- Amazon.co.jp ・本 (314ページ)
- / ISBN・EAN: 9784831509383
感想・レビュー・書評
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今年の正月、成島柳北が住んでいたという墨東(隅田川東)の跡を訪ねた縁もあり紐解いてみた(内田樹の「街場の読書論」で、この本の存在を知った)。案外読みやすい。良書である。
成島柳北の名は、日本のジャーナリズムのパイオニアという認識だったので、気にはなっていた。しかし、その文章を読んだことはない。その生涯も初めて知ったという体たらく。
成島柳北(なるしまりゅうぼく)。天保8年(1837)江戸生まれ。本名惟弘。将軍侍講の家を継ぎ、若くして将軍家茂に経書を講じた。のちに外国奉行、会計副総裁などを勤めた。幕府瓦解後は明治政府に出仕せず、明治7年(1874)「朝野新聞」社長に就任。軽妙な筆致で自由民権派の主張を展開、好評を博した。明治17年(1884)没、享年48歳。
最晩年、成島は病を得て休んでいる所に、ライバル社の日刊読売新聞から論説コラムを頼まれる。「朝野」がオピニオンリーダー誌ならば、「読売」は大衆紙だった。成島は引き受ける。読めさえすれば、大衆にもわかる文章。その中で、成島は何を書いたのか。
曰く、
貧乏神の話に託(かこつ)けて、貧乏を脱するには「勉強と分を知る」ふたつが必要と説く(19p)。「分を知る」に、武士階級としての名残がある。
「紳士の弁」(36p)を書いて、紳士という階級が出て来たと書く。中江兆民「三酔人経綸問答」で紳士君を登場させる6年前。言葉が流行り始めた直後のはずだ。単なる素封家ではなく、「徳望、才識、気節、学術、勲功ある者」であると説く。思うに、最も早い紳士の定義である。
「理を枉げて非に従ふ勿れ」(71p)時期的に、加藤清正の例をもって、北海道開拓使官有物払下げ問題で孤立していた大隈重信を擁護する論であることは明らか。しかし、この頃は日々民権派と政府との情勢が変わっていた時期である。民権論者の成島柳北として、民権派の動きを一切出さないのは、如何なものかと思う。と思いきや、「山奥の花」(78p明14年10月13日)のギリギリになって、「国会尚早し」という論に反対する文章を書いている。
「沢庵漬の説」而して、国会開設の詔を下して、黒田を護った政府のマヌーバーぶりには何も感じていないのか、その直後のこの文章(10月29日)において、「沢庵の軽重自ら宜しきを量るべし」と力で押さえるだけではダメだ(だから詔が下ったのだ)、とだけ書く。私は視野が狭いと思うのだが、これは後世の歴史を知っている私の思い上がりだろうか?
等々と、感想を書いていくとキリが無いので、ここら辺りで筆を置く。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
bk1紹介文より。《明治十四年から十七年にかけて、保守頑迷家を攻め、改進を主張する民権派としての啓蒙の姿勢が、商工業者、名もない民衆の支持を集めていた『読売新聞』の「読売雑譚」欄に寄稿した、成島柳北の論稿122編を収録。》