増補新版 ポスト・モダンの左旋回

著者 :
  • 作品社
4.00
  • (0)
  • (3)
  • (0)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 52
感想 : 4
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784861826177

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • マルクス主義との関連を軸に、主にポストモダンやフランクフルト学派を論じる。特に日本のポストモダン需要のされ方を対比的に語り、ソ連崩壊前後の浅田彰、柄谷行人の思想の変化や、高橋哲哉や石田英敬のポストモダン左派の流れなども詳しく分析されている。柄谷ら含めたポストモダン左派が批判した二項対立への先祖返りの様相が鋭く批判されている。さらに新左翼や文化左翼を批判したプラグマティズムのローティら米哲学とどう関わるかも解説されていて読み応えがある。アメリカと日本、加藤典洋と高橋哲哉の戦後責任論争の分析など、普段は解説に徹することが多い著者の主張が見える。論集なので、引用や主張が被っているところがあるが、別の角度から提示されるのでそれほど気にならない。浅田彰『逃走論』とあわせて読むと議論が立体的になっておもしろい。
    ・現代思想の閉塞状況(からの離脱に向けて)
    日本の知識人は、知の参照項となっていた(レーニン=)マルクス主義が、1989ベルリン壁崩壊以降影響力を失ったことを受け、フーコーリオタールベンヤミンカルチュラルスタディーズに逃げた。敵がのさばっているように言いたがる左翼小児病。ポストモダンも脱構築の標的がなくなると空回りする。タブーにあえて触れることでタブーでなくす。日本は、脱構築すべきタブー、構造がなくなった。
    林道義『父性の復権』消費社会の煽りを受け若者文化に価値があると思い込み、父の権威の全面否定、上から学び取る姿勢が少なかった。全共闘は父親への反逆。父と対決ではなく、無視し通り過ぎただけ。「社会的現実を知らない」と言われる恐怖から、弱者との対話の実践的ポーズが流行した。そういう人はパターン化された話し方、やや甲高い早口の決めつけ口調で、言いたいことだけよどみなくさっと喋り文末だけ語気を強め反論しにくくする。宮台真司。現実に生きる人たちとの語り合いで、インテリの罪を贖う態度は、倒錯。プロレタリアートに代わる他者探し。小浜逸郎、自己否定は甘え。全共闘世代中島義道、対話のない社会への憤り。東浩紀郵便的不安、共通言語がなくなった結果、浅田彰的な超越論的視点を設定するのが困難になった。フォーマットがないとシラケようがない。不安はハイデガー的な形而上学的傾向。東浩紀は、どうやって言葉の力を復活するか、と言ってしまっている。父親たちと同じ。不安なのは文化消費者ではなく発信者たる東自身。不安解消に象徴を用いるのはナンセンス。ポストモダン状況下における虚構の超越論的シニフィエを求める傾向がある。しかし、不安を感じながら、ラディカルに問いを立て続ける生き方の方が健全。対話を通じて自己の拠り所の根拠を解体しては再構築するのがアーレントの人間の条件。マルクスの使用価値は、「存在が意識を規定する」と言ったこと。規定されている意識が規定する存在について語るパラドックス。大事なのは、意識と存在のねじれを意識すること。
    ・マルクスと自然の鏡
    神なき自然をいかに回復、認識するか。デカルトコギト、ベーコン知による自然支配、ルソー自然状態を離れた孤独、カントコペルニクス的転回、ヘーゲル弁証法。私と物の二項対立。ローティは西欧近代哲学のこの傾向を自然の鏡と呼ぶ。マルクスもまた、失われた自然を取り戻す疎外論の形而上学的パターン。廣松渉アルチュセールもマルクスを二項対立からは救い出せなかった。ルカーチ『社会的存在の存在論』主体的人間の実体ではなく、関係論的な社会的存在。廣松渉の社会的関係性=四肢構造論と近い。主体客体の関係は第三者=社会によって規定されている。アダムスミス自然→社会の移行として交換と分業があるというが、マルクスは自然と社会を分け、自然を所有化する労働を媒介にした。ところが社会では、商品に労働が疎外される。マルクス『経済学哲学草稿』人間は、類的存在として自然を再生産する。労働は人間の類的生活を対象化し、制作活動的に自らを創造した世界・自然の中に二重化する。