書評家人生

著者 :
  • 青土社
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  • Amazon.co.jp ・本 (640ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784791775750

作品紹介・あらすじ

原稿用紙3枚半から浮かび上がる、一冊の本、一人の人生旺盛な好奇心にもとづく幅広い選書と、本の隠れた可能性を引き出す手腕とで、読書家のあいだで根強い支持を集める書評家・鹿島茂。当代随一の書評家は、なぜ書評を書き続け、いかにして書評家となったのか。約15年分の書評から一人の「知的飢餓者」の肖像が浮かび上がる。鹿島書評の集大成。

感想・レビュー・書評

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  • 【オンライン視聴可能:イベント情報・月刊ALL REVIEWS】2023/08/26 (土) 12:30 - 14:00 由井緑郎×鹿島茂|親子対談!鹿島茂『書評家人生』(青土社)を読む | ニュース | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS
    https://allreviews.jp/news/6184

    『書評家人生』(青土社) - 著者:鹿島茂 - 鹿島 茂による本文抜粋 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS
    https://allreviews.jp/review/6176

    青土社 ||文学/小説/詩:書評家人生
    http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3831

  •  
    ── 鹿島 茂⦅書評家人生 20230621 青土社⦆
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4791775759
     
     40年にわたる自らの「書評家人生」刊行記念! を振り返る(ALL REVIEWS)
    https://news.yahoo.co.jp/articles/2fbce77b29de437537396f6abde233a808b43dee?source=sns&dv=pc&mid=other&date=20230819&ctg=lif&bt=tw_up
     
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4167590018
    ── 鹿島 茂《パリの王様たち ~ ユゴー・デュマ・バルザック
    三大文豪大物くらべ 199501‥ 文藝春秋 19980101 文春文庫》
    http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%BC%AF%C5%E7+%CC%D0
     
     Kashima, Shigeru 仏文学 19491130 横浜 /元明治大学国際日本学部教授。
    /直の父
    http://www.noema.co.jp/Kashima_Shigeru.html
     
     このたび、明治大学名誉教授でフランス文学者の鹿島茂さんの最新書
    評集『書評家人生』が刊行されることになりました。2007年以来、この
    約15年のあいだに発表された書評を網羅した、集大成ともいえる内容に
    なっています。いまや、当代随一の書評家となった鹿島さんですが、い
    かにして「書評家人生」を歩んできたのでしょうか。本書の刊行を記念
    して「まえがき」の一部を特別に公開いたします。
     
     『書評家人生』刊行記念! 鹿島茂が、40年にわたる自らの「書評家
    人生」を振り返る
     
     「本意ではなかった」書評家人生
     
     生まれて初めて書いた書評は、『日本読書新聞』1982年5月24日号の
    「特集・サルトルとフローベール 『家の馬鹿息子』素描」に掲載され
    た「遡行的分析と前進的綜合「推理=小説」としての『家の馬鹿息子』」
    でした。
     
     これはジャン=ポール・サルトルの『家の馬鹿息子 ギュスターヴ・
    フローベール論(1821年より1857年まで)』の第1巻(ちなみに最終巻
    である第5巻が2021年に出版され、40年をかけて完結)が刊行されたと
    き、たまたま原書を読んだことのある人間ということで私にお鉢が回っ
    てきたのです。
     
     そのときの感想はというと、「書評というのはなんと割に合わない仕
    事なんだ! こんなことは二度とやるまい!」というものでしたが、こ
    の感想はそれから41年たってこのまえがきを書いているいまも基本的に
    変わっていません。そう、書評というのは、コスト(タイム)・パフォー
    マンスが最悪の「労役」といっても差し支えないものなのです。
    ですから、書評という仕事は、物書き業界にデビューしたての人間にま
    ず回ってくるのが普通です。こんな割に合わない仕事を引き受けるのは
    新人しかいないからです。
     
     そのいっぽうで、書評はまた、ピークを過ぎて、出版社からの注文が
    ほとんど入らなくなった物書きの人生において最後に回ってくる仕事で
    もあります。
     
     ようするに、書評は、物書き人生の最初と最後を飾る仕事なのだとい
    えます。この意味で、どんな物書きのキャリアをひもといても、書評に
    始まり書評に終わっているパターンが観察できます。
     
     では、キャリアの真ん中、つまり最盛期にはどうかというと、こちら
    は、書評をまったく引き受けない人と、たくさん引き受け続ける人がき
    れいに分かれています。
     
     当然、前者が正しく、後者が間違っています。コスト(タイム)・パ
    フォーマンスが最悪の「労役」に時間を割いていたのでは、自分のメイ
    ンの仕事を達成はできないと考えるのが道理だからです。そのことは、
    死後、著作集が出版されるほどの物書きで、著作集の最後にまとめられ
    た書評のページに当たってみると、大物ほど書評のページが少ないこと
    からも証明されます。なかには吉本隆明氏や丸谷才一氏のような例外も
    ありますが、書評はキャリアの最初と最後にしかない場合がほとんどな
    のです。
     
