴、小島信夫、遠藤周作。芥川賞よりも豪華だと考える人もいるだろう(予備校生だった私はリアルタイムでそう思った)。特にいまでは考えられないぐらいに仰ぎ見られていた埴谷が「ロックとファックの世代」を鮮烈に代表するものだと称賛したのが印象的だった。一方、江藤淳が「サブカルチャー」だと全否定して興味深い対照をなした。江藤は「毎日新聞」の文芸時評で、群像新人賞の選考委員たちから「清潔」と評された乱交場面を「麻薬患者の演奏するモダン・ジャズのように、無意味な自閉的模様を交錯させているにすぎず、単にナンセンスなのである」と斬って捨てている。

    一つは自分とは全く違う、こんな青春があるのだなあということです(笑)。それはそれで衝撃的でした。薬物と乱交パーティーとロックの青春。自分との距離の大きさを感じました。ところが、もう一つ、思ったことがあったのです。それは矛盾するようだけれど、これは明らかに自分の内面も代弁してくれている小説だということでした。たとえば、こんな箇所です。主人公とリリーが雷雨のなか自動車を走らせて、学校の校舎にたどり着いた場面。「規則正しく並んでいる机と椅子は、無名戦士の共同墓地を思わせる」 しっかりと私の思いを代弁してくれているじゃないかと思ったのです(笑)。

    私も今回、何回目かに読み返して、とても優れた作品だなとあらためて思いました。非常に優れた小説ですね。こういう形で、敗戦後三十年たった日本人の内面を描いたんだなっていうのをあらためて感じました。

    出てくる音楽も映画も全部アメリカのものです。戦後の日本は、もちろん軍事的・政治的にはアメリカの支配下にあります。加えて、文化的にもアメリカの作品がいっぱい入り込んできて、こちらのほうでもアメリカの属国みたいになっている。でも、多くの日本人が、そのことを直視していない。そうした「戦後日本人の鈍さ」にいら立ち、「アメリカに圧倒されている自分」を描くことによって、戦後日本の隷属状況を白日の下にさらそうとした。それが、この『限りなく透明に近いブルー』なんだと思います。

    村上はその後ずっと書いていくわけですけれども、佐世保に生まれて、アメリカにさらされて育った。そういう人間が上京後、福生に行ったというのは、わかるような気がします。あたかもアメリカの影がないように生きている東京の人々を見て、耐えられなくなったのではないでしょうか。それで、深海魚が水圧を求めるように、アメリカの支配が可視化されている環境を求めた。そうやって見つけた場所がアメリカ軍基地がある福生だった、というのがすごく伝わってきますよね。

    今回ちょっと面白いなと思ったのが、村上龍が結局ずっとアメリカにやられっぱなしの日本という状況を作品にしていたのに、バブルのあたりで変化するということです。『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年)の前半と後半が全然違うんだ、という論文を昔、書いたことがあります。アメリカに隷属している日本から、ある種一等国になって堂々としている日本という自国に対する認識の移り変わりが、『テニスボーイの憂鬱』を書いているさなかの村上にあったと思うんです(この作品は一九八二年から八四年にかけて、「ブルータス」〔マガジンハウス〕に連載されていました)。そしてこの村上の「転向」は、日本人全体の自己意識が変わったことを反映しています。バブル前夜の一九八四年ぐらいに、「もはや目標とするべき外国のない一等国」だと日本人は自国を考えるようになった。『テニスボーイの憂鬱』は、この変化を鋭敏に捉えた作品です。



    20 宮本輝『螢川』第七十八回、一九七七年・下半期
    『流転の海』の作家/あまりにも生々しい蛍/井上靖、叙情を食い破るリアル/蛍を描いた二人の作家/物語の鉱脈に到達する速度