自然の人間的本質は、社会的人間として、他の人間の彼に対する現存在として初めて現存する。『資本論』他の人間のうちに自己を映し出すのである。ヘーゲル『精神現象学』労働として外化した対象が、意識に対し止揚されて弁証的に歴史を自己展開させる。マルクスは、歴史を自然から疎外された人間が、対象化によって自然を再獲得する過程とした。歴史は自然史。商品としての人間の再生産。ルカーチ、マルクスは哲学史上初、経済を存在論の中心にした。貨幣は欲求と対象、生命と生活手段のほかに、他者を媒介する。貨幣が欲望を実体化する。ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』神的自然シニフィエと芸術シニフィアンが一致しなくなった喪失感がバロックの寓意アレゴリー芸術に反映されている。退落の過程として、廃墟として自然史が寓意される。自然が過ぎ去った残骸に、意味を付与しようとする作用が歴史の根源。マルクスの労働者の自然回復の願望と異なり、ベンヤミンは願望に加え、廃墟にしか突き当たらない絶望。『セントラルパーク』商品世界は廃墟。『パサージュ論』屑拾い、娼婦の周縁の生にに、資本主義的欲望の幻惑装置ファンタスマゴリーの意味作用に絡め取られない、自然の残骸を見る。アドルノ『否定の弁証法』ヘーゲルマルクス主義的な歴史観の不可能性。
    ・マルクスの学位論文における偶然の問題─柄谷行人がやり残した課題
    マルクス『デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異』通俗的にはデモクリトスが原子論で唯物論的自然哲学の完成者とされるのに対し、エピクロスは継承しつつも偶然性や逸脱、感覚の均衡としての快楽を強調したにすぎないとされる。しかしマルクスはエピクロスの原子論は客体だけでなく主体の意識も組み込まれていると評価している。これは観念論的であり、レーニンや英政治哲学者EHカーも低く評価している。アルチュセール『マルクスのために』マルクスは『ドイツイデオロギー』以前の二項対立と、『資本論』唯物論的弁証法との間に切断がある。廣松渉もむしろ法学の論文としている。小松治、偶然を自発性、苦痛から曲がって外れる快楽アタラクシアとみなし、自由、行為、自己意識を明らかにした。マルクスは自由とは言っていないので、後期マルクスの政治的活動から類推する読みである。
    柄谷行人『マルクスその可能性の中心』全体を貫くストーリーや思想ではなく、テクストを断片化し、表現を詳細に検討する脱構築的技法。マルクスは、自由や主体性を、アプリオリに前提する代わりに、自然の偏差によって強いられたものという視点をとった。デリダ、自己は声の主体ではなく、エクリチュールの連鎖の中で事後的に形成される。自己を再生産するエクリチュールから、偶然生じる逸脱によって、新たな意味が生まれる差延。柄谷行人、マルクスの人間の意識、意味は感性的な受苦性であり、自由や主体性は原因ではなく結果である。自然の偏差あるいは差異化が根底にある。柄谷は、マルクスを唯物弁証法から差異の思想家へと読み替えた。疎外論、物象化論はいずれも問題の背後の究極的原因を探るもので、マルクスの可能性を狭め抑圧する。しかし主体性を解体すると革命の意味がなくなるニヒリズムに陥る。ソ連崩壊と共に、ポストモダニストを中心に新たな主体性が求められ、柄谷はNAM消費の主体性を立ち上げる。それは明らかに主体性の有無で矛盾している。浅田彰『逃走論』柄谷行人『内省と遡行』資本のコードを破壊することは無意味。消費も資本主義に組み込まれているので、新たな主体となる根拠はない。普通のマルクス主義的な二項対立に戻したことになる。デリダ『法の力』結果が全く予想のつかないことについての決断によって、責任=応答可能性が生じる。柄谷行人『トランスクリティーク』マルクス自身が言説の自己差異化の位置に立っている。主体が記号を超えていることを証明しなければ、極めて無責任で応答可能性のない戯れ言。マルクス『エピクロス〜』抽象的個別的自己が現実化された瞬間に、普遍的なものに物質的なものとして絡め取られてしまう。他方、普遍的なものが自己意識を規定するとするとストア派的な迷信的神秘主義になる。抽象的個別性は、現存在における自由ではなく、現存在からの自由。これは、自己は、同一性と差異性の共存としてあり、自由は自己差異化によってはじめて可能になる、と読める。マルクスは、この差異化の問題から必然的に、外部の他者との関連に目を向け、社会的関係性へと向かう。NAMは関係性を破棄するというが、それでは素朴なマルクス主義に逆戻りしてしまう。
