眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』

著者 :
  • フィルムアート社
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感想 : 11
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  • Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784845917044

作品紹介・あらすじ

ついに、『シネマ』がわかる!
思想界に颯爽と現れた26歳の新鋭、衝撃のデビュー作!
「たんに見る」ことの難しさと創造性をめぐって書かれた画期的なドゥルーズ『シネマ』入門。
本書は、「見る」ことと「読む」ことの復権を同時に実現する。
20世紀最大の哲学者、ジル・ドゥルーズが著した芸術と哲学をめぐる二巻本『シネマ』。

本書は、『シネマ』にとって、映画は哲学の「フッテージ(footage)」、つまり「思考の素材=足場」であると捉えなおすことから議論を開始する。
その映画というフッテージに、もうひとりの重要な哲学者となるアンリ・ベルクソンの哲学が流しこまれる。そのとき映画はイメージ=映像による〈思考〉の実践として立ち現れてくるのだ。

『シネマ』と映画の関係、ドゥルーズとベルクソンの関係というふたつの問いは、哲学にとって「見る」ことと「読む」ことがいかにして概念の創造へと導かれるかということを指し示している。

映画という特殊な経験のシステムから立ちあがる、イメージがそれ以上でもそれ以下でもなく見たままで現れる地平、「眼がスクリーンになるとき」とはどのようなことか。
そのとき観客である私たちはどんな存在へと生成するのか。

また、「私は素朴な観客です」というドゥルーズの言葉どおり、「見たまま」を肯定する態度は、ドゥルーズの哲学の創造性とどのようなつながりがあるのだろうか。

映画から哲学へ、哲学から映画へ、まっすぐに『シネマ』の核心へとスリリングに論じぬく、新鋭のデビュー作 !

感想・レビュー・書評

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  • 61
    111☆ ランシエール
    117
    142
    146
    148 ヴォリンガー
    220 自由間接話法

  • 内容は難解だけど数回読めばわかるようになる。
    問題は『シネマ』を読まないと『シネマ』の議論と福尾の解釈との見分けがつきづらいこと…
    この本を手掛かりに『シネマ』も読むかあ

  • ただ見るとは。
    映画はモンタージュの集合体であり、それ自体が隠喩であると信じていた自分には、あまりにも逆説的な出だしで困惑した。だが、映画は映画でありスクリーンであり自分が見ている世界でもある。目の前で流れている存在そのものが自分の眼であると考えるのも面白い。

  • P.2018/9/23

  • "たんに「見る」ことの創造性”などの言葉にシンパシーと挑発的なものを感じて、著者と本書に興味をもった。

    ドゥルーズ「シネマ」の運動イメージと時間イメージ、そしてベルクソンのおもに「物質と記憶」を段階的に参照・比較しながら、ドゥルーズの“リテラリティ”と革新性を明らかにしていく。
    3章「運動と時間」がとても味わい深く、4章はスリリングに駆け抜けるようだった。
    p144「眼は眼であり、カメラはカメラである。....」の2段落によって、前後がスパークしていく。

    引用と説明が重ねられていくシンプルなスタイルの中に、アイデアを伝えようとする著者の身振りが見えるようで、「超」読解でありながら、気さくに楽しく読みすすめられる。

    そして、5-1「私に身体を与えてください」ではじまる最終章が美しい。
    身体が、身体こそが、バラバラにほどけてゆく際限なき断片化への抵抗の拠点となる。

    p249
    生の諸々のカテゴリーのほうへと思考を投げ込むことが問題なのだ。生のカテゴリー、それはまさしく身体の諸々の態度、姿勢のことだ。
    p280
    貧しい者たちは仮構作用によって「おのれの民衆を発明する」...仮構作用とは、「本当かどうかわからない話」としての伝説をその場でおこない、記憶にすることだ。
    人物は以前と以後から分割されるのではなく、ある状態から別の状態へと移りゆくなかで以前と以後を結びつける。
    彼は決して虚構的であることなく仮構するとき、他者に生成する」。


    取る態度や方法が実験的で自然な印象。今後の書き物もとても楽しみだ。

  • 『眼がスクリーンになるとき』。タイトルに引かれて久々に哲学関連の本を読んだ。良書だったので感想を書かずにはいられない。難解で知られるドゥールーズ『シネマ』の入門書であると同時に、「創造」についての本でもある。

