他者と死者: ラカンによるレヴィナス

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  • 海鳥社
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  • Amazon.co.jp ・本 (280ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784874154984

作品紹介・あらすじ

同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要だ。ラカンの精神分析理論を手掛かりに、レヴィナスの「他者」論を読み解く。さらなる謎へと誘う美しい思考のアクロバシー。

感想・レビュー・書評

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  • 2014年の読書メモより 

     内田先生の本を読むのは、これで二冊目。一冊目に読んだのは、『女は何を欲望するか』。二冊読んだ程度で、内田先生がいわんとしていることを理解できたとは思えないが、先生の書く本は役立つ。というのも、それらを読むことで、複雑な構造体を(内田式にならって)整理して把握することができるからである。それは、あくまで内田式なわけで、鵜呑みにするのはマズイ。けれど、良き導き手は、導き手自身が据えたゴール以上の場所に読者を運ぶ。良きコーチにバットのスイングの指導を受けてはじめて、自分のめざすスイングがみえるように。内田氏は、その良き導き手である。

     内田式にならうと、自分自身が過去に経験した挫折が、なぜ挫折という形におわってしまったのかがわかる。「~とはなにか」という問いから前進すること、これは非常に難しい企てである。わたしは、これまで何度も、「~とはなにか」という問いから一歩外へ踏み出そうと試みてきた。けれど、いつも踏み出せ終い。この失敗の原因を内田式に照会すると、「~とはなにか」という問い以外に、わたしが世界を理解する糸口をもたないのは、わたし自身が「存在論の帝国」 において問いを発しているから、ということになる。

     内田先生によれば、「存在論の帝国」には外部がない。なぜなら、ある/ないという二元性そのものが存在論だからである 。日本語だとわかりづらいが、「~とはなにか(Qu’est-ce que c’est ~?)」という問いは、「存在する(être)」という助動詞が使われている。問うているはずの「なにか」が、存在することをあてにして、「~とはなにか」と問うている。これでは、譫言のように同じ問いを繰り返すばかりで、わたしはいっこうに「なにか」へ近づくことができない。

     内田先生は、この永劫回帰の議論に、ラカンとレヴィナスを登場させる。レヴィナスは、そう問うている「わたし」の存在をなぜ素朴に信じられるのか、と疑問を呈する。ラカンとレヴィナスの著作が難解であることは有名だが、なぜ彼らがよくわからないように書くのかを問題にする人は多くない。内田先生は、彼らのテクストのわかりえなさに共通点を見出す。

     先生の分析によれば、ラカンもレヴィナスも、わざとわからないように書いている。ラカンの著書『エクリ』は、次のような文章からはじまる。

     「われわれはこれまでの研究によって、反復脅迫(Wiederholungswang)はわれわれが以前に記号表現(シニフィアン)の連鎖の自己主張(l’insistance)と名づけ
    られたものの中に根拠をおいているのを知りました。」

     「これまでの研究」とは、いったいなんのことなのか?書いているラカン自身は当然了解しているだろうが、熱狂的なラカニアンでもないかぎり、われわれ読者は知るはずもない。ラカンのはじめての論文集の第一文として、あまりに不親切だ。われわれ読者は、「それであなたはなにがいいたいのか?」とラカンに問わずにはいられない。

     内田先生は、まさにこの点―『エクリ』の冒頭文を読んだ者が、「それであなたはなにがいいたいのか?」と問わずにはいられなくなること―がラカンのねらいであると指摘する。

     さて、ラカンはなにを意図しているのか。つづきは本編にてぜひ。(と格好良くフェードアウトしてみましたが、つづきを書く体力がなくなりました。2017年も書き足せず。記憶も薄くなってきたので、2018年は再読したいです。悪しからず。)

  • 読むのは二回目。うーん、ようやく落とし込まれてきた、という感じです。他者への無根拠な有責性は、リアルな医療現場でとてもアプライ可能な感覚です。この感覚は実際に持ってみないと他人にことばで教えられても上手くいきません。自分で主体的に見つけなきゃいかんという話です。

  • あの人が言ってた、あの本に書いてた言葉の意味がやっとわかったというあるある現象についての考察
    p40
    偉大なテクストが偉大であるのは、テクストに導かれて事実や経験に出会い、その事実や経験がテクストの真相を逆に照らし出すという相互作用のゆえではないだろうか。