    ・世界を変革するとは?ブロッホデリダから見たテーゼ
    マルクス『フォイエルバッハテーゼ』哲学者たちは世界を様々に解釈してきただけだ、重要なのは世界を変革することである。左翼が理屈っぽい相手を切ろうとするときに使う台詞。暴力的なマルクス主義と異なる解釈を提示したエルンストブロッホ、実践とは既成理論の枠組みの変革。マルクス、フォイエルバッハは客体にこだわり、感性的な活動を含めなかった。ブロッホ、マルクスの独創性は、絶えず入れ替わる主体客体関係=労働=感性的活動の発見にある。従来の唯物論は主体客体を分けていたが、マルクスは労働によって客体に主体の感性が刻み込まれる点を強調した。認識そのものが活動である。したがって、世界の変革は、何も考えない行動ではない。過去に既にあったことの認識が知であったのに対し、マルクスは現在を分析し、プロレタリアートなど新しい概念により未来を引き出した。デリダ『マルクスの亡霊たち』ヨーロッパの存在の秩序としての古い霊に対する、来るべき未来のa-venirマルクスの新しい霊の革命。未来を迎える決断をし、無限なる責任を引き受けなければならない。それが唯一の選択肢。いわばデリダによるブロッホのポストモダン翻訳。
    ・ミニマ・モラリア
    アドルノ『ミニマ・モラリア』ナチズムに加担した哲学批判、道徳の可能性をカントの格率maximeを避けて議論する。ナチズムは自己拡大の啓蒙精神の産物。啓蒙化された主体を前提とする定言命法は成り立たない。ヘーゲルの否定性の思想を徹底することで、精神の運動への回収を拒む。個人は社会があって初めて成立する。アドルノ『啓蒙の弁証法』オデュッセウスの旅中の贈物の交換による自己形成。自然と同一化しない主体。等価性、物の秩序、主体、相互主観性。計算的理性が自然を支配しようとする自己が拡大し、啓蒙神話を作り出す。知的良心も交換価値を基礎とするの社会の産物。道徳の非道徳的な抑圧の同一化作用を、反道徳の立場によって非難する。ヘーゲル所有化は、物の多様性を捨象し、等価交換の物となる。ミニマモラリアとは、持続する所有化への反抗。序文は自ら産出したエクリチュールであるという所有権を宣言する場であるが、献辞zueignen自己のものにする、献じるの多義性から、ホルクハイマーから横領、自己の専有抑止の二重性と読める。極限が知的所有権だ。愛も人を所有化の対象として扱うが、真の愛情は、相手の好ましい独自の性格に執着するはずで、人格という全体性の偶像を所有することではない。置き換えできない一回性という意味で排他的である。
    ・ドゥルーズガタリと資本主義の運動
    浅田彰『逃走論』資本主義の一元化に機能するパラノ型人間の再生産のためのエディプス家族三角形を解体し、従来の抵抗すなわち社会主義的な闘争によるテリトリーの奪い合いではなく、気まぐれに家と家の間のメディアスペースを逃走するスキゾキッズ=ノマド。ガタリ『フェリックスガタリの思想圏』「エコゾフィーの実践と主観的都市の復興」資本主義内のノマディズムではなく、インディアンやアボリジニのような実在的ノマディズムが必要。具体的には、新しい都市づくりの際に、生活様式を変える実験を行う分子革命である。フレデリックジェイムソン、ドゥルーズガタリ『アンチオイディプス』の政治的読み、資本主義内で「労働者階級」を再生産する社会主義、金融資本としての銀行、資本主義の外部としてのマイノリティを言い当てている。ポールパットン、ドゥルーズガタリ『哲学とは何か』、哲学は資本の脱属領化と再属領化の複合的プロセスの中でユートピア機能を果たす。資本の内在平面において自己矛盾や逆説的性格を暴露し、限界づける。哲学における概念創造は、未来の形式、すなわちユートピア=新たな大地と新たな民衆を呼び求める。
    ・ポストモダンの左旋回デリダローティそして柄谷行人
