“地形と気象"で解く!日本の都市 誕生の謎 歴史地形学への招待

著者 :
  • ビジネス社
4.00
  • (7)
  • (7)
  • (4)
  • (0)
  • (1)
本棚登録 : 143
感想 : 9
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (232ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784828422855

作品紹介・あらすじ

地形によって歴史は変わる。地形を変えることで歴史はつくられる。

なぜ、関ヶ原で天下分け目の合戦が行われたか、家康はなぜ駿府に隠居したのか、江戸は世界最大の都市になれたか、なぜ「利根川」は東に曲げられたか、信玄堤は隅田川にどう応用されたか……。
戦国時代から江戸時代、さらには明治以降も、河川のコントロールを中心に、日本各地で国土の強靭化が図られた。これによって暮らしの安心がもたらされ、活用できる土地が増え経済の繁栄がもたらされたのである。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 皆さんは、なぜ平城京から平安京に遷都されたかご存知でしょうか?“あるもの”が無くなったからだそうです。“あるもの”は、有限で人間が生活するために必要なものだそうです。それが無くなったので、遷都したらしいです。私は、この本を拝読して、現代も一緒じゃん!と、漠然とした気づきがありました。因みに、“あるもの”は、関ヶ原の合戦にも影響を及ぼし、その情景が歌川広重の東海道五十三次の箱根湖水図にも表現されていると聞いてびっくりした次第です。申し上げた通り、色々な気づきがある本書は一読の価値ありだと思います!
    (データサイエンス学科教員 推薦)

    ↓利用状況はこちらから↓
    https://mlib3.nit.ac.jp/webopac/BB00567398

  • 歴史の表舞台の流れを知っていれば、そのとき何が起こっていたのか?想像力を働かせて読んでいるのが楽しかった。

    作者が土木専門家ゆえにインフラ特に森林伐採の観点で語り、安藤広重の絵に描かれた森林枯渇の様子が都市の発展とどのようにつながっていたのか?には驚かされた。

    戦国、江戸時代の武将たちが戦いだけでなく、都市のインフラを盤石にしていった業績には目から鱗であった。伊達政宗の貞山堀は今一度見たいと思った。

  • 2020年日本学術会議提言 高校生必修科目に地理総合 災害の激化 地形 インフラストラクチャー(下部構造)

    奈良盆地 樹木切りすぎ→はげ山

    749年桓武天皇 平安京 鴨長明「方丈記」京は疫病や飢饉で40,000人以上死亡

    鎌倉時代 関東の大湿地 鎌倉→横須賀→房総半島へ 三浦半島から房総、茨城、東北へ

    大阪太閤下水 プランクトン→魚の餌→良好な漁場

    戦国時代の関西ははげ山 石油がない時代の木材需要 比叡山 関ヶ原の戦い 当時のはげ山で戦った事を知らなければ歴史を見誤る。

    甲子園球場を水でいっぱいにすると600,000立米 東京都は利根川から毎日2,400,000平米

    伊達政宗 仙台は高台

    日本橋付近の吉原遊郭の移転 遊郭へ行く客は船で隅田川を渡り、日本堤を歩いて踏み固める
    隅田川 向島、三社祭、ほおずき市、酉の市、花火大会→人通りが絶えないイベント

    日本人 物を縮め小さくし軽くする 細工して細かくする・細工しないもの→不細工
    詰め込まない人→つまらない奴

    コンパクト化は日本人の美意識、道徳☆一層の断捨離を進めることR040828

  • 伊達政宗のユニークな街づくりのおかげで、
    仙台は震災直後も汚水排水処理は止まらなかったこと
    信玄堤は土木技術だけではなく、
    堤防を守るためのソフトな社会的な仕掛けもしたこと
    などなど
    土木技術も歴史から学ぶことの重要性に改めて気づいた。

    細工しないものは「不細工」
    詰め込まない人は「詰まらない奴」
    なるほど〜の多様な視点も知ることができて面白かった。

  • 地理と歴史の好きな私にぴったりの本を書いてくださるのが、この本の著者である、竹村公太朗氏です。この本には、現在栄えている都市には、必ずその理由があり、それをその土地の持つ地形で解説しています。

    私がこの本を読んで気付いた重要なポイントですが、それは、その当時の地形及び気候で考えることです。この観点で見ると、なぜ現在は首都として発展している東京が以前は顧みられなかったのか、徳川家康は江戸を発展させるためにいかなる努力をしてきたかが分かるようになります。また家康が幕府を開いた後に、征夷大将軍の座を秀忠に譲って、駿府に隠居(移動)したのもこの本を読んで理解できました。

