- Amazon.co.jp ・本 (132ページ)
- / ISBN・EAN: 9784806767893
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2010年10月16日
装丁/中垣信夫+三橋薫+吉野愛 -
光市事件の被害者遺族・本村さんの話を書いた『なぜ君は絶望と闘えたのか』と、『ヒットラーでも死刑にしないの?』を、同じ日に読む。
『ヒットラーでも死刑にしないの?』は、
近代イデオロギーとしての「人権」論を超えて展開する、待望の死刑廃止論・決定版。
と、サブタイトルに書いてある。
中山千夏は、丸山友岐子とともに、「死刑なくす女の会」のキモイリだった一人。扉をめくって、献辞をよみ、丸山友岐子が故人となっていることを知る。
この本は、「死刑はよくないと思うけれど、具体的な死刑支持論にぶち当たると、どう答えたものか、どう考えたものか、迷ってしまう」という人のために、宗教者でも学者でもない中山千夏が、自分の言葉で、自分の常識をたよりに、死刑廃止の考えを書いたものである。
ヒットラーでも死刑にしないの?
殺された人の人権はどうなる?
被害者に悪くて…
あなたの家族が殺されたらどうする?
といった、死刑はよくないんじゃないかと言ったら、返ってくることの多い問いや考えについて、私はこういう道筋で、こういう風に考えて、それでやはり、ヒットラーでも死刑にしない方がいいと思うし、殺された人の人権を考えていないわけではないけれど加害者の人権ばかりが大事にされるように見えるのはこういうわけだと思うし…云々と、書いたものである。
戦争と死刑は「場合によっては人殺しをしていい」という考えにもとづくものだ。 (p.75)
中山千夏は、「死刑」と「ふつうの殺人」を比べて、死刑は正義の殺人、国家が法律によっておこなう殺人、ふつうの殺人は、悪い殺人、個人が自分の感情や思考に動かされてやるもの、と世の中では思われている、正義の殺人と悪い殺人という風に考えられている、と整理する。
ふつうの殺人はあかんけど、死刑は「正義」やから、あってもええんちゃう?と考える人が多いようだが、「正義の殺人でもいけない」と私は思うと中山千夏は書く。
そして、もう一つの正義の殺人である「戦争」のことを考えあわせ、「正義は一つではない」と指摘する。過去の戦争をみても、交戦国どうしが「われこそは正義なり」と考える、その「正義」がくいちがったところに戦が起こっているのだ。
戦争や死刑といった「正義の殺人」をみとめたときに、その「場合によっては人を殺してもいい」という考えが社会にしみこむことで、むしろそれがテロや犯罪の温床になる、犯罪の少ない社会にはつながってゆかない、と中山千夏は考える。
▼ ベトナムの帰還兵たちが、精神的に荒れてふつうの社会生活に適応できずに、犯罪とかかわったのはよく知られていることだ。…(中略)…徴兵された若者たちは、軍隊でその考えを叩きこまれ、戦場でそれを実行し、そうして運がよければ故郷に帰ってくる。「場合によっては人殺しをしていい」という考えを持って、帰ってくる。戦争を支持し、彼らを受け入れる社会とは、その考えをも受け入れる社会である。その考えが広がりしみこんでゆく社会である。状況によって、その考えが、個人的な正義や欲望を果たすためのバネになるのは、簡単なことだろう。(pp.75-76)
もうひとつ、「死刑」を考えるときに、「殺人」という犯罪を例に考えるほうが考えやすいのはそうだろうが、刑法で死刑を適用される犯罪として定められている十数種類の罪のうち、主なものは「国家にそむいた罪」や「反体制的な罪」のようなものである。たとえば
内乱罪(の首謀者)
外患誘致罪
外患援助罪
現住建造物放火罪
建造物浸害
汽車転覆罪(の致死)
往来危険罪(の致死)
水道毒物混入罪(の致死)
爆発物使用罪
この中でもとくに「外患誘致罪」つまり、外国が日本に対して武力行使する元となるような活動をする罪は、死刑しかない(他の罪は、死刑または禁固とか、死刑または懲役とか、量刑の幅がある)。これは、かなりコワイ。
死刑は、どちらかというと、個人生活の安泰を守るものというよりも、現政府、国家の安泰を守るためのものだということがこうした「死刑になる罪」リストからわかる。
「死刑廃止論者が加害者の人権ばかり考えているように見える問題」はどうか。人を殺すこと、その人の存在を抹殺することが、最大の人権蹂躙だというのはそのとおりである。ただ、死刑は、殺人が起こった後で、その処置の一環として出てくる。つまり、被害者の人権が根底から破壊されてしまった後に、死刑をするかしないかという問題が出てくる。