    リオタール『ポストモダンの条件』二項対立でどちらに立つかという近代の議論は、結局は対立構造の中でしかない議論であるため、ポストモダンでは無効になる。多数の部族のうち、大きな物語となった西欧の科学的言説における真偽の二項対立が通用しなくなった後、不特定多数のコミュニケーションに分かれ、本来の意図通りに伝わらなくなる可能性がある批評は無意味に思える。日本では浅田彰が逃走を物語として提示する。しかしそれは個人の枠にとどまり、単に文化資本の増殖に貢献するだけで、資本の抵抗にはならない。思い込みの域に達する前に身を引くシラケつつノリ、ノリつつシラケる。その戯れをネットに見出す東浩紀の不安、バラバラになったポストモダンの臨界点。非政治的だったポストモダンが1993-94から変化を見せ、高橋哲哉が戦争の記憶や従軍慰安婦について発言、加藤典洋との間で戦後論争。高橋は、デリダの全き他者の現前性の形而上学にすぎないというレヴィナスへの批判を理解しているはずなのに、従軍慰安婦の顔をレヴィナスの他者の顔と結びつける。他者を倫理的政治的可能性として持ち上げ、恥ずべき記憶だという語り口は70年代心情左翼と変わらない。はじめに政治ありきで哲学的に意味づけている。倫理的な他者への責任からの正義を、一貫性や利益均衡を重視する法に転化できるはずはない。丸山眞男『日本の思想』無限責任の厳しい倫理が、巨大な無責任へと転落するメカニズム。あえて割り切る政治と、公正に手続きする法が必要。高橋と同様に、小森陽一、石田英敬、鵜飼哲もポストモダン左派となった。カルチュラルスタディーズは、英ニューレフトの運動で国民文化の周辺あるいは排除されている労働者、貧困者、マイノリティ、移民の文化を研究するもの。ポストコロニアル植民地の後の研究も極めて左翼政治的なもの。1999日の丸君が代法案に対し、石田英敬による象徴のポリティクスへの反対。浅田彰、東浩紀、宮台真司も左転回の中で政治的な発言をするようになった。高橋らの『脱パラサイトナショナリズム』国民国家を分節し、国家を機能主義的に捉え、グローバリゼーションに対抗するために利用する、金子勝的な新国家論に著者も共感するが、ナショナリズムを中和するのは国民の相互作用を捨象している。他者に開かれた共同体のはずのアメリカソ連が強烈なアイデンティティポリティクスを展開したはずで、ナイーヴな議論。
    デリダ『法の力』アルチュセール批判のマルクスと政治への言及を避けていたがベルリン崩壊1ヶ月前からコミットするようになった時の講義。暴力を純粋暴力と権力維持に分けることは難しく、法制定時の割切れない決断に対する無限の他者への責任、無限責任→有限責任への決断に対する責任を引き受ける。『マルクスの亡霊たち』ハムレットの亡霊、存在の秩序からはみ出る残余としての亡霊が世界を脅かす。『共産党宣言』は召喚の呪文。フランシスフクヤマの歴史の終焉を批判し、新しい亡霊召喚=革命、新しいインターナショナルを宣言する。スピヴァク、ホミバーバのポストコロニアル、ドゥルシラコーネルのフェミニズム法学、政治的な脱構築。ローティ『哲学と自然の鏡』デカルト以降の、自然を映し出す鏡としての「精神」の表象=代理representationは、哲学のための哲学=虚偽で、言語・テクストの現代思想も虚偽。文化の解明、解釈学的哲学が必要。『アメリカ未完のプロジェクト』実質何もしないマルクス主義的左翼=新左翼ではなく、公共政策や福祉教育政策を行ったリベラルな改良主義的左翼がアメリカ本来の左翼。新左翼→文化左翼(差異・アイデンティティ・承認のポリティクス)は文化的アイデンティティに還元してしまって現実政治から後退している。柄谷行人は消費者の側から資本主義に抵抗することを提唱したが、アソシエ21を古い左翼と切り捨てた。このことは自らの古さ、言説を脱構築する契機が欠けていた。デリダ、法措定、宣言の暴力性は他者を消す危険性がある。哲学者なら、ソクラテスのように熱くなってる人に苦言を呈する立場に徹すべきだ。
    ・ポストマルクス主義としてのプラグマティズム ローティの文化左翼批判をめぐって
    英語圏は元々ヒュームで終わっており、デューイ教育学、ジェームズ心理学、パース記号論など部分的に役立つだけだった。廣松渉は、小阪修平との対談でロールズ正義論を古いとしていた。廣松の共同主観性の中のイデオロギー批判から普遍的正義は見出せない。廣松は、通俗的正義に対し、自らの妥当的正義を対置して、物象化された現実に関わる実践の中で、既存価値のヒエラルキーを突き崩す。廣松にすればロールズの公正的正義は、数量的均衡と公正的配分の等価交換に基づくブルジョワ的正義の再定式化だ。ロールズは不平等を前提とする自由主義経済で全員に利益が行き渡るプラグマティックな発想。自己の利益を求める立場が形成される前の、無知のヴェールを被ったかのように、社会制度を設計する。