     では、私はどちらのタイプの物書きかといえば、後者の部類に属しま
    すが、しかし、それは本意ではまったくありませんでした。
     
     物書き人生の初期である1993年から『毎日新聞』の書評ページ「今週
    の本棚」のレギュラー執筆者となり、1996年からは『週刊文春』の「私
    の読書日記」を他の4人ないしは5人の人と持ち回りで引き受けましたか
    ら、最初は書評の仕事が多いという物書きキャリアの定番コースを歩ん
    だわけですが、実際には、2、3年の任期を務め上げれば、コス(タイ)
    ・パ最悪のこの「労役」から解放されると心から期待していたのです。
    ところが、案に相違して、任期は更新され続け、なんと今日まで『毎日
    新聞』と『週刊文春』で切れ目なしで書評ページのレギュラー執筆者を
    務めているのです。
     
     書評はなぜかくも「面倒臭い」のか
     
     では、いったい、なんでコス(タイ)・パ最悪の仕事を途中でやめな
    いで、40年以上も、つまり一生を費やしてコンスタントに書評を続け、
    しかも、書評集を10冊ほど刊行したのかと疑問に思う向きもあるかもし
    れません。
     
     第一に、私は自分でいうのも変ですが、いたって利に聡いコス(タイ)
    ・パ重視の、性、卑しい人間で、滅私奉公というのは一番嫌いなことで
    す。では、そんな私が、結果的に書評を一生続けてしまったのはいかな
    る理由によるのでしょう?
     
     不思議なことに、これに対して自分でも明確な答えを出せないでいる
    のです。
     
     そこで、自分にとっても未解決のこの問いに答えを出すため、「まえ
    がき」という場を借りて、なにゆえに書評を書き続けたのかについて、
    以下に考察を試みてみようと思います。
     
     まず、考えてみたいのは、本を読むのはこれほど楽しいのに、書評を
    書くことはなぜこれほど面倒臭いのだろうか、という問題です。すでに、
    ゆうに千を超える書評を書いてきて、こんなことをいうのはいささか面
    妖かもしれませんが、この苦しい思いを感じずに書評を書いたことは一
    度もないのです。
     
     では、書評のどこが苦しいのかといえば、対象の本を読むのに時間が
    かかるということでも、書く分量が400字詰め原稿用紙で最大5枚程度に
    限られていることでもありません。いわんや、労力に対して報酬が少な
    すぎることでもないのです。正直いえば、そんな問題はとうに解決済み
    です。
     
     では、なにが苦しいのでしょうか?
     
     理由は本という「絶対的な対象」から外れたことを書くわけにはいか
    ないという「宿命」にあります。
     
     このことは、本をネタにしながら自由に感じていることを書く類いの
    書物エッセイと比べてみれば明らかです(ちなみに、私はこの手の本を
    ⦅セーラー服とエッフェル塔 ‥‥ 文春文庫⦆
    ⦅乳房とサルトル 関係者以外立ち読み禁止 ‥‥ 光文社知恵の森文庫⦆
    ⦅モモレンジャー@秋葉原 ‥‥ 文藝春秋⦆
    ⦅とは知らなんだ ‥‥ 幻戯書房⦆と4冊も書いています)。
     こうしたエッセイは、まあ、内容がエロティックなものが多かったこ
    ともあって、書いていて実に楽しかったと記憶しています。
     
     ところがです。それなら、エッセイで取り上げたのと同じ本で書評を
    書いてくださいといわれると、とたんに苦しさが出てくるのです。
     
     つまり、一冊の本に対して一つの書評をきっちりと書くということそ
    れ自体が書評の苦しさの本質をなしているのです。
     
     なぜなのでしょうか?
     
     それは、多くの人と付きあうよりも、一人の人と付きあうほうがはる
    かに面倒くさいのと似ています。この定理は人間ばかりか本にも当ては
    まるようです。
     
     つまり、書評というのは、友人としてあるいは敵として、恋人として
    あるいは配偶者として、一人の人と徹底的に付きあうのと同じくらいの
    負荷がかかるものなのです。なぜかといえば、一人の人と付きあうには
    その人の全部といわぬまでも多くのことを知らなくてはならないのと同
    じで、書評は、一冊の本について、その全体を知らなければ書くことは
    できないからです。
     
     書評の苦しさの第二の原因は、基本的に「署名」をして、文責は自分
    にあることを公にさらさなければならないことから来ています。匿名書
    評というものはこの苦しさを引き受けていない以上、書評とは認めては
    いけないものです。同じく、ネットのハンドルネームを使った本のコメ
    ントは書評ではありません。書評というのは最低限、署名をすることの
    苦しさを引き受ける覚悟のある人でなければ書いてはいけないものなの
    です。これを強く感じるのは、見知らぬ作者ではなく、知己の本の書評
    を書くときです。友情を犠牲にしても書くべきことは書かなければなら
    ないことがあるからです。
     
