こういう判型の大きな映画上映乗っかりムックはあまり好きじゃない。
確か「風立ちぬ」(「ビジュアルガイド」)でも「この世界の片隅に」(「公式ガイドブック」)でも、映画鑑賞後の興奮につられてペラペラな本を買ってしまったっけ。
思い返せば、上映後少ししてから刊行された本なら、いい記事が入るんじゃないかしらん。「この世界の片隅に」なら「公式アートブック」、「風立ちぬ」ならそれこそロマンアルバムとか。
んで本書は、よかった。この類のムックを見直すきっけになった。
(作品解説などは省いて)
■ねらい 宮崎駿
■大林宣彦、大林千茱萸の対談★……お湯屋は妖怪変化の溜まり場。綺麗なおばさんも三段腹だったり。ノスタルジックで古き良き日本が、今度は妖怪変化としてよみがえってくる、ここに宮崎世代からの批評がある。すべてコントロールできるアニメーションは嫉妬の対象? 表現者が自分が表現するジャンルを発見することは発明。いつまでも描き続けてしまうのでは。ここから先は不便なほうがいいという見識。昔の日本はメンテナンスの社会。トトロの幸福を、今度の映画捨ててしまった、そこにあるもと深い幸福。……ロリコン大林がロリコン駿を語る! が、いかんせん対談相手が自分の娘! これは本音言えない! そして千茱萸は「映画感想家」という、なんともびみょーな人。さらにその夫は森泉岳土!
■立花隆インタビュー……本作には不満足。結構素朴でまっとうな「わかりづらさ」への反応。
■養老孟司インタビュー
■山田洋次、高山由紀子の対談
■岩井俊二インタビュー★……宮崎アニメを見ると言葉って空しいものだと思わされる。勝新太郎との共通点。……ここでもまたロリコンへのオファー! 作り手わかってる。攻めてる。
■杉井ギサブローインタビュー★……ディズニーのアニメーションはとにかく動き。手塚治虫はアトムを、これはアニメーションではなくてアニメ、動きの魅力ではなくストーリーや内容に重点を置くんだ、と(リミテッド)。物語で子供をひきつける、その段階でアニメーションは捨てている。駿はアニメーションのほう。……もどかしい! なぜ「銀河鉄道の夜」がインスパイア元であることに言及しないんだ!
■おかだえみこの評論
■安藤雅司、高坂希太郎、賀川愛の作画監督談義★……瞳の下が実線でつながっている眼を作ったが、駿が修正すると眼の線が下チョンになる。維持するのに苦労。千尋のぼろぼろ涙は、でも、笑っちゃわない? あそこ。いなかっぺ大将みたいで。千尋がボイラー室に入ってからお尻や足や肩をうねくね、おっかなびっくり、体をくの字に曲げて。そこは原画の大平晋也。ハクとの飛行シーン、私は飛行している感じはあまりしなかった。ハクはもとは龍だった?人だった? ラストのトンネルで高坂「また光の中ですかぁ。前にもありましたね」じゃあやめよう。
■作画&演出技術考……叶精二が、安藤雅司、田中敦子、松瀬勝、奥井敦、片塰満則にインタビュー。……引用はしないが、場面ごとの分析が丹念。
■樋口真嗣の寄稿
■内藤誠の寄稿
■井坂聡の寄稿
■沖浦啓之、西尾鉄也、井上俊之の対談★……作画監督の安藤雅司が「人狼」を意識。「背景動画」は駿が昔からやりたかったこと。水、煙、草原、車のウインドウ、などは古臭い。いちど発明した表現を踏襲しているから。テレビアニメなら仕方ないが、長編アニメはある程度時間があるからいったん原点に戻るのもあり。宮崎さんがいいと信じて来た表現が、本当にこのままでいいか。作画監督とはいえ、分かりましたというふりをして、でも俺はこれでいくというくらいのしたたかさ。駿は原画チェックに手を出す。押井守はしないが、最初にあらゆる恫喝めいたことを言う。高畑勲は演出家と原画マンとのディスカッション。……押井守文脈でよく見る名前。安藤雅司が共感している作り手だけあって、かなり駿を旧弊とこきおろす。こういう対談が載っているので、このムックはいいな。