    ローティ『哲学に対する民主主義の優位』における、アドルノホルクハイマー『啓蒙の弁証法』のアメリカ批判、結局は「共同体には形而上学的基礎づけが必要」ということになりコミュニタリアニズムと同じになる。形而上学なしで、個人が連帯する可能性、デューイ、ロールズを引き継ぐ。(p213誤植:引用している「:」)ロールズ、道徳概念による正義は実際政治には役立たず、社会的歴史的条件の起源は、宗教改革、宗教戦争、寛容、立憲、大市場経済である。形而上学的共同体には合意による正義はないため、民主主義が哲学に先行する。制度ではなくアメリカ文化に根ざした固有の正義。伝統的な哲学のテーマには軽いノリで、道徳に真剣になることを笑い飛ばしてしまうことがよりプラグマティックで寛容でリベラル。浅田彰的。『哲学と自然の鏡』哲学は、自然を映し出す鏡として、心に正しい表象を求め無意味な堂々巡りをしてきたが、それはウィトゲンシュタイン『哲学探究』で嘲笑の的になった。言語ゲーム論、言語は文と文の結びつきとして成立しているに過ぎない。意味は社会的な文脈で理解されるとするデューイ認識論的行動主義、プラグマティズム真理観は自然の鏡の閉鎖性を打破した。ローティは、普遍性を目指して狭隘化した認識論よりも、歴史的文化的な文脈における暫定的な相互理解によってむしろ開かれる解釈学を提示した。普遍的共同体ではなく社交共同体。
    →認識論も普遍性を信じる宗教。ジャーゴンによる同一化を強要する。
    『わが国を達成する』新左翼はアメリカを帝国主義的歴史と見なしナショナリストは狂信的排外主義者としたが、新しい民主主義の実験場としてのアメリカにプライドを持つことも否定すれば左派は弱体化する。道徳的アイデンティティを右翼は保持、左翼は破壊、プラグマティズム的左翼は達成されるべきものとして改良してきた。新左翼は、経済的再配分の現実政治を見落として、語彙や論理の脱構築を目標とする文化左翼になってしまった。文化左翼は、名前にこだわるばかりで、金について語るのを好まない。(p227誤植:断絶にあると見ている「、」)
    著者としては日本左派もローティに学ぶべき。左翼間論争も神学論争。あらゆる非常識を世界の定説とする新興宗教と同じ。現行制度の解決を模索する人には市民派のレッテルを貼り、むしろ支配者の利益に貢献する。ポストモダン左派もシステムやエクリチュールなどあらゆるものを指しうる曖昧なものを相手取っても滑稽。哲学は日常的な問題について討論するための論理規則であって、現実を切るというのは時代錯誤。日本ではデューイクワインローティのプラグマティズムの系譜が認識されていない。ローティが言うように、政治と哲学の関係は文化ごとに異なるが、日本においても唯物史観の形而上学を外した上で、自由と連帯を両立させるプラグマティックな解決を考える必要がある。
    ・左翼にとっての開かれた場
    伝統的な左翼啓蒙主義者は教授会などの権威を使って権力の鏡となり、左翼嫌悪から右に走らせることになる。文化左翼の差異主義者は代弁している(と思っている)ことを理由に相手の発言を封じ、コミュニケーションの余地をなくす。本当に痛みを感じる人が微妙な差異で差別告発に邁進すると思えない。両者とも独りよがり。柄谷行人は前者、浅田彰は後者を体現している。『共産党宣言』プロレタリアートは労働者の理想像。カントの物自体のような統制的観念。ベンヤミン理論的と実在的(労働者)のプロレタリアートの乖離、フランクフルト学派プロレタリアートなき唯物史観。ポストモダンでは主体性は歴史的に構築されたものであることが暴露され、テクストの外部かのような超越論的視点の歴史的主体は不在となった。左翼啓蒙主義者は小さなタコツボへ、微妙な差異の人たちは小さい物語へ。アドルノ微視学、フーコーミクロ権力、ドゥルーズガタリ分子状無意識。柄谷行人『マルクスその可能性の中心』微妙な差異を発見したマルクス。問題なのは大きな物語の限界を感じて批判としてミクロを志向する柄谷らと異なり、大きな物語は大変で批判を受けやすいから手軽な細かい話に手を出している人が多いこと。責任回避。柄谷行人らは、突如認識を変え、大きな物語への回帰を雰囲気で行った。ポストモダンは全体化の脅威からミクロに向かったのであって、純粋暴力が権力を含むからこそミクロポリティクスが必要だった。日本では、微妙な差異主義者も、古い左翼並みかそれ以上に閉鎖空間集団をミクロな規模で確保したがる。自分達と同じような人間だけオルグする同一化の論理。相互変化の論議、運動の本質はアーレント的活動だ。
    ・言葉と物の唯物論