    さらには、奈良に初めに都が置かれた理由、そしてそこを捨てて京都に移動しなければならなかった理由、その後に徳川家康が江戸に幕府を開いた理由などがわかって興味深かったです。

    以下は気になったポイントです。

    ・インフラ(機能:安全、食糧、資源エネルギー、交流)に支えられている上部構造では、産業・経済・政治・学問・芸術・スポーツなど様々な活動が繰り広げられている。インフラの1つのピースが崩れただけで、下部構造全体の組み合わせが壊れ、人間活動全体も崩壊していく(p5)

    ・奈良盆地は、1)安全、2)木材エネルギー資源、3)水資源潤沢、4)水運があり、文明が誕生するために必要なインフラが全て揃っていた、それは全て自然が与えてくれたインフラであり、奈良盆地は天の恵みにあふれていた(p18)

    ・奈良時代には、紀伊半島は琵琶湖北岸まで森林伐採が行われていた、奈良盆地周辺では木材が確保できなかった、つまり奈良盆地周辺の木々は伐採され尽くされて、山々は禿山になっていた(p29)

    ・巨椋池近くの長岡京がいかに洪水に弱いかは一目瞭然である、長岡京へ遷都して以降、長岡京は何度も洪水に襲われた、そのため桓武天皇はたった10年で長岡京から再び遷都しなければならなかった、行き先は長岡京から30メートルも高い京都であった、地形と気象とインフラから見れば「桓武天皇は3河川が集中する地形の凄まじさを白なった」ただそれだけであるあ(p32)

    ・地形で分断されている人々は、情報を共有しない、言語を変え、文字を変え、風習を変えていく。ところが地形で分断された日本列島の人々は、京都で出会い、同じ言語で会話し、情報を共有していった。共同体とは情報を共有する人々である、京都で出会った日本人は、情報を共有し日本列島に住む共同体として帰属意識を育んでいた(p38)世界史で生き残った文明は5つある、西洋文明・イスラム文明・中国文明・インド文明、そして日本文明である(p40)

    ・日本の天皇制の特長の1つが、権力から距離をおき権威の座についたことである。権威と権力の分離は、源頼朝が鎌倉幕府を開府して以降と言って良い、それは、室町・安土桃山・江戸時代と、約700年間に渡って社会の運営権、つまり権力は武士が担った。武士同士の権力闘争は激しく繰り返されたが、権力から離れていた権威は基本的には揺るがなかった(p43)

    ・世界遺産を見ると、地球から与えられた大自然か、当時の権力者の遺跡がほとんどである、しかし、この熊野古道は、性別・後檣の分け隔てのない人々の命と健康のための世界遺産である。(p48)

    ・平清盛の建設した福原京は、流人が入らない都、清潔で魚介類が豊富な都、海を制覇できる都であった(p51)

    ・源頼朝は、平家の残党を恐れたのではない、流人を恐れた。流人が溢れ、スラム化する都市を恐れた。その流入を防ぐため鉄壁の鎌倉が必要であった(p58)頼朝の選んだ鎌倉は、東日本へいくカナメの土地であった、平清盛の神戸・福原今日が西日本への要の土地であったことと酷似していた(p59)

    ・歴史は地形と気象の舞台の上で演じられる、この舞台を忘れ、舞台上で踊る人間模様に目を奪われていると、歴史の本質は見えなくなる。ただし、地形を考えるときに大切なことは、21世紀現在の地形ではない、歴史が繰り広げられていた当時の地形が大切である。日本史上、日本列島で最も劇的に変化した地形は関東平野である。関東の大改編は、1590年以降の徳川家康と徳川幕府が行った。関東の歴史は、その大改編される以前の地形に戻らなければならない(p59)

    ・牛馬を家族にした日本人の心が、日本は車文明を進化させなかった原因であった、日本では牛等を去勢しなかった(p67)

    ・モンゴル軍が日本に侵攻したとき、日本の海岸線には、ぬかるんだ「泥の土地」が広がっていた、泥地の奥の陸地には、鬱蒼とした常緑樹が茂る山々が展開していた(p70)

    ・朝鮮半島、対馬列島の海の民は、モンゴル軍に悲惨な蹂躙を受けていたので、海の民たちは、密かにモンゴル軍への復讐を狙っていた。日本海戦の文永の役で、海の民たちは、わざと湿地が展開する福岡へモンゴル軍を導いた、二度目の弘安の役に際しても、福岡沿岸では元寇土塁が築き上げられていたにもかかわらず、福岡へモンゴル軍を導いた、それが日本の元寇の戦いであった(p74)