     書評の苦しさの第三は、評者と本の作者以外の第三者も読むことを、
    つまり公開を原則としていることです。本の感想を、著者に、昔なら手
    紙で、いまならメールやショート・メッセージで伝える場合には第三者
    がこれを読むことはありませんから、たとえその内容が批判的なもので
    あっても、関係がおおきくこじれることはありません。
     
     ところが書評はあらかじめ第三者が読むという公開原則が前提となっ
    ているテクストですから、この第三者というものを心に描きながら書か
    なければなりません。じつは、これが案外難しく、苦しさを増すのです。
     
     コスパもタイパも悪い書評を書き続ける理由
     
     以上、書評について語るには、書評を書くのは苦しいことだという前
    提から始めなければなりません。この前提を外した議論はすべて無効で
    す。
     
     しかし、こう書くと、かならずや、なら、なんでそんなに苦しくしか
    もコス(タイ)・パ最悪の書評なんか引き受けているのだという疑問が
    再び呈されるはずです。
     
     ごもっともな意見です。
     
     しかし、これに答えるのは意外と簡単なのです。
     
     苦しくてコス(タイ)・パが最悪だからこそ書くのです。そう、書評
    とはある意味、マゾヒズムの極致なのです。とはいえ、ここでひとつ、
    果たしてマゾヒズムのない職業というものは存在しうるのだろうかと問
    うてみる必要があるでしょう。というのも、たいていの職業人(プロ)
    はマゾヒストであり、そうでないプロは存在しないからです。
     
     たとえば、プロというとすぐに思い浮かべるプロ・スポーツの選手な
    ら、ほとんどの人が、苦しさがなければとっくにスポーツなんかやめて
    いたと答えるでしょう。苦しさがあるからこそ、それを克服したときの
    喜びがあり、矜持が生まれるのだと。
    ただ、優れたプロ選手ならこう付け加えることを忘れないはずです。同
    じ苦しさでも、それが人(コーチや監督)から押し付けられたものであ
    れば、どこまでいっても苦痛でしかないので耐えられないが、自分が自
    分に課した規律から生まれる苦しさなら、それはむしろ歓迎すべきこと
    であり、ある限界点を超えたところからそれは快楽に変わる、と。
     
     そうなのです。自分で自分を律するために自分で定めた「規則」であ
    れば、人間は「克己」という名でそれを美化して、自分のほうから進ん
    でそれに従うものなのです。ウェイト・トレーニングやジョギングがそ
    のわかりやすい例でしょう。健康のためというのは口実にすぎず、自ら
    定めた目標という「法」に従って、「克己」に伴うマゾヒズムを呼び込
    むために、これを続けるのです。
     
     さて、書評に話を戻しますと、書評とは、小説、エッセイ、論説など
    と比べてもこの「克己」に拠るところが最も多いジャンルなのです。い
    いかえれば、書評は、脳髄のウェイト・トレーニング、知力のジョギン
    グであり、自分が定めた規則を守り、その負荷に耐えることを介して生
    まれる快楽を得ること以外には、あまり目的を持たないものなのです。
    (中略)
     
     というように、いろいろと苦しいにもかかわらず41年間も書評を続け
    てきた理由を自分で探ってきましたが、これらの言葉をひとことでまと
    めると次のようになるのではないかと思います。
     
     書評は人のためならず。
     
     そう、書評は自分のために書くものでなければ長くは続けられないの
    です。(中略)
     
     近年、書評集が出版されることがどんどん少なくなっているように感
    じますが、私は逆に、ネット時代だからこそ、読書の指針として書評集
    が多く出版されるべきであると感じています。本書がその傾向の先駆け
    になれば幸いです。
     
     書評家人生、まだ当分は、続きそうです。
    [書き手]鹿島 茂(明治大学名誉教授・仏文学者)
     
    (20230819)

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著者プロフィール

1949(昭和24)年、横浜に生まれる。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。2008年より明治大学国際日本学部教授。20年、退任。専門は、19世紀フランスの社会生活と文学。1991年『馬車が買いたい!』でサントリー学芸賞、96年『子供より古書が大事と思いたい』で講談社エッセイ賞、99年『愛書狂』でゲスナー賞、2000年『職業別パリ風俗』で読売文学賞、04年『成功する読書日記』で毎日書評賞を受賞。膨大な古書コレクションを有し、東京都港区に書斎スタジオ「NOEMA images STUDIO」を開設。書評アーカイブWEBサイト「All REVIEWS」を主宰。22年、神保町に共同書店「PASSAGE」を開店した。

「2022年 『神田神保町書肆街考』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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