    通俗的唯物論では現実の物に対して言葉がそれを再現するにすぎないとするが、言葉がなければ物の区別はつかない。言葉は、時代(歴史的アプリオリ)と地域に左右されるため、物の変動を考古学的に探る試みが『言葉と物』。ルネッサンス「類似」/古典主義17c中〜18c「表」/近代19c〜。古典主義リンネビュフォン博物学、ボーゼ一般文学、ジョンローチュルゴー貨幣富分析の関連。近代キュヴィエ比較解剖学ダーウィン進化論の生物学、マルクス資本分析、ボップグリム言語学。古典主義では分類学タクシノミアが発達し、表をもとに物の関係産出する普遍数学マテシスが目指された。近代は自然を完全に記述する普遍数学の崩壊を前提に、人間に焦点があたる。マルクスは労働者としての人間により唯物史が共産主義というユートピアに向かうが、逆にフーコーは人間の有限性により歴史も終焉に向かいユートピア非在郷となる。ニーチェ的。普遍的な(普通の)人間という類型によって制度を整え、マルクス的批判も含め共犯関係で人間中心主義の歴史を成立させてきた。フーコーは、そこから異常者を排除した近代的人間を終焉させる。
    ・ドゥルーズのヒューム論の思想史的意味
    ヒュームは、バークリの物質的対象の否定を徹底して、認識する心も否定し、因果法則は習慣よってまとめられた知覚の束にすぎないとした。非生産的な懐疑としか捉えられてなかったが、主客二項対立を前提としないことから、ポストモダンによる読み直し、慣習論が合理性を前提としないことから、正義と法の政治哲学による読み直しがあった。ドゥルーズ『経験と主体性』ヒュームは、知覚から総合的判断を下す主体がどのように生成するかを示した。主体は超出と反射、二つの運動で展開・生成し、それが人間本性である。その所与の中で主体が構成される。知覚から経験の基体が析出される。『差異と反復』各瞬間の知覚を受動的に総合し、差異が取り除かれ、反復する時間の中で対象が構成される。知覚の束。カント的なアプリオリな主体における総合は能動的総合といえる。受動的総合は無意識レベルの位相。物象化した世界で自己自身を縛っている主体を、より根源的な自由へと解き放つ契機。曖昧なまま生きる自由。
    ・戦後左翼にとってのアメリカ
    2004イラク邦人人質事件の際、パウエル国務長官リスクを引き受ける反政府的な人質と政府派遣兵士両方を立てた。日本の左翼は、派遣継続に対する日本の支持を求めているパウエルの発言から、自己責任論への反論に使える部分だけ歓迎している。パウエルを引用するなら、人質の勇気を持ち上げるのではなく、人質を自己責任にしてしまうなら、自衛隊派遣賛成者にとっても若者を萎縮させるのは困るのではないか、と矛盾をつくべき。戦後からアメリカ型リーダーシップ待望論は、リベラル左派、市民派、マルクス経済学者の中でしばしばあった。フェミニズム、環境運動、消費者運動ではアメリカの主体的な市民が引き合いに出されるが、アメリカの市民運動には、中絶同性愛反対やタリバン政権への軍事介入、欧米ライフスタイルを他国へ押し付けるなど問題がある。他方日本左翼は、資本主義の権化としてのアメリカは全面否定する。二項対立思考で適切な距離が取れていない。小熊英二『民主と愛国』市民派進歩派は愛国が契機。アメリカは、文化の代わりに、憲法への忠誠と帰属意識を愛国心の素地とした。開拓における相互扶助と平等の民主主義。ローティ、ネグリハート帝国もアメリカがモデル。鶴見俊輔、小田実、丸山眞男はアメリカ型市民社会をモデルにした。マルクスレーニン新旧左翼もフォークミュージックポップアートで学生若者を動員するアメリカ型運動形態を利用した。アメリカは、愛国=世界のアメリカ化=人類の普遍的な正義だが、日本はローカルな愛国主義に留まる。戦後安全保障から自民党=親米、1945.8.15ブルジョワ革命とみなせば左翼=反米=反保守=愛国。
    加藤典洋『アメリカの影』、江藤淳の村上龍『限りなく透明に近いブルー』全面否定と田中康夫『なんとなくクリスタル』を高く評価したことの分析。『限りなく』は、米軍横田基地近くの福生市、アメリカに対しヤンキーゴーホームといっても、アメリカ的な物の見方は内面にあり分離不可能で、アメリカから解放されたいという自由もアメリカ由来。村上龍『基地の街に生まれて』自らの幼少期、アメリカ観念・思想はブツとして入って自分の一部になっている。日常に溶け込んでいる。