    ・戦後の世を制するには、京に上洛し朝廷を迎えなければならない、上洛するには、この狭い逢坂の峠を通らなければならない、その逢坂峠では、比叡山の僧兵が山猿のように、俊敏にとび、駆け巡り、侵入者を手ぐすね引いて待ち構えていた(p88)信長が比叡山焼き討ちをしたのは、京への入り口の逢坂峠を自由に行き来することが目的であった(p91)

    ・本願寺のあった上町台地に攻め入るには、台地の南の天王寺口しかない、防御する側は、その尾根の入り口をしっかりと固めさえすれば良かったので、本願寺一党は信長に負けなかった、それは上町台地の地形が信長に負けなかった(p94)

    ・西国から東北へ行くどのルートも江戸を通らない(徳川家康が秀吉に関東への移動を命令された当時)江戸は日本列島の東西の主要ルートから外れ、ポツンと孤立していた、江戸は情報の軸から外れた孤立した土地であった。秀吉は家康を不毛の関東へ追いやり、街道の軸から外れ、情報から孤立した地形の江戸へ追いやった、家康を幽閉した(p99)

    ・房総半島に上陸し、陸路を北に向かうルートに「国府台」があった、ここを過ぎると関宿になり、関東地方で唯一、陸路で東北へ進軍することができた。国府台は関東の地形上の急所であった。関東で最も古い由緒ある土地である、645年の奈良時代に、関東支配のために国府が置かれた、これは「こうのだい」と呼ばれる。日本武尊がコウノトリに道案内をされたという神話があった。1192年源頼朝は、決起する拠点とした、1564年、1564年には、北条氏と里見氏は国府台合戦が展開された、1868年には、戊辰戦争にて旧幕府軍は江戸奪還のためにこの国府台で構えた、昭和以降も、国府台は帝都・東京防衛のため陸軍砲兵隊の駐屯地にもなった(p110)

    ・明治から昭和にかけて、日本列島全体が禿山であった、神聖な比叡山も禿山になっていた、関ヶ原も禿山だったので高台に行けば全てが見通せた(p124)


    ・家康は1590年に江戸に入って以降、関東一帯を見て歩き回っていた、この調査は、後年の検地・知行割・町割などの政策でいかされた、そしてこの調査で2つの宝物を探し当てた、1)目に染みるような利根川の森林、2)大湿地の関東平野を日本最大の穀倉地帯に展開させる鍵となる地形の発見であった(p130)関宿の台地を削れば、利根川の流れは江戸湾に向かわず、東の銚子に向かう、利根川の洪水が江戸湾に来なければ江戸城の前に展開する干潟を埋め立てて干拓地にして、穀倉地帯にできる。他の大名の領地を武力で奪わなくても、莫大な財産が手に入ることに気付いた(p132)

    ・現在の地形図の海面を5メートル上げた関東の地形図によると、関宿で利根川と渡良瀬川をブロックしている下総台地の地形の存在がわかる、これは縄文前期の関東地形を表している(p136)

    ・東日本大震災時において、仙台の下水道システムが生き続けたのは、一切、ポンプが使用されていなかった、自然の重力だけで仙台市の汚水は流下していたので、電気が止まっても家庭やビルからの汚水は市内で滞留しなかった(p153)

    ・西日本から東へ行く陸路には3本のルートがある、北陸道、東山道(のちの中山道)、東海道である。このうち、北陸道と東山道は3ー4ヶ月間雪に閉じ込められてしまう。従って、東海道が東西日本を統一する街道であった、その東海道の中央に位置するのが駿府であった。この駿府は、防御と攻撃で第一級の地形を保有していた(p163)駿府の前面の砂浜は、鉄壁の守り、三保の港は最強の攻撃拠点であった(p167)

    ・江戸時代、全国の沖積平野で堤防が築かれ(徳島県の那珂川など)何条にも暴れる河川を堤防の中に押し込んでいく作業が行われた、この流域開発によって日本の耕地は、平安時代から鎌倉、室町、戦国にかけて90万町歩で推移していたが、江戸時代には一気に300万町歩までに増加した、各地の米の生産高は上昇し、それに従って日本の人口は、1千万人から、三千万人に増加した(p171)

    ・1657年明暦の大火以降、隅田川の東岸を江戸市内に取り込んだからには(隅田川に橋をかけて武蔵国と下総国の両国を結ぶ橋)、もう隅田川の東側で洪水を溢れさせるわけにはいかず、他のどこかで水を溢れさせる必要があった、日本堤と一連の黒田堤で囲む一帯で隅田川を溢れさせることにし、江戸に洪水を到達させないようにした(p178)

