- Amazon.co.jp ・本 (64ページ)
- / ISBN・EAN: 9784834002362
感想・レビュー・書評
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まさに5年間にわたって定点観測するドキュメンタリー番組です。
雑草のくらし ― あき地の五年間
1985.04発行。字の大きさは…中(字の大きさは、大ですが、字が薄いので中)。
この絵本は、著者甲斐信枝さんが1979年から6年の歳月をかけて完成したもので、実際の観察は、1979年春から5年間、京都・比叡山の麓の畑あとに通い、観察を続けました。
その方法は、雑草を観察するために、作物を育てている畑のなかの一角を5年間借ります。まわりは、作物を育てている畑です。その借りた畑だけ、作物の栽培を5年間中止し、はえてくる雑草を観察します。そして、雑草の自然のままのいとなみを見るため、まわりに金網をめぐらし、人や犬が入って荒らさないようにしました。
最初の年の春には、メヒバシなどの草がはえて来ます。小さな草は、大きな草の下敷きになって枯れるもの、虫に根ごと引っ繰り返されるものなど。草たちは、早く大きく、強くなろうと一生懸命です。
そして、一生を終える秋までに、花を咲かせ、種子を残して枯れて行きます。翌年の春には、新しく育った草が大きく成長し、はえてきたメヒバシをおおいます。背の低いメヒバシは枯れて行きます。どんどん背の高い、繁殖力の強い草がはえて行きます。
その営みを甲斐さんは雨の日も風の日も、暑い夏の日も雪の降る日も、畑あとの空き地にしゃがみこんで、草が芽ばえ、花を咲かせ、実をむすび、そして枯れていく様子を、じっと見つめつづけたのです。そして、出来上がったのが、この絵本です。
【読後】
本を開けるとA3用紙を超える大きさの絵本です。そこに丁寧に草を描いています。その片隅に説明文を書いています。
畑は、最初の年の更地から、どんどん変化して行く様が、詳細に描かれています。まさに5年間にわたって定点観測するドキュメンタリー番組です。最後の5年目には、背の高い草がぼうぼうと畑一面を覆っています。
そして、畑の返却期限が来た荒れ地は、土地を掘り起こし、草をすっかり取り除かれますと。ぞくぞくと芽を出してきたのは、メヒバシなど短い命を終えて消えて行った草です。種子のまま土の中で生き続け、自分の出番が来る日を待っていたのです。
読み終って、凄いなと思いました。本当に、この大きなページに詳細に草を描いています。そして、最初にはえたメヒバシが最後にまた生えて来るのには、ビックリしました。
2021.02.22読了
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【感想・レビュー600冊目】
令和3年(2021年)2月22日、甲斐信枝さんの「雑草のくらし ― あき地の五年間」が感想・レビュー600冊目となります。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
たかが雑草されど雑草、空き地に生える雑草にこんな激しい弱肉強食の世界があったなんて。
毎年同じ草が生えてるんだと思ってたよ。
なかなかに興味深い。 -
なんと力強くも綿密な絵と簡潔で明快な文章で語られる、空き地で繰り広げられる雑草たちの五年間の攻防。
動けない草たちは、彼らなりの生き残りの術が、そして他の植物との戦いの術がある。
空き地に生える雑草は五年間のあいだで次々に変わっていく。まさに命は戦いだ。
大型絵本ということもあり、軍事物を読んでいるかのような緊迫の群雄割拠を読んだ気持ちになった。
綺麗に均された一年目に芽を出したのは小さなメヒシバやエノコログサ(ネコジャラシ)だ。小さな雑草たちしかいない土地で、昆虫たちも土の上を歩き食料を探す。
メヒシバやエノコログサは、春に芽を出し、秋には種を残して枯れていく。
二年目。
何処からか飛んできたオオアレチノギクの綿毛が芽を出し、ものすごい勢いで延びていく。土手から地下茎を伸ばしたスギナからツクシも顔を出してきた。どこからやってきたのか新しい雑草たちが次々に空き地を覆う。
去年のメヒシバやエノコログサは、大きな草花たちの隙間にやっと芽を出すが日が当たらずに枯れてしまうのだ。
オオアレチノギクがまた大量の綿毛を飛ばして枯れた秋になると、もっと背の高いセイタカアワダチソウの時代だ。
三年目。
去年までは少ししかなかったカラスノエンドウやツクシの勢力が増している。カラスノエンドウの蔦に絡まれ覆い被さられた他の草たちは枯れていくばかりだ。
だがカラスノエンドウは増えすぎたのかもしれない。枯れた草たちが地面を覆い尽くし新しい目が出てくることができないのだ、あれだけ多くの種を弾き散らしていたというのに。
空き地では、蔓を持つクズやヤブガラシと、とにかく大きく高く伸びるセイタカアワダチソウとの攻防だ。
冬の間、土の下では多くの地下茎を持つ草たちがひしめき合って栄養を貯め、その地下茎や根っこから栄養を取る昆虫や蛙たちが春を待っている。
四年目。