    保守=親米は自ら考えずにアメリカに委ねることに徹すれば矛盾しないが、反米はモデルがなく真のアメリカを引き合いに出し中途半端になる。反米反安保は、安保が揺るがない安心感でやっている。破棄したらアメリカに対抗する安全保障体制は構築できない。中立国でいけるほどアメリカを信用するならむしろ親米、直接交渉しては。米革命政権あるいは中露北韓の東アジアの集団安保も不可能。安保条約と自衛隊がなくなれば日本が安全、というのは信仰という他ない。オバマ→トランプによって日本の左右の対立軸もぶれた。
    ・加藤典洋における公共性と共同体
    加藤典洋『敗戦後論』日本300万の死者を悼み、アジア2000万の死者の哀悼謝罪。左派は汚れた自分を除外、右派は天皇に責任を追及しない。ねじれの解消。高橋哲哉『戦後責任論』汚辱の記憶を恥じ、侵略責任を忘却しないことを常に今の課題として意識し続ける、そして法政治道義的責任、謝罪や補償を実行する。加藤の反論、恥は内に秘められるべきで公共的語りになじまない、それは内に向いた共同体的語り。自国かアジアかの幻想的共同体により分裂している。『戦後的思考』自己了解、他者了解のために、つながりのない戦死者との関係を意味化する努力が必要。著者は法的に責任論として妥当に思われる。西ドイツは法的意味づけ=規定により戦後補償を実行した。しかし加藤は死者との関係の公共性を強調する一方で、自国死者は拘る共同性を引きずっている。日本国民として再統合を前提としているが、日本人とアジア人の線引きは恣意的。アーレント『全体主義の起源』全体主義につながった国民国家。加藤は全体主義的に排除する危険のある国民国家を公共性へ転化しようとしている。自国死者は哀悼ではなく、亡霊として、葬るもしくは祓うというべき。加藤なりの健全なナショナリズムを西欧的な公共性で説明しようとしてねじれてしまっている。加藤典洋『アメリカの影』江藤淳は「ヤンキーゴーホーム!」が実現不可能とわかっていて『限りなく透明に近いブルー』に苛立ちを感じる。アメリカなしでもやっていけるかのようにやってきた江藤にとってタブー。江藤は自然喪失を前提に高度成長を取ったと批判し、加藤は自然に日本のアイデンティティを見出す。超国家主義的。『戦後入門』政治的主体性確立のための憲法の選び直しが、確立した後の目的が明確でなく、観念的だったと反省している。そして9条を保持しながら、自衛隊を国連待機軍と国土防衛軍に再編し、交戦権は国連へ譲渡、国連常設軍を働きかけて基金拠出表明、国際核管理機構創設、米軍基地撤廃。戦後生まれの普通の人に合わせて、死者の問題を消去し国民や公共性共同性の政治哲学も消えた。その背景には、安倍晋三が教育基本法改正や国民投票法改正により、改憲への道を進めたことがあった。加藤はあくまでアイロニーとして選び直しを主張しているが、ご都合主義。安倍政権が加藤の転向を促した、ポストモダンの左転回のような力学。田中康夫『33年後のなんとなくクリスタル』に対し、加藤は『アメリカの影』で『なんとなくクリスタル』の淳一への由利の依存が米国に対する日本の依存「日本戦後」を重ね合わせていたが、ポストモダンの消費資本主義「戦後日本」とのズレがなく、漠然とした不安というのがない。(p320誤植:「戦後日本」というのは→「日本戦後」というのは)
    加藤は普通の人に寄り添うことを急ぎすぎている。
    ・ミルプラトーから帝国へ ネグリの権力論をめぐる思想史的背景
    国民国家が福祉政策で国民の忠誠心を高めて、海外植民地から原材料と市場利益を持ってくる、それが帝国主義。戦後はグローバル資本主義で拠点もわからなくなり、ドゥルーズガタリ-ネグリの脱属領化が進む。デリダ、de-limitation脱限界化、境界を確定することは、同時に脱構築すること。厳密に定義し切るとズレて解体される。脱属領化は、資本を限界づけ自己解体の契機を呼び込む事態。
    欲望は無意識からきていて自動で自己増殖する機械。マルクス主義でいう生産関係。『アンチオイディプス』は『資本論』と大筋で変わらない。厳密に規定すると脱構築に通ずるため全体として比喩的。エディプス三角形、母子一体に父が入り、私という人格になり、父から母を取り返せない葛藤を越えて、父の真似をして自我を形成する。父の名字nom、否non、否を超えて名字で呼ばれる自我。無意識の母体回帰願望とは逆方向に再生産される。サービス情報資本主義になると、多様化しエディプス再生産が機能しなくなる。ノマディズム化する人間が資本主義を内側から崩す。フーコー生権力、慣習に入り込んだ、普通を強制する。父に指定され欲望を与えられる自我、給料と妻子で一人前という資本主義システム、それらの自明性が揺らぐ。constitution憲法、国家体制。憲法制定による権力=構成された権力、憲法制定する権力=構成的権力。アベシェイエス、重要なのは国家体制を作り出す、構成する能力。リゾーム的ネットワークにおける、システムに組み込まれていると同時に抵抗するハイブリッドな主体によるマルティテュード。スピノザ のオランダ共和制連邦制下の資本主義における、日雇い労働者、失業者、浮浪者らの構成的権力としてのマルティテュード。国家形成以前の無規定な集団。貨幣経済の中で禁欲に生きた聖フランシスコのように、皆がそれであると金融資本が潰れるという生の喜び。
