南朝研究の最前線 (歴史新書y 61)

制作 : 呉座勇一 
  • 洋泉社
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感想 : 12
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  • Amazon.co.jp ・本 (335ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784800310071

感想・レビュー・書評

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  • 20170408読了

  • 全体的に言うと太平記史観からの脱却が必要。他の文書史料の研究の進展から明らかになったのは、後醍醐が行なった革新的とされる政策の類型はすでに前代からあったもの。室町幕府が建武政権の改革の多くを模倣・継承している点から、建武政権の現実的な面を評価できる。旧幕府の官僚たちも、後醍醐と関係があったならという但し書きもつくが、六波羅の官僚を中心に建武政権につかえていた。ただ楠木正成、名和長年が記録所に入ってた、だから実務能力があった、だから寵臣を無理やり抜擢したわけではない、という立論は疑問符。尊氏の頃の足利家は、代々北条氏と婚姻関係を結んで厚遇を受けていたが、源氏嫡流とはみなされていなかった。建武政権に背いたのは「八方美人で投げ出し屋」の尊氏が弟直義をはじめとした足利家中の人々を含めた当時の武士たちによって「将軍家」へと祭り上げられた体、と。新田義貞は太平記以外の史料では足利一門とされている。楠木正成は、異端の武士とされるが、御家人であり、流通ネットワークを抑える武士という特色も正成だけのものではない。建武政権は武士へ冷淡だったという説は、身内の北畠親房からも、例えば足利家に対し、尊氏の一族以外も多く昇進しと非難されていたことから覆される。ただ、大勢の日和見だった武士たちは、恩賞給付が遅々として進まなかったことが原因で、建武政権を見限っていったのでは、と。それは日和見だったものたちの功績の確定が難しかったからで、政権側より御家人の去就が原因だったのでは、と。1360年の窮乏した南朝では一度給付した恩賞を取り上げたりしたケースもあり、ますます弱体化が進んだ、と。鎌倉府と「南朝方」の対立はあったのか、という点は、鎌倉府が抵抗勢力の討伐を公戦として正当化するために「南朝方」というレッテルを利用した側面を指摘。それが15世紀後半になると行われなくなることで東国の南朝勢力の衰退も合わせて指摘。征西将軍府については、懐良親王の令旨の様式と機能が武家文書に酷似したものとなった、1365年ごろから征西府の権威が九州から伊予まで及び、伊予では南朝の綸旨と競合関係にあった、1371-72年に「征夷大将軍宮」を自称する懐良親王の令旨が見られる点からほぼ完全な自律性を保持し、そのピークは懐良が対明通交を決断した前後にあったことを指摘した説を紹介。ただ、南朝からの自立については留保がつく指摘も。「九州国家」建設の意図については可能性を指摘するにとどめるべき、と。ただ九州武士たちの「九州の論理」については興味深く読んだ。/主に、個人的な征西府への興味から手に取った一冊だったが、それ以前の時代についても、研究が進み、通説とされてきたことが、新たな視点で語られており、知的興奮を得られる一冊となった。

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著者プロフィール

国際日本文化研究センター助教
著書・論文:『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(中央公論新社、2016年)、「永享九年の『大乱』 関東永享の乱の始期をめぐって」(植田真平編『足利持氏』シリーズ・中世関東武士の研究第二〇巻、戎光祥出版、2016年、初出2013年)、「足利安王・春王の日光山逃避伝説の生成過程」(倉本一宏編『説話研究を拓く 説話文学と歴史史料の間に』思文閣出版、2019年)など。

「2019年 『平和の世は来るか 太平記』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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