ついに根っこで生き続ける草たちが、種子を残して自分は枯れる草たちに取って代わった。
しかしその地下茎をもつ草たち同士の闘いもある。
雑草たちの生き残り方は様々だ。
日に当たるように上に上に伸びる、地面に広がる、地下で栄養を溜める、綿毛で種子を遠くへ飛ばす、根っこを貼って遠くに芽を出す。
戦い方もそれぞれだ。
他の草に蔓で巻き付き栄養を奪う、高く伸びて多く日を浴びる、他の草に覆いかぶさるように伸びる。
動けない植物たちは、勢力争いに負けたら枯れていく。
大きな草の下敷きになる、虫にひっくり返される、種子が虫の食料になる。
それでも植物はあとからあとから芽を出してくる。
そして五年目。
空き地が地ならしされた。すると芽を出してきたのは、五年前に生えていたメヒシバやエノコログサだ。彼らは大きな植物たちが空き地で勢力を誇っていた間も地面の下で種子のまま生き続け、また自分たちの出番が来ることをじっと待っていたのだ。 -
休耕地に生えた雑草たちの生存競争と世代交代の5年間をいきいきと描き出した絵本。
図書館本。
ボタニカルアートのような写実性は無いが、雑草の特徴がよく捉えられた絵で、「あー、こういう草あるある!」と記憶が刺激される。私が幼少期に“ブドウ”と勝手に命名していた草の正体はスイバ、もしくはその近縁種だったようだ(笑)。
広々とした畑作地帯の風景や、細かい地中の根なども素晴らしいが、私の一推しは枯れ草。特に冬枯れの草薮は真に迫っている。
主題の雑草だけでなく、様々な虫や蛙、トカゲ(カナヘビ?)、鳥などもふんだんに描かれており、地味な草ばかりで飽きた子の気分転換にもなりそう。
また、遠くの景色や畑の作付にも5年の間にちょっとした変化が見られ、違いを見つけるのも楽しい。
理科、社会、美術、国語と、1冊で色々な楽しみ方ができる絵本だ。 -
陽が射し、水が流れ、根を張る為の大地があれば、
命は生まれたくて生まれたくてしょうがなかったかの様に、次々ひょこひょこ芽を出してくる。
例え、
大きな草の下敷きになって枯れようとも、
虫に根っこごとひっくり返されようとも、
陽の光や養分の奪い合いに負けてしまおうとも、
枯れてしまった仲間を後目に草花は
(こうしちゃおれない)
とばかりに
新しい芽をどんどん生み出し続ける。
それはまるで
陽の光も永遠では無い。
生きられるのは、今のうちだけ!
と、悟りきり、<生きる>事以外には何一つ興味を持たない、頑固な哲学者のようにも思えてしまった。
普段、この目で見る草花を私は『雑草』と呼び、何の思いも抱く事は無かったが、
著者が、5年もの長きにわたって、空き地に蔓延る様々な草の成長の経緯を詳細に追い、観察し、描いた絵本には
言葉を越えて伝わってくる静かで壮大なドラマがあった。 -
空き地の雑草の五年間の定点観測。
一口に雑草と言っても、同じ雑草が生え続けるわけではない。
雑草どうしの熾烈な生存競争が描かれている。
メヒシバ、エノコログサ、オオアレチノギク、よく見かけるけど名前は知らなかった。
四年目の畑あとは多年草が山のように生い茂って山のようで恐ろしいくらい。 -
空き地の5年間を観察し続けた甲斐さん。地面の低いところで植物や虫はたくましい生を繰り広げている。なんてドラマティックで力強い生命力。同じ春でも1年目から5年目まで全く違う景色。顔を見せる植物が違う。生存競争か。すごいな。足下の自然はこんなにも豊かだった。人間はもっと地に足をつけて地面を触って生きたほうがいい。自然の強さを感じられるから。
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見ごたえのある、繊細にして広大なイラストと、簡潔な文章。
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この感覚を言葉で言い表すのは難しい。そんな読後感だけれど、どこかこころの奥底に眠っている感覚にそうっと触られた読後感だった。こころから見つめ続け、見守ることでしか得られない作者の本物のまなざしを感じることができる良書だと思った。絵本と侮るなかれ。
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数年前から近所に広い広い空き地ができた。
そこに生える草は定期的に刈られているのだけれど、刈られるまでに移り変わる雑草の勢力図を見るにつけ、子供のころに見たこの本を思い出していた。
教科書で読んだんだっけ?
地べたに腹ばいになって小さな草をのぞいたり背の高い草を見上げたり、立って遠くから眺めたりするような絵。
あの河原にはえてるアレか、とか、駐車場によく生えてるソレか、とか、景色を思い浮かべられる身近な草たちの生きざまが見えてくる。
でも本物の草っぱらのようにゴチャゴチャびっしりと植物が描かれるから、本物をしらないとどれがどれだかわからないかもしれない。
読みたいと思うだけ思っていた本を読もうと思ったのは「ミクロの森」http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4806714593のおかげ。
丹念に描かれた草草は、やはり丹念に読みたい。