その時には、もはや被害者その人が存在しないので、その人権を守ろうにも、どうにもできない。それでも、被害者その人の人権を守ることはもはやできないものの、被害者の遺族について、遺族への補償、事件報道のあり方について考えよう、と中山千夏は書く。
では、死刑廃止を主張することは「被害者、あるいは被害者遺族に悪い、思いやりに欠ける」行動なのか。
▼ まず、はっきりさせておかなければならないのは、このことを考えるときに、次のような場合は問題外だということだ。つい最近、愛する家族を惨殺されて、動転し、嘆き悲しむ人がいるとする。その人のところへ出かけて行って、「どんなに無念でも、犯人の死刑を求めてはいけません」という―。そういう行為は、思いやり云々のレベルではなく、人付き合いというものがまったくわかっていない非常識な行い、というものだろう。(p.80)
その上で、中山千夏の主張はこうである。
・被害者の人権、被害者遺族の心情を思いやるなら、被害者については匿名で報道するのが当然(被疑者や犯人も匿名で扱うべきだと思うが、まずは被害者だけでも匿名報道にすべきだ)
・被害者や遺族が事件によって受けた損害を、経済的に補償する(薬害や公害による被害者・遺族に対して国や会社がおこなう補償の意味とくらべあわせて、同じように考えてもいいのではないか)
・被害者や遺族の憎悪の感情を、癒してゆくような社会を目指すべき(第三者が、犯人を殺せ!と同調して憎悪の感情をかき立て、犯人が懲らしめられるのを見てスカッとするのは、被害者への思いやりではなく、その人自身の憎悪であり、その人自身の腹いせである)
そして、同じものを見聞きしても、人間の反応が決して一様ではないように、「被害者感情」も一様ではない。「被害者感情とは、加害者に対する殺意である」というような単純化をするべきではない。被害者や遺族が加害者に対して殺意を抱くことは、あってもおかしくないが、それに軽々に同調して殺意を煽るようなことはつつしむべきだろう。
中山千夏は、「被害者感情」をもう少し冷静に扱う場合について、公害や薬害の被害者について考えている。たとえば、エイズ感染のおそれがあると分かっていながら、厚生省や医者や薬品会社が、非加熱の血液製剤を流通させていた問題。すでに発病し、亡くなった人もある。考えようによっては、実に悪質な故意の殺人ともいえる。だが、こうした被害者に対して「厚生省の担当者や医者や薬品会社の担当者を、死刑にしなくては、被害者に申し訳ない」とは考えない。被害者や、大切な人を奪われた遺族に対して、「補償で我慢してもらうしかない」と考える。その考えが妥当であるならば、犯罪事件の被害者や遺族に対しても、「死刑以外の刑罰と補償で我慢してもらうしかない」と考えることは、ありなのではないか、というのである。
遺族が真に求めているのは、時間を戻すこと。被害を受ける前に時間を戻すことだ。だが、それは決して叶わないことである。
さいごに、中山千夏は、死刑の被害者として、冤罪者と、死刑執行者をあげる。
▼死刑制度を保持する、ということは、誰かにずっと、望みもしない殺人を押しつける、ということなのだ。(p.115)
だから、
▼「被害者に悪くて、死刑廃止を大声ではいえない」というのも、第三者のもっともな心情ではあろう。しかし私は、むしろこういいたい。
「執行にたずさらわなければならない人々に悪くて、死刑を続けようとはとてもいえない」と。
そして「人に殺人を強制したくないから、被害者や遺族には、死刑なしで我慢してもらおう」といいたい。(pp.117-118)
私はこの本を読んで、全てがさっぱりスッキリしたというわけではないが、考えてもぐるぐるとしていたことのいくつかは腑に落ちた。でもまた、こう考えたらイイと思っても、いや違うかもと思えたりするだろうし、そんなときに、時々読みなおそうと思う本だった。 -
「死刑は嫌だ」という思いがまずあって、「じゃあなぜ私は死刑が嫌なんだろう」と考えた結果が書いてある。(死刑廃止ありきではなく)
一番納得できたのは人権に関する部分。人権は無条件に保障されるべきもの。
被害者に関する部分は違和感が残る。「遺族は死刑を望んでいる」という死刑賛成派の主張も、「死刑は遺族を救わない」というこの人の主張も、勝手に遺族の気持ちを決めるという点では変わらないように見える。
本当の望みは元の生活を返してくれってことだとか、ケアが必要だって言うのは賛成なんだけど。
ともあれ、考えるきっかけとして非常に意義があった。 -
2007.3
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これは、わかりやすく死刑廃止論者の意見が書かれていると思う。
執行者の苦悩、冤罪者の存在を考えると納得することも多い。