    一九七六年に村上龍が芥川賞を受賞して大きなブームになり、文学シーンが更新されたような思いをしていた読者にとって、宮本の登場は古風なものの復活に見えたかもしれない。宮本の作家イメージは、暗い叙情性に特徴があるように思われたのではなかったか。ただ、宮本は類型に収まらず、その物語作家としての力量をのびのびと発揮していく。そして私たちは宮本が井上靖の後継者だったことに気づくのである。二人とも新聞連載小説で読者を楽しませたのも似ている。宮本の兵庫県伊丹市の自宅を訪れたとき、書斎の本棚の最もいい場所に『井上靖全集』(全二十八巻、新潮社、一九九五─九七年)が並んでいたことを覚えている。

    たぶん、宮本は言葉というもの、イメージというものをこれだけ上手に使いこなしていながら、根本で言葉のイメージを疑っているんだと思いますね。あるいは言葉のイメージを裏切りたいという欲望を強く持っているのだと思います。それがときどき突き破るように物語に露出するのだと思います。そこが宮本の真骨頂なのではないのかなと思います。宮本輝って、きれいな景色を整った文章で書く作家みたいなイメージがあるかもしれませんが、全然そうじゃない。そんな先入観は間違っている。むしろ逆で、きれいなイメージや美しい情景を食い破るような描写に、宮本文学の芯があるのだと思います。


    全部言葉できっちり説明できないと思う人間ほど、言葉できちんと説明しようとします。説明できないことがわかっているからこそ、説明できるものはわかりやすく説明してしまおうと。言葉が通じない世界があるんだ、ということを肌で知っていて、だから言葉を信じていないというのは、これは同じカードの裏表だと思うんです。井上靖はそういう作家だし、宮本もちょっと形は違うかもしれないけれども、言葉で説明できないことを知っている、あるいは一般的にイメージされるものを信じていない作家です。だからこそ美しい物語だとか、きれいなイメージとかも、わかりやすく作ろうと思えば作れてしまう。でも、それをいちばん宮本が信じていない、みたいな、そういうところがあるのではないでしょうか。

    助川◆この作品の最後の蛍の描写は美しいものといわれているけれども、本当は不気味なものです。
    重里◆リアルで生々しくて、エネルギーに満ちていて、むせかえるようなものです。おそらく若いときの宮本は、井上のそういうところ、美しいものは実は不気味なものなのだ、というところに反応したのだと思います。

    ただ、私が『流転の海』を読んでいて驚いたのは、題材が井上靖に寄っていくわけですね。最初の四国の闘牛もそうだし、それから猟銃というものがとても重要な意味を持ってくるのもそうだし。主人公が金沢に行くと、金沢大学の柔道部員が出てくるし。琵琶湖が出てくる場面があって、ひょっとしたら、主人公たちは仏像めぐりでもするのか、とドキドキしました。井上に『星と祭』(朝日新聞社、一九七二年)という長篇小説がありますが、『流転の海』を読んでいて、井上の小説を追体験しているような感じさえしました。重なるところが多いのが面白くて印象的だったのです。これは何なのだろうとも思いました。

    まさに故郷から根こぎにされて、故郷を失ってしまう人間にだけ、あの蛍が見えるんです。女の子に蛍が寄り付いて、なかで光り輝く。あれは『源氏物語』の「玉鬘の巻」ですよね。根こぎにされる瞬間に、その根っこの部分から蛍がわいてきたというイメージですね。


    21 絲山秋子『沖で待つ』第百三十四回、二〇〇五年・下半期
    平成期を代表する受賞作/昼間に出る幽霊/効率優先と女と男/大平か福田かという分かれ目/働く人のメンタリティー