    何を隠そう僕は学生時代に『シネマ』を読んだものの1ミリも理解できなかった人間だ。何が書いてあったか全く覚えていない。でも、平易な文からいつ間にか哲学書になっていく文体で、最後まで読み通すことができた。哲学の入門書は退屈なことが多いけど、読み終えたときにカタルシスが得られる。1992年生まれで現在大学院生の著者、なんとこれがデビュー作だという。

    本のタイトルになっている「眼がスクリーン」って何? それは対象を「リテラルに(=文字通り、見たままに)」見るということ。〈眼ースクリーンは与えられる「見え(vision)」を受け取るだけだ〉。眼がスクリーンになるとき、隠喩は文字通りに読まれ、映画のワンシーンは批評の理論が適応されるのではなくそのまま見られる。これはある種「誤読」を生むかもしれないが、この考え方でドゥールーズは新しい概念を創造した。本書を読むと、この思考法を追体験できる。

    この本を読み終えた人はドゥールーズの『シネマ』を理解しただけで満足せず、何かを創造することに生かすべきだろう。ドゥールーズは映画について哲学するのではなく、映画を使うとこんな概念を生み出せますよ、というスタンスで思考した。映画などの芸術や哲学の理論、これらに詳しいだけでは新しいものは創り出せない。芸術や理論がそもそも持っている余剰というか、本書に出てくる言葉を使えば「力能」に注目すると、自分には見えていなかった新しい思考の地平が現れる。

  • 読んだ。だいたいわかった。

  • キーワードは素朴に観る(読む)こと。
    シネマトグラフが発明された当初、それを例として空間化された運動を批判したベルクソンの哲学。
    その哲学を、あえて素朴に読解することで、映画を通じて概念を創造するための補助線として活用したドゥルーズの「シネマ」。
    かつて読んだ「シネマ」が、魚の背骨をえいやっと引っこ抜くようにひとつのパースペクティブから理解できた。

  • (01)
    本書も,映画の本でもなく,映画史の研究でもない.何の本なのか,といえば,著者が冒頭でいうように,ドゥルーズ「シネマ」(*02)の解説書ではあるが,おそらく「シネマ」の詳細な解説が読めてよかったという読書体験にはならないはずである.
    終盤のモチーフとなる仮構や偽といった話題へと接続しつつ,偽造や模倣,そして新しさや芸術,哲学といった問題が,ドゥルーズ「シネマ1」及び「シネマ2」から注意的に,注目的に引かれ,取り扱われる.これらの問題系は本書のさまざまな読み方の方途のひとつを示しているように感じる.
    本書の真面目な通読を試みた読者はこんな疑問を残すかもしれない.「で?」「だから?」「著者のオリジナルは?,言いたいことはどこに?」
    このような疑問符は通俗的なものだろうか?
    解説書を自称する本書の額面に騙されてはいけない.本書には何事かの「新しい」身振りがあり,素朴な眼には,おそらくその新しさは見失われず,見逃されずに現れる(目が洗われる?).
    ドゥルーズの「シネマ」や,そのドゥルーズの批評の対象となったベルクソンの「物質と記憶」並びに「創造的進化」を図式的に分かりやすく解説したというにとどまらず,創造的で芸術的な解説に著者は挑んでいる.クリエイティブな解説の理論を組み立てつつ.
    「はじめに」で宣告されているように,「二重の適用に代えて二重の引き継ぎをおこなう書物として「シネマ」を読む」書物が本書であるが,そこには三重の引き継ぎや差し向けがあることを読者は了解しておく必要がある.ただ見ること,ただ読むこと,ただ見て読んで書きつけ記録し解説すること,その創造的な困難を本書は引き受けている.

