落ちぶれたヒトラー(ウルフ)が、ロンドンで私立探偵として様々な裏の世界をめぐる物語。…と見せかけて、実はそれはアウシュヴィッツの囚人となった作家の見ている夢である、という小説。
初め素直にストーリーを追うつもりで読んで面食らった。私立探偵パートは唐突な暴力と性描写、SMシーンがしばしば挿入され、どぎつく強引な筋立て。ただ、どうやらこれは当時の「シュンド」すなわち三文小説のパロディ的に作られているらしい。またナチス関連の歴史ネタが多くちりばめられている。突然登場するSM女王様の名がイルゼ・コッホであるなど。知識の乏しい自分は注釈まで読んでようやく理解したものが多かった。
対照的にアウシュヴィッツパートの方は、かなり抑えた語り口。激しい怒りや悲しみをいくらでも描ける状況のはずなのにあまり踏み込まず、分量も少ない。その割に、ちょくちょく割り込んでくる。こちらが現実であることを印象付けようとしているかのようだ。
全体として、没入させるより俯瞰した視点から読ませるように作られている。視覚的にも工夫があり、私立探偵パートは三人称の部分と、日記と称する一人称の部分があり、さらに後者は段下げで表現されている。
俯瞰して眺めると、いくつもの皮肉を読みとれる。たとえば、難民としてロンドンに住むドイツ人が差別を受ける場面。最後にウルフがユダヤ人難民としてパレスチナへ向かう船に乗る点、しかもその船は史実ではイギリス人に阻止され、収容所に戻されたらしい。
著者はイスラエル生まれ。別に作者の体験に根差した訳ではない娯楽小説だが、ユダヤ人でなければ書きにくいテーマであるのは確か。