文学としてのドラゴンクエスト 日本とドラクエの30年史 (コア新書)
- コアマガジン (2016年12月2日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (255ページ)
- / ISBN・EAN: 9784864369466
作品紹介・あらすじ
2016年に誕生30周年を迎えた『ドラゴンクエスト』シリーズ。ドラクエの作者・堀井雄二は「物語を体験する」ゲームを作り続けてきました。あるいは、あなた自身が主人公になることが出来る文学を描き続けてきたとも言えるでしょう。その試みは、実は村上春樹や、ライトノベルといった日本のすべてのポップカルチャーの進歩と密接な関係があるのです。いま、ドラクエが切り開いた新しい文学の地平への冒険が始まります。
感想・レビュー・書評
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自分はドラクエが好きだ。ナンバリングタイトルなら、オンラインゲームの10以外は全てプレイした。著者もそんな感じのドラクエ好きな人なのかもしれない。国民的な作品であるドラクエをこんな風に捉えられるのかという新鮮さがあった。
前から「ドラクエはしんみりした物語を楽しむ、小説に似ている」、「FFは最新の映像技術なんかを駆使した映画に似ている」と思っていた。そういったことがより細かく述べられていた。
「序章」に本書の目的や前提条件などが述べられている。
ドラクエを文学として捉えて、語る(評価する)というのが本書の目的とある。下記2点のようなことも言っていて、ドラクエを小説なんかと同じ舞台で文学として語るという試みのようだ。
(1)ドラクエは長期に渡って大ヒットを続けている。でも、ゲーム作品の場合は数百万本売れても、小説や映画並みに話題にはならない。当たり前に評価するのが難しい。”たかがゲーム”と言った空気がある。
(2)しかし、これだけ売れているのなら、ドラクエは日本人のものの考え方に多少なりとも影響を与えていると言って良いのではないか。作品が作られた時代の日本人の精神性が反映されていると考えても良いのではないか(実際、小説が数百万部売れたら、そういう評価をされる)。
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・本書では、ドラクエと村上春樹とを比較して語られる。堀井雄二と村上春樹は、同じ早稲田大学出身で、同じ頃に世に出た。同じ時代を生き、両者の作品には共通点が多く見られるという。
ドラクエとともに、村上春樹の作品も自分は好きだ。なので、著者の感じていることはなんとなくわかる。でも、こじつけなんじゃないかとも。逆に、同じ時代を生きた作者の作品ならそういった共通点が出るのは自然なことで、それを見出すのが作品を評価するということなんじゃないかとも。いずれにせよ、そのように捉えることができるということは、頭に留めておきたい。
・ドラクエ1が発売されたのは1986年。この頃の時代背景なんかを交えて語られる。この時代を知っている人なら、より良く理解できるのかもしれない。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
文学: 言語で表現された作品
ドラクエはテレビゲームですが、架空世界の住人と会話を交わしながらストーリーを進める、あるいは楽しむという意味では文字を介することになるので、これを文学と捉えて評価する内容。IからXまで登場しますが、これはゲーム評論ではありません。ドラクエという作品を生み出した堀井雄二とその時代背景に主にスポットを当て、ドラクエ30年史を振り返る内容です。
ロールプレイングゲームという分野の先駆けとして評価されることが多いので、ゲームではなく文学として扱っていることと、懐かしさもあって読んでみました。
堀井雄二は意外にも村上春樹と同じ大学で同期ではありませんが似たような時代を生きていて、村上春樹の小説との比較が上手く、文学として上手にまとめられていたと思います。
懐かしく思い出しながら、さっくり読みました。息抜きに良かったです。 -
「ドラゴンクエスト」シリーズに込められた制作者の意図を、堀井雄二の経歴を参照しながら考察している本です。
以前著者の『一〇年代文化論』(星海社新書)を読んだときに、ライトノベルにおいて内面を重視する近代的主体性とは別の人間像が生じていると述べられていたことについて、自然主義文学の〈主体〉でさえも制度として構築されていたという視座からサブカルチャーの歴史を振り返った大塚英志の仕事が踏まえられていないと不満を述べたのですが、本書ではそうした問題もきちんと回収されており、著者自身の立ち位置をもうすこし明瞭に知ることができたように思います。