    (02)
    本書を読むとき,「シネマ」を読んでみたくなり,映画を見てみたくなる,できれば,素朴に読み,ただ見るというやり方で.
    「シネマ」や数々の映画は,未読や未見のひとびとにも開かれているし,私のように何も読んでいない何も見ていない読者にも,本書はあけっぴろげに開かれている.
    リュミエール,グリフィス,エイゼンシュテイン,ヒッチコック,ブレッソン,フェリーニ,レネ,ゴダールといった映画史を彩る映像作家たちの名が出てこないではない.アリストテレス,ライプニッツ,スピノザ,パスカル,カント,ヒューム,フーコー,メイヤスーといった哲学史に連ねられるだろう面々を本書のうちに眼にしないではない.
    運動イメージのうちで,情動イメージの領分とされるクロースアップの解説では,カサヴェテスのあの顔たちを想起してしまう読者も多いだろう.
    多かれ少なかれ,大きな開かれ方をした図式は,私たち読者がそれぞれに固有として持っている哲学体験や映画体験を私たちに想起させ,読者を図式へと巻き込んでしまっている.
    本書の特徴は,ベルクソンからドゥルーズへと連なる機軸は保ちつつも,図式的(*03)な方法を推し進めていく先に映し出されたイメージを,こうした巻き込みもありうべきものとして書き取ろうとした点にあると感じる.

    (03)
    面白く,すこし可笑しく,しかし素朴な読みへと読者を巻き込むのは,「整理する」「整理してみよう」「大枠を提示」「位置づけを確認」「表にしてまとめ」といった親切なガイドにも現れているように思う.それらのいわば運動イメージ的な融通を示すガイドが,図式への手がかりが与えている.
    それは,コンセプチュアルな描法(*04)と言ってもいいかもしれない.本書は著者自身の修士論文をコアとしており,論文おける作法や論法に見られる概念や図式による整理が,本書にも現われている.
    各章の冒頭には,前章をどのように引き受けているか示されているし,章末には次章への展望が見通されている.章節の終わりに対比表(生成表?)が用意されることもあるし,文中で要点が図式的に記述されていることもある.読者は,おそらく本書に読み入ることで困難を強いられ,迷い,誤ることもあると思うが,こうした要所要所の図式的な手がかりに戻り,手がかりから先読みし,困難と向かい合うことも,立体パズルのような本書を読む愉しみとなるのではないだろうか.
    図式的すぎるのではないか,これらの図式は恣意的なものではないだろうかといった批判もあるに違いない.適用主義と,読みに対する図式適用の暗示や誘導は矛盾していないのだろうか,という不安もあるかもしれない.
    本書が目指す時点や地点は(それは地平や時間でもあるのだろうか?),「眼がスクリーンになるとき」である.これが可能になる情況には,図式的すぎることでしかたどり着けないのかもしれない.演繹,仮構作用,概念の創造との連関も確認される「図式」を,いくばくかの可能性としての「整理」を,著者が読者の目の前で生成する現場としても本書は位置づけられている.そこには目撃や衝撃が確かにあると感じる.

    (04)
    オプティカルまたは光学的に,カメラではなくてスクリーンとしての眼が問題とされている.しかし工学的にはどのような問題が本書から演繹されるのだろうか.
    例えば,終盤に運動イメージにおける有機的描写に対し時間イメージにおける結晶的描写が配置される.この文学や映像における描写(descripution)と,工学的な(例えば建築のような)スケッチ,ドローイング,エスキース,パース,遠近法,製図とをどのように対比して述べることができるのか,またはできないのか.ダイアグラムや地層といった用語が工学のなかへ,フィギュールとして,またはリテラルに持ち込まれた場合,どのようなイメージとして現われるのか,何が仮構されるのかという設問や仮説は考えられてよいだろう.
    フッテージという用語は著者が本書に加味した新味であるかとも思う.足場という含意をもたされたフッテージという言葉を,建築やいま造られつつある構造物にそのまま,「文字どおり」に運び入れ,受け入れたとき,構造から発生へ,イメージから間隙へ,識別不可能性の境位ともいえるような「足場論」または仮構についての考察が組み上がるのではないだろうか.
    一方で,本書は,視覚的なもの,光学的な見えだけでなく,音声についても十分に検討している.歴史学や文学,民俗学への応用もまた愉しみな作業ではある.

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著者プロフィール

1992年生まれ。横浜国立大学博士後期課程、日本学術振興会特別研究員(DC1)。現代フランス哲学、芸術学、映像論。論文に「映像を歩かせる——佐々木友輔『土瀝青 asphalt』および「揺動メディア論」論」(『アーギュメンツ#2』、2017年)など。翻訳にアンヌ・ソヴァニャルグ「リゾームと線」(小倉拓也との共訳、『ドゥルーズ——没後20年新たなる転回』河出書房新社、2015年)。

「2018年 『眼がスクリーンになるとき』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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