    ・後書き
    統一教会にいたことで共同体の個人抑圧は懲り懲りだ。理科一類で入ったが、哲学書を読むようになり仕事になっているのは遺産だ。生活を律することができない者に指導はできないというのは内面化していて、常識を哲学的に批判するのが精々だ。生きた言葉、各人の生活を抽象的な言語で表現するには無理がある。他者の痛み、自分で代弁している他者の痛みだけ絶対化している。言語の虚しさ、デリダパロールがエクリチュールの再現前化にすぎないというのは観念の遊戯ではない。本書は、ポストマルクス主義時代の空虚さについて考えようとしている読者に向けられたものである。1章はアソシエ1号、2〜8は情況、9は書き下ろし。
    増補新版、10〜14情況。10,11,14は性急にまとめすぎたが手直しするとこれだけで一冊になる。付き合いがあったポストモダン左派の内部批判が多く、理論と政治的態度の乖離に苛立っていた。その後リベラリズム、シュミットアーレント政治思想に広がった。文系研究者の質が下がり、ポストモダン、現代思想は陳腐になった。著者がスターになる年齢でもなくなり、ひがみ根性かもしれない。ポストモダン系のテクストは難解だが、なぜ難解になるかの背景が、古典的文学作品の良さ同様、歳を取ってわかる。トレンド、最先端は気にしないで虚心坦懐に読むと、思ったより面白い。

  • 東京を中心とする”文化的寄合所帯”から離れた独自のスタンスを保ち続ける社会思想・政治思想研究家の著者によるポストモダン思想総括。

    タイトルが表しているように、本書のメインテーマは、もともと非政治性の強かった日本のポストモダン思想家の多くが、90年代以降に急速に左派政治色を強め、”左転回”したことの理論的説明である(例えば、浅田彰と並ぶ日本のポストモダン思想家である柄谷行人によるNAM等の消費生産団体の活動や、デリダ研究者である高橋哲哉による戦争責任論などが挙げられる)。その理由として、ソ連の崩壊によるマルクス主義という”大きな物語”が崩壊したことで、もともとは”資本主義対共産主義”のような二項対立が成立しなくなった点が挙げられる。それまでそうした二項対立を批判的に捉えていたポストモダン思想にとっては、二項対立自体が成立しなくなったことにより、場当たり的に自らの政治的なポジションを明確にせざるを得なくなったことが左旋回の本質的な理由であり、その場当たり性を著者は批判的に捉えている。

    著者がその点で日本の左派が学ぶべきだと主張するのは、現代生き残った唯一のプラグマティズム思想家であるリチャード・ローティである。日本ではなぜかローティの評価が低いように感じるのは、その点にもあるのかもしれない。

  • まず一回通しで読んでみたところです。
    7最近マルクスに戻れというか戻りたいという欲をあちこちで感じて気持ちわるい。そのへんを思いつつ読んだ。

全4件中 1 - 4件を表示

著者プロフィール

哲学者、金沢大学法学類教授。
1963年、広島県呉市に生まれる。東京大学大学院総合文化研究科地域文化専攻研究博士課程修了(学術博士)。専門は、法哲学、政治思想史、ドイツ文学。難解な哲学害を分かりやすく読み解くことに定評がある。
著書に、『危機の詩学─へルダリン、存在と言語』(作品社)、『歴史と正義』(御 茶の水書房)、『今こそア ーレントを読み直す』(講談社現代新書)、『集中講義! 日本の現代思想』(N‌H‌K出版)、『ヘーゲルを越えるヘーゲル』(講談社現代新書)など多数。
訳書に、ハンナ・アーレント『完訳 カント政治哲学講義録』(明月堂書店)など多数。

「2021年 『哲学JAM[白版]』 で使われていた紹介文から引用しています。」

仲正昌樹の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×