■鈴木敏夫、石川光久の対談★……宮さんは絵コンテ、レイアウト、原画チェックすべてやって監督と思っている。押井守もテレビ時代はしていたのに、やめた。そのとき押井守は作家になったと思った。「天使のたまご」は押井守のもくろみがどんどん崩れていった作品。天野喜孝への依頼ももっとギャグに寄せていたはずだし、美術監督の小林七郎がレイアウトチェックまでして、作画監督の名倉靖博が、勝手にあそこまで髪の毛を描いてしまった。押井守は追認するしかなくなった。ジブリにとっては過渡期なのではないか、つまり安藤と宮崎の才能の駆け引きがあったのでは。演出は宮崎、演技は安藤。駿が体力的に難しくなる、体力はあるが知恵のない若者が来る、その共同作業がうまくいけばいい。不思議なのは押井守が若いうちからそういう立場になってしまったこと。本当は原画チェックに至るまでの作品をやってほしい。プロデューサーの権限は認められづらい。自分はクレジットにひとりと決めた。
◆駿語録……1.僕はこれまでこうあってほしい主人公を作ってきた(こうありたかった自分を)。そこから、そうなんだよなあと彼女たち(ガールフレンド)が共感できる主人公に。成長ではなく、彼女たちがもともと自分の中に持っていた力がある状況であふれてくる。2.公開初日舞台挨拶。「おわり」のバック、本当は黒地にしおようとしていたが、編集の人に「水に流れていく靴の絵が欲しい」と言われた(……これ、嘘じゃないか? 「彼女」だけにわかるメッセージを込めた、言い訳じゃないか?)
本書を読んで一番の収穫は、安藤雅司という作画監督の影響力の大きさ。というか、駿VS安藤の火花こそが、本作に、ある意味ジブリなのにジブリじゃない感じ、「もののけ姫」で行き切ったジブリのその先を見せる期待感、を与えたんじゃなかろうか。
単純にいえば「眼」。
初見の際も、それから20年を経た再鑑賞の際も、千尋の見た目や雰囲気は、ナウシカやキキやフィオやサンやと全然違うなーと思っていた。そりゃ年齢が違う。しかしラナもサツキも、大いに違う。2歳ほどしか離れていないにも関わらず。この本を読んではっきりとわかった、それは瞳の下を実線で繋げていることだ!(駿の修正だと眼の線が下チョンになる。維持するのに苦労したと安藤。)
その他、駿礼賛と、アンチ駿の意見が交錯する。
この本自体が、テーゼとアンチテーゼの応酬になっているので、この映画の現場におけるテーゼとアンチテーゼのせめぎ合いでジンテーゼたる作品が生まれた経緯を、想像できる。
「ジブリの教科書」でもwikipediaでも駿VS安藤には言及されていたが、安藤による「眼の描き方」の証言を読むことができて、よかった。「ジブリの教科書」において彼は、何かをすることを通じて、かわいく描かなくても、かわいく見えてくる、と言っている。これぞまさに。
また思い返すに、「耳をすませば」の現場でも、雫を元気いっぱいな少女として描きたい駿と、「何かあったときにいったん立ち止まって考えるタイプの娘だ」と考える監督近藤喜文のバチバチがあった、とのこと。この対立が、どちらかがどちらかをねじふせられなかったことが、結果的に深みを作り出していたということ。
「耳をすませば」ではキャラクターの個性の把握の仕方だが、本作では個性含む演出と演技の仕方だ。
駿監督だからとはいえ駿ひとりで作り上げたわけではない、ワンマンとはいえチームではなければできなかった作品だということがわかると、面白い。以前よりも面白く感じる。
安藤雅司。嬉しいことに広島出身。1969生まれ、1991からジブリでキャリアを始め、1997、25歳で「もののけ姫」で作画監督、2001「千と千尋」で退社してからは、錚々たる。そして2020原作上橋菜穂子「鹿の王」で宮地昌幸と共同監督を勤める、とか。これほど早熟の人でも、監督に成るには20年かかるとか。……思えば駿も初監督は37歳か。……いやーなかなか過酷な業界だなー。