20世紀はどのようにデザインされたか

著者 :
  • 晶文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (273ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784794965226

感想・レビュー・書評

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  • デザインと時代を切り離すことはできない。


    個人主義・合理主義・進歩主義といった近代の理念をどのようにデザインしたのか。
    遊園地、広告、都市計画、日本住宅、モダンデザインなど建築やテクノロジーを通して20世紀を読み解いていく。

    おもしろいのは、テクノロジーが人間の知覚を変化させるということ。
    この変化に併せて新たなデザインやテクノロジーが生まれる。またそれが人間を変えていく。この相互連関を20世紀はものすごいスピードで繰り返した。


    デザインに興味ある人にお勧め。

  • バウハウスとナチ(国家社会主義)。広告とベンヤミン。価値、人工的希少性、欲望。モダニズムとともに崩壊するユニヴァーサルなモダンデザイン。物語の喪失と泡沫的経済のニヒリズム。近代資本主義から排除されるマージナルな存在と対抗文化。近代の都市計画は貧困問題から始まり、20世紀はそれを解決しなかった。社会は人工的に変革・構築しうるという近代のデザイン思考そのものが間違いだったのか?

  • 前半◎
    後半失速な本だった。

  • 「社会」そのものが約束事によって成立しているのならば、約束事の不成立は社会の不成立を意味する。はるか昔のデザインは自分の階級を示したり性別を示したりするための禁制のことだった。そしてデザインとは制度を可視化する機能をもつがゆえに重要だった。
     さて、何でもOKになったはずの近代以降、スーツという縛りはビジネスの中で今もなお残ってるけど、マニッシュなファッションの女の子やダボダボの服を着る男の子とかがいる。そして、ファッションに限らず、お金さえ払えば上流社会の調度品なんてモノも手に入る。デザインが約束事を可視化する記号なのならば、そのデザインが制約という縛りを失った瞬間から「社会」は終わり始めていたんだろう。
    そんな時、決まって人は回帰する。自由に自分を示せるようになったはいいが、自分の希薄さに不安し、ゆえに再び記号を身にまとう。みんなと同じ記号を身にまとうことで安心する。個人とはかくも危ういものなのだ。同じ記号を身にまとうことで同調する。ホストもコギャルも私も群れていたいのだ。
    再びデザインがサインになってきた。
    de-signじゃなくてre-signなのだ。
     そんな意味ではギャルソンの服を着れる人はすばらしいと思う。
     

  • 20世紀はこんな風にデザインされてきたのか。
    デザインは消費社会への視覚的な民衆教育だったのか。

  • 分類=建築・美術。02年1月。

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著者プロフィール

1946年生まれ。武蔵野美術大学卒業。デザイン評論家。武蔵野美術大学教授。近代デザイン専攻。著書には『20世紀を作った日用品』(晶文社)、『モダンデザイン批評』(岩波書店)、『探偵小説の室内』(白水社)、『「しきり」の文化論』(講談社)など多数がある。

「2013年 『わたしの家 痕跡としての住まい』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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