    ・中国人や韓国人と異なる日本人の性行とは、日本人はなんでも「縮めて」しまうこと(p197)細工しないものは「不細工」と非難し、詰め込まない人は「詰まらない奴」と侮蔑された(p204)

    ・日本史が大きく転換する時には、いつも森林喪失という事態が大きく関わっていた、8世紀末、奈良盆地は森林を失ったため、桓武天皇は平城京から淀川流域の平安京へ遷都した、17世紀初頭、西日本一帯の森林は消滅していたため、徳川家康は関西を背にして広大な森林を持つ利根川の江戸に幕府を開いた、日本文明は森林消失の危機を、都を移すことで凌いでいた。江戸末期、日本列島全体の森林が荒廃してしまったので、日本文明は都を移す得意技を封じ込めれて、絶体絶命の崖っぷちに立たされた。(p214)黒船の西洋文明は、日本に化石エネルギーを運んできた、森林を焼失していた日本にとって、黒船はエネルギーの救いの神となった(p215)

    ・険しい地形と湿地帯のため、日本人は車を進化させなかった、日本人の旅はいつも歩きであった。船旅もあったが、それは金持ちの例外的な旅であった(p224)日本人の誰もが荷物を担ぎ歩いていたので、日本人の価値観は「モノを小さく軽くする」ことであった、モノを小さく軽くすることは、モノを担ぐ自分自身の命を救うことであった(p224)

    2022年3月6日作成

  • 歴史を人物や事件から捉えるのではなく、その根底にある地形や気象から読み解こうとする著者の最新作。この視点で歴史を見ると、新しい見方ができ、よりいっそう興味深く感じられ、新作を見つけると衝動買いしてしまいます。
    本作は、過去の内容も少し重なる部分があるものの、古墳時代から江戸時代にかけ、通史的に解説すると同時に、各都市のエピソードでまとめていますので、面白くないわけがない。歴史を振り返りつつ、都市の構造なども見ながら、1札で2度おいしい内容だと思います。



    <目次>
    はじめにー日本文明の地形史観
    奈良盆地での文明誕生
    桓武天皇の京都への脱出
    日本列島の地理的な中心・京都
    平清盛と神戸への遷都
    なぜ、頼朝は辺境の地・鎌倉に?
    モンゴル軍を破った福岡の地形
    「信玄堤」という画期的な治水事業
    信長が戦った比叡山と大坂の地形
    なぜ秀吉は大坂城をつくったか
    日本最初の運河・小名木川の謎
    禿山の中の関ヶ原の戦い
    家康が関東で発見した宝
    利根川東遷事業の謎
    都市を支える命の水
    伊達政宗がつくった仙台
    家康はなぜ静岡に隠居したか
    200年の平和が生んだ堤防と文化
    日本堤と墨田堤の仕掛け
    明暦火災後の復興事業
    日本列島の旅とは歩くこと
    断崖絶壁の江戸文明
    番外編 地形が生んだ「日本将棋」

  • 200ページ中39ページで挫折。最初から論拠を示さない主張で??と思っていたが、P39で「世界中の大陸で、歩いていると自然にある地点に集まっていくなど聞いたことがない」とあってそっと本を閉じた。自然にという意味がわからんし、聞いたことがあるかは主観でしょう。すべての道はローマに通じるは、自然じゃないから? 道は自然にはできないよ。全部読んでないから後半すごいのかもしれないけど、辛い。

  • 6月30日新着図書:【著者は文明の興亡は地形と気象への視線が不可欠であると唱え、日本の都市の誕生の謎を「地形」と「気象」から解き明かしていきます。】
    タイトル:“地形と気象"で解く!日本の都市誕生の謎 : 歴史地形学への招待
    請求記号:210:Ta
    URL:https://mylibrary.toho-u.ac.jp/webopac/BB28182721

全9件中 1 - 9件を表示

著者プロフィール

日本水フォーラム代表理事。博士(工学)。
1945年生まれ、神奈川県出身。昭和45年東北大学工学部土木工学科修士修了。同年建設省入省、近畿地方建設局長を経て国土交通省河川局長。2001退職。一貫して河川、水資源、環境問題に従事。人事院研修所客員教授。
著書に『日本史の謎は「地形」で解ける』(PHP文庫3部作)、『土地の文明』『幸運な文明』(以上、PHP研究所)、『日本文明の謎を解く』(清流出版)、『水力発電が日本を救う』(東洋経済新報社)など多数がある。

「2021年 『“地形と気象”で解く! 日本の都市 誕生の謎』 で使われていた紹介文から引用しています。」

竹村公太郎の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×