いわゆる「ロトシリーズ」と「天空シリーズ」については、堀井が作品において「物語の主人公になる」ことをゲームによって実現しようとしていたことが論じられています。そうした解釈の是非はひとまず置いて、そのことの意味がなんなのかという点について、十分に掘り下げられていないうらみがあります。著者は、堀井と同世代の村上春樹を参照することで、文学とサブカルチャーの二つの領域でおなじ問題が現われていたことを確認して、こうした問題のもつ意味についての考察をいわば外部に放り出してしまっているのですが、ドラクエと春樹を接続する議論が若干強引さを感じてしまうことは否めず、そのために本書の議論がどこへ向かっているのかよくわからないといった気分にさせられてしまいました。 -
ドラゴンクエストシリーズを、物語性に着目して批評しています。特に、作者である堀井雄二を村上春樹と比較しながら考察しているのは面白いですね。
リアルタイムでドラクエシリーズを楽しんできた身としては、大変おもしろく読みました。技術的な側面だけではなく、時代背景とグループ?(Ⅰ~Ⅲ、Ⅳ~Ⅵ、Ⅶ~Ⅷ、Ⅸ~Ⅹ)の関係性など、たしかに、という感じですね。 -
読むとドラクエがやりたくなる。
堀井雄二というドラクエのプロデューサーの思想から、ドラクエがどのように形作られてきたのかを類推していく。呪文やキャラクター、グラフィックなどの要素についいての考察をあえて切り落として、「物語」の構造に対する考察を深めた本です。 -
関係者の証言を集めたものでなく、著者の主観によりドラクエの魅力を読み解く。
プレーヤーを主人公とする物語の面白さに主幹を置き、村上春樹との類似性や時代性と照らし合わせながら、ドラクエとは何なのかを語る。なるほどと共感させられた。 -
ファミコンで遊んでいる時は、この世界にそんな文学的な意味があるとは考えもしませんでした。
ただ、ドラクエの開発秘話等は語られていないため、ちょっと物足りなさは残ります。
ドラクエを文学的に考えると、といった内容です。 -
イマイチ。文学の何たるかを知らない立場での印象ですが、文系のこじつけを感じました。
1995年に起きた阪神淡路大震災と、同じく1995年に発売されたドラクエ6が、大地だとか混沌とした時期だったとか、無理やり符号させようとする論調は、幽霊を信じる心理とよく似ていると思います。
ドラクエ7や8が3D化したことについて、従来のシンプルさがあったから物語に集中できたのだとすると、演出が豊かになったために物語そのものはさほど凝らなくても構わなくなるかもしれない、などと簡単に破綻する文章を読ませる。実際、その後に、自分で否定する。稚拙なマッチポンプ。
「ゲームの冒頭が島から始まる」ことは堀井雄二が淡路島出身だという出自を彷彿とさせる、というようばことを書いているが、いやいや、ドラクエ1は島という発想はなかったと思いますが…。ストーリーの規模を大きくするに当たっては、島からスタートして世界を広げるというのは、島育ちでないと思いつかないものか? こじつけでしょ。
p.190で、批評家の大塚英志という人が、「ミッキーマウス的な非リアリズムで描かれたキャラクターに、リアルに傷つき、死にゆく身体を与えた」のが日本的なキャラクター表現で(正直よく分からないが)、これがドラクエにも当てはまると言う。一方、p.216では、堀井雄二が「死んだとしてもGAMEOVERになるだけ」と言ったことを受けて、これが大塚英志が言った「リアルに傷つき、死にゆく身体」がないということに近いと言う。死にゆく身体を「与えた」ことに当てはまり、死にゆく身体が「ない」ことに近い?? どうしても一貫した記述になっているとは到底思えません。
オンラインゲームとなったドラクエ10を「堀井の理想が叶った」としても、最初期からやり込んだプレイヤーには、ドラクエはオンラインではない方が良い!という意見を持つ人もいるはずです。故淡路恵子さんは、オンラインとなったドラクエ10を酷評していましたし、結果、続編のドラクエ11はオフラインに戻りました。ドラクエ10が失敗作だとは思いませんが、ドラクエらしさがないのはドラクエ10であって、筆者が言うドラクエ9ではないのだと思います。
結局最後まで読みましたが、こじつけに継ぐこじつけばかりに感じられ、こんなに論理的に通底するものがないのに、それでいてドラクエに通底するものを描こうとするのだから、無理筋だと思いました。借りて正解だった。 -
ドラクエのコンセプトは「自身が主人公」「リアルよりわかりやすさ」「物語重視」「一本道からの離脱模索」