- Amazon.co.jp ・本 (317ページ)
- / ISBN・EAN: 9784788501973
感想・レビュー・書評
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暴走族について、民俗学・心理学・行動心理学・社会学などの視点から分析した本。
本の序盤は暴走族が感じるというスピードとスリル、その快感、そして目立ちたさから起こす犯罪などを考察している。また、仲間との一体感を、筆者は参与観察を通して述べている。中盤では、車の改造方法、特攻服のデザイン、暴走族の名前がどのように創られているのか、どのような意味を持たせているのかを、分析している。終盤は、暴走族のアイデンティティや、社会的意義を示している。
私はこれまで暴走族を見たことはない。映画やドラマなどメディアを通して見ていた。その当時は何のために走ってるのか、なぜ縄張りがあるのか、なんのために抗争するのか、という事が理解できなかった。この本を読んで、暴走族のアイデンティティ、仲間との一体感を求めるために走る、などという事や、警察との戦いにスリルを求めて走っている、という事が分かった。
この本は、暴走族の方からの声をそのまま本へ書かれている。例えば、スリルについて著者が質問した答えでは、「ああ、あれや、、なんちゅうの、、、スリルや、、あの、あの快感や!」のような、経験しないと分からない、言葉に表しずらい何かがあるんだろうなーと思った。この暴走族の人の、言葉に出来てない感、がなんとも言えない、良い味を本に出している。
この本を読むまで、暴走族は社会から外れた人、田舎の人がやる社会への不満行動?と思っていたが、彼らが彼らなりに考えをもって暴走行為に走っているのだ、という事が分かった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
今日でも時折、暴走族ないし暴走行為を行う人々を、地域によるが、見聞きすることがある。彼ら/彼女らはいつごろから、どこからきて、何を求めていたのか、ということがいつの頃からか知りたくなった。これが本書を読んだきっかけだった。著者自身による先行研究のレビューからもわかるとおり、暴走族を分析対象とした研究はほとんどなく、新聞・雑誌の記事を中心としたジャーナリスティックな記述が多い。暴走族を社会学の枠組みで体系的に説明した本書の存在意義は深く、手元の本が初版11刷りとなっていることからもわかるだろう。本書では暴走活動を「遊び」としてとらえた上で、心理学、文化人類学、社会学の知見を援用しながら、彼らの外的な面と内面が、丹念に調査・報告されている。本研究の醍醐味は、インタビューの記録を丁寧に読み解き、解釈・考察しなおす点にあると思う。例えば、「暴走族のグループ名にみられる言葉遊びは、ラブレーが試みた言語と表現の可能性についての実験のうちのいくつかを連想させなくもない」(p.126)といった具合である。フランスの文学者と日本の暴走族との間に、わずかな共通点に言及できる社会学者は、少なくとも本書刊行時にはいなかったはずだ。
なお、志向は全く異なるのだが、分析の枠組みを参考にして「ローディーのエスノグラフィ」研究ができるかもしれない、と空想した。スピードとスリル、爽快感・達成感、ファッションとスタイル、ドラマ(ロードレースの実況、弱虫ペダル等)といったプロットを設けて検討できるだろう。
<補>
チクセントミハイ フロー理論
http://cvs.ield.kumamoto-u.ac.jp/wpk/wp-content/uploads/2011/01/luncheon_ppt2010-74-kato-rev1.pdf
コムニタス
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/ar01905.pdf?file_id=4097 -
「暴走族活動を一時の犯行あるいは合法的生活領域と逸脱的領域の間の漂流(ドリフト)にとどめ、社会変革の契機とはなりえないようにしている一つの大きな力は、青年期全体を一つの「アソビ」の期間として規定してしまうことによって、青年層の持つ潜在力を日常性の中にとりこんでしまう文化的な規制力であると考えることができる」 ー 276ページ
フィールドは異なるが、分析概念の主軸に「遊び」を持ってきているエスノグラフィーということで、自分が描き上げるときに大いに参考にしたい書籍。
「遊び」と見なされているものの社会変革能力がどの程度あるのか、ということについては僕もあまり考察していないので、その点は興味深い。とはいえ、社会変革とは具体的に何に当たるのか、やはりただの発散行為ではないのか?という要素は含まれているため、それだけに惑わされず、より細かい追求をしていくということはなかなか難しそうなことだとは思うけれども。 -
社会学を学べば必ず出てくる著名な研究だけど、これをやり通す著者に感服するしかない。こんな時代もあったのか、と単純に面白味も感じる
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暴走族のエスノグラフィー―モードの叛乱と文化の呪縛
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1984年に刊行された本だからよくわからない。
昭和30年代にはカミナリ族と言われていたらしい。当時は単車を持てる若者が少なかったから金持ちかバイクマニアが公園で競い合っていたらしい。 -
日本におけるエスノグラフィーの記念碑的作品。らしい。
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エスノグラフィーは,もともと文化人類学において「諸民族とりわけ未開もしくは前産業的後進民族の文化を,可能な限り組織的かつ網羅的に記録する学問」(社会学小事典)である。ここで対象になっているのは異文化民族ではなく,日本の暴走族と呼ばれる青年グループである。これまで暴走族は単なる非行集団として描かれてきたが,佐藤は,詳細なインタビューとその分析を通して,暴走行為の持つ「遊び」としての構造を明らかにし,青年がなぜ暴走にのめりこんでいくのかについて多様な視点から明らかにしている。インタビューに基づく質的な研究のお手本としても役に立ちそう。(菅)
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著者の佐藤先生は、京都市の暴走族「左京連合」の集会やパーティに参加し、「ツレ」、「おっちゃん」、「カメラマンさん」などと呼ばれながら、1年に渡りフィールドワークを重ね本書を記した。彼はそれを「カルチャーショック体験の記録」と言っています。
本書は、『ストリート・コーナー・ソサエティ』や『ハマータウンの野郎ども』の流れをくんだ、都市エスノグラフィー(民族誌)の観点から暴走族を論じた傑作です。狭い意味の学術研究というよりは、ルポルタージュ的な性格を色濃く持っているように感じました。