    そうです。社畜になるのが夢なわけです。ちゃんと定職について、終身雇用に組み込まれるというのが我々にしてみるとディストピアだった。ところが、いまでは、そうなるのが憧れなんですね。もしかすると非正規で何カ月単位とか何年単位でしか雇ってもらえないかもしれない。正規でいてもいつリストラされるかわからない、いつ会社がつぶれるかわからない。企業のサイクルがいまものすごく短くなっています。この間読んだ本に書いてありましたけど、企業の平均存続年数っていま、三十年ないんです。ということは、一人の人間が二十二歳で就職して、定年まで同じ組織で働けない率が高いわけです。企業の寿命のほうが一人の人間の労働寿命よりもむしろ短い。以前は転職したりすると、あの人は腰が落ち着かないみたいな悪口を言われたりした。現在では、誰もが転職を絶えず考えないと生き延びられないわけです。

    絲山自身が暮らしたことがあるから選んだ土地でしょう。ただ、小説として、絶好の選択だったような気がします。私は若いときに十年ぐらい福岡で暮らしました。とても住みやすい街ですね。イメージとしては明るくてラテン的な感じ。人がよくて、物価が安くて、魚も野菜も肉もうまい。これは客観的にそうでしょうね。首都圏には、関門海峡から向こうには行ったことがないという人もいるでしょうけれど、福岡に行ったら、こんなに都会だったのかと、この登場人物たちのように驚くかもしれません。方言が残っているのも土地柄を感じますね。

    それから新聞記事みたいな言い方になりますが、台湾、中国、朝鮮半島、東南アジアとは東京を介さないで直接にやりとりができるという地理的優位性もあるでしょうね。それはこの何千年も日本列島のなかで、博多や九州が果たしてきた役割でもあるのだろうと思います。

    太っちゃんはずっと福岡にいたら、死ななかったかもしれませんね。それから、太っちゃんの奥さんがすごくよく描けていると思います。肌感覚では一九九〇年代ぐらいから女性が年上のカップルが日本に増えてきた。その典型例かもしれません。それで、女性がとてもしっかりしていて、生きづらい世の中を何とか乗り越えていく。

    大平と田中角栄は単に権力の数合わせでつるんでいたわけではなくて、中央集権に対する抵抗であり、もう一つは中国なんですね。中国とうまく付き合わないと地政学的にいってこの国は生き延びられないという問題。それからやっぱり東アジアの大きな主導権とかは人口からいっても、中国が握っていくなかでどう対抗するかを冷静に考えなければいけないという問題。 地方分権と中央集権、どちらを選ぶかという問題は、アメリカへの隷属からの脱却を目指すか、アメリカにきっちり寄り添うことを国益の第一と考えるか、という外交上の選択と連動しています。アメリカ最優先を外交の大原則にしていくには、中央が強力な統括力を発揮しなければならない。反対に、たとえば北海道民から「自分たちはロシアの影響をあれこれ受けざるをえないので、ロシアを重視した外交をやってくれ」という声があがったとして、それに応えるには、何があってもアメリカ・ファーストの外交姿勢では無理なわけです。 大平や田中が抱えていた問題をその後の日本はものすごく軽視していたということが、いまの日本の苦しさにつながっている面はあると思います。絲山がすくい上げている問題というのは、私はその大平の問題につながっているのではないかと感じています。

    ただ、大阪がここでいう「地方」なのかどうかわからないけれど、首都圏以外に三十代の後半まで住んでいた人間としていうと、日本の首都圏以外の地域が持っているポテンシャルというものは、本当はものすごく高いと思いますね。それは知的な力、思想を生み出す力も高いものがあると感じます。潜在的な力でいえば、経済力も高いのだと思います。たとえば、何か問題が起こったときに、地方のほうが頼りになるみたいところがあるわけですね。水俣病が起こっても、東大よりも熊本大学のほうが頼りになるわけです。そういうことは頻繁にあるのではないか、と私は思っています。



    22 綿矢りさ『蹴りたい背中』第百三十回、二〇〇三年・下半期
    入れ替わる男女/収集する男の子/いつまで「子ども」を描くのか/絹代が体現するもの/大人(加害者)を描くのでなければ

    伝統的な物語の定型の一つに、「うつほごもり」と呼ばれるパターンがある。成人を前にした主人公が、密閉された空間に身を置いて試練を受け、最後に「大人」になって外に出る。『蹴りたい背中』をにな川のほうからながめると、この「うつほごもり」の話型に合致する。彼は自室にオリチャングッズを集め、オリチャンと直接つながることを夢見ている。そしてその「夢」が「妄念」にすぎないことを、物語の最後に彼女のライブに行って悟る。

    助川幸逸郎◆綿矢は非常に画期的な作家だと思うんです。偉大な作家になりうる存在だと思うんですけど、どうもそのことを誰もがわかっていなくて。当人さえ気づいていなくて。巨大な不発弾になりつつあるみたいな。そういうのを感じますけどね。
    重里徹也◆この作品を読むと、紛れもない才能を感じますね。それはちょっと小説を読める人だったら、誰でも感じることでしょう。紛れもないです。

    ただ、最後にやっぱり「蹴りたい背中」を本当に蹴らせて

  • はじめに 重里徹也

    1 石川達三『蒼氓』第一回、一九三五年・上半期
    移民する農民たちを描く/倫理も思想も問わない社会派/群像を見る視点はどこにあるか/太宰治と芥川賞/『道化の華』なら受賞したか

    2 石原慎太郎『太陽の季節』第三十四回、一九五五年・下半期
    動物の生態を描いた小説/求めるのは「許容する母性」/もってまわった疑問文/排除される崇高なもの/司馬遼太郎という対極

    3 遠藤周作『白い人』第三十三回、一九五五年・上半期
    評論家の類型的な物語/遠藤周作と小川国夫/高度経済成長期の日本人/遠藤周作と「柄谷行人的なもの」

    4 多和田葉子『犬婿入り』第百八回、一九九二年・下半期
    根拠にしない「郊外」/絶えず移動を続ける文学/ドイツとロシアを往復/「偶然」と「移動」/なぜ、郊外を描いて成功したのか

    5 森敦『月山』第七十回、一九七三年・下半期
    脱臼される異郷訪問譚/一九七〇年代における土俗の意味/中上健次のいら立ち/成長しない主人公/じっくり煮込んだ大根のような文章/日本近代における養蚕

    6 又吉直樹『火花』第百五十三回、二〇一五年・上半期
    柄のいい小説家/「神様」という言葉をめぐって/異様な個性よりも洗練の時代/吉祥寺という街

    [コラム]芥川賞と三島賞、野間文芸新人賞 助川幸逸郎

    7 吉行淳之介『驟雨』第三十一回、一九五四年・上半期
    性愛で自由を問う/刻印された戦争体験/迷い戸惑う「永沢さん」/吉行淳之介とPC

    8 小川洋子『妊娠カレンダー』第百四回、一九九〇年・下半期
    芥川賞は世俗や悪意が好き?/「阿美寮」で暮らす小川的世界/生きながら死んでいる/村上と小川が示す平成という時代

    9 中上健次『岬』第七十四回、一九七五年・下半期
    知的に制御された作品/自由意思と宿命/吉行淳之介と安岡章太郎/鮮やかで魅力的な女性像

    [コラム]『1973年のピンボール』をもう一度、読んでみた 重里徹也

    10 大庭みな子『三匹の蟹』第五十九回、一九六八年・上半期
    映し出される女性の立ち位置/吹きだまりの人間模様/根なし草たちの特性/社会の闇は境界に表れる/二十ドル、ベトナム戦争、原爆

    11 大江健三郎『飼育』第三十九回、一九五八年・上半期
    イメージを喚起する叙情的な文体/母親と方言を排除した作品世界/街から差別される共同体/土着性とおフランス/戦後日本人と重なる被害者意識/読んでも元気が出ない小説

    12 井上靖『闘牛』第二十二回、一九四九年・下半期
    虚無感を物語で楽しむ/井上靖が大人な三つの理由/変わらない日本人/西域、歴史、美、大自然への亡命/芥川賞作品の二つのタイプ

    13 開高健『裸の王様』第三十八回、一九五七年・下半期
    身体でつかんだ認識/成熟した大人の小説/コピーライターの先駆け/物語は始まらない

    14 三浦哲郎『忍ぶ川』第四十四回、一九六〇年・下半期
    ある種のメルヘン/志乃はなぜ、「私」を好きになったのか/なぜ、志乃の思いを描けなかったのか/背景にある階級の問題/井伏鱒二に引かれた作家たち

    15 大城立裕『カクテル・パーティー』第五十七回、一九六七年・上半期
    沖縄問題入門のガイドブック/気になるレイプの描き方/魅力的な中国人の登場人物/図式を超えるものがあるのか/背後にある大城のニヒリズム

    16 古山高麗雄『プレオー8の夜明け』第六十三回、一九七〇年・上半期
    無能な中央政治と優秀な現場/繰り返されるインパール作戦/システムが壊れた後で/徹底した自己相対化/声高に「正しさ」を主張しない/しなやかで温かい文体

    17 古井由吉『杳子』第六十四回、一九七〇年・下半期
    固有名を喪失する病気/「彼」はなぜ、外を向かないのか/集合的無意識でつながりたい/ツッコミだけでボケがない小説/古井由吉の代表作は

    18 李恢成『砧をうつ女』第六十六回、一九七一年・下半期
    在日コリアンと日本語/一つひとつ確かめながら書かれた言葉/母親を描く意味/人間を描くということ/なぜ、父ではないのか/小説は腹で読め

    19 村上龍『限りなく透明に近いブルー』第七十五回、一九七六年・上半期
    ヒシヒシと感じる鮮やかな才能/敗戦後三十年の日本の貧しさ/対照的な静と動/「行動」ではなく「観察」の作家/文学界の清原和博

    20 宮本輝『螢川』第七十八回、一九七七年・下半期
    『流転の海』の作家/あまりにも生々しい蛍/井上靖、叙情を食い破るリアル/蛍を描いた二人の作家/物語の鉱脈に到達する速度

    [コラム]一九八〇年代の文学状況と芥川賞 助川幸逸郎

    21 絲山秋子『沖で待つ』第百三十四回、二〇〇五年・下半期
    平成期を代表する受賞作/昼間に出る幽霊/効率優先と女と男/大平か福田かという分かれ目/働く人のメンタリティー

    22 綿矢りさ『蹴りたい背中』第百三十回、二〇〇三年・下半期
    入れ替わる男女/収集する男の子/いつまで「子ども」を描くのか/絹代が体現するもの/大人(加害者)を描くのでなければ

    23 宇佐見りん『推し、燃ゆ』第百六十四回、二〇二〇年・下半期
    追い込まれている主人公/スマホのなかと保健室/ものが見えているクレバーな作家/血縁への異様な執着/綿矢はなぜ、西鶴から学ばないのか

    [コラム]卓抜な新人認知システム 重里徹也

  • 書評はブログに書きました。
    https://dark-pla.net/?p=2726

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著者プロフィール

1957年、大阪市生まれ。聖徳大学教授、文芸評論家。大阪外国語大学(現・大阪大学)ロシア語学科卒。毎日新聞社で東京本社学芸部長、論説委員などを務めたのち、2015年から現職。著書に『文学館への旅』(毎日新聞社)、共著に『平成の文学とはなんだったのか』(はるかぜ書房)、『つたえるエッセイ』(新泉社)、『村上春樹で世界を読む』(祥伝社)、『司馬遼太郎を歩く』全3巻(毎日新聞社)など。聞き書きに吉本隆明『日本近代文学の名作』『詩の力』(ともに新潮社)。「東京新聞」「産経新聞」、「毎日新聞」のサイト「経済プレミア」で書評を執筆中。

「2021年 『教養としての芥川賞』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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