    つまり、私達の経験には先立ってテキストがあり、
    経験の後にも色褪せないテキスト、むしろ経験が従属するほどの深みがあるテキストが偉大なテクストであるということだ。

  • 他者と死者―ラカンによるレヴィナス

  • 複雑。時代、ひと、よく、かみしめます。

  • レヴィナス「知とは本質的に存在の手前に存在する一つの仕方である。それは出来事にかかわりあわないという権能を保持しながら、出来事に接近してゆく一つの様式である。主体とは無限後退の権能、つまり私たちに到来するものの背後に絶えず回り込む権能のことなのだ。」p98

    「私は他我を同時に、この世界に対する主観として経験する。すなわちわたしは他我を、この世界、つまりわたし自身が経験するのと同一のこの世界を経験し、そのさいわたしをも、すなわち世界を経験しその世界の中において他我を経験するものとしてのわたしをも経験するものとして、経験する」フッサール『デカルト的省察』p102

    主観性とはそのつどすでに間主観性である。だから、間主観性が成り立つときには、他我が事実的に存在する必要さえないのである。フッサールの卓抜な比喩を借りるならば、世界の中の人間がペストで死滅して、私一人が残されても、それのよってもなお「世界が存在する」という私の確信は揺らぐことがない。p104

    フッサールが「現象学的判断停止(エポケー)」と名づけた操作は、平たく言えば無意味に耐えることである。それは、既知に還元しえないような対象をじっと見つめ、なぜその対象は既知に還元しえないんのか...といった種類の問いを受け止めることである。フッサールは「エポケー」の原理的な前提を次のように示す。
    「世界は不断に普遍的な感性的経験の明証の中でわれわれの眼前に与えられているが、しかしその感性的経験を、直ちに、必当然的明証として要求できないことは、明白である」p126

    レヴィナス「『あなた』の顔が『私』をみつめている間も、『無限』はつねに『第三者』すなわち『彼』としてとどまっている。『無限』は『私』に影響を及ぼすけれど、『私』は『無限』を支配することができないし、『無限』の法外さを『ロゴス』の起源を通じて『引き受ける』こともできない。『無限』はそのようにして『私』に無起源的に影響を及ぼし、『私』のいかなる自由にも先行する絶対的受動性において、痕跡としてみずからを刻印し、この影響が励起する『他者に対する有責性』として顕現するのである
    かかる有責性の窮極の意味は、『私』を『自己』の絶対的受動性において、『他なるもの』の身代わりとなり、『他なるもの』の人質となるという事実そのものとして、また、この身代わりを通じて、単に別の仕方で存在するのではなく、『存在する努力』から解き放たれた、存在するとは別の仕方として思考することのうちに存する」Cf. 『存在するとは別の仕方で』p186

    「幸福とはおのれの欲求を自足することであって、欲求を消滅させることではない。幸福は欲求が「満たされないこと」によって満たされるのである」p208

    私がその場所を簒奪したことによって、「ここ」から闇へと追放され、光の中から退去したもの、そして、そのようにして私に「場所を譲った」ことによって、私のうちに癒しがたい有責感を残し、その有責感を介して私の自己同一性と善性を基礎づけたもの、それをレヴィナスは「他者」と名づけた。p261

    驚くべきことだが、レヴィナスにおいて、倫理を最終的に基礎づけるのは、私に命令を下す神ではなく、神の命令を「外傷的な仕方」で聴き取ってしまった私自身なのである。p265

  • ことさら読ませる本でもなかった。なんというか。

  • 出版される本の数こそ多いものの、今の日本で読んでみたいと思わせる物書きはそう多くはない。その中で内田樹にはいつも惹きつけられる。それほど関心のないこと(今回はレヴィナスとラカン)について書かれていても、内田が書くならきっと面白いだろうと思わせられる。それは、内田の思考法が明晰で、説得力に富む話法を持っているからだ。

    内田はレヴィナスの「自称弟子」である。当然レヴィナスについての言及も多い。その弟子にしてからが、レヴィナスの書くものはよく分からない、と言う。そのよく分からないものを、難解を持って極まるラカンを引用例証することで読み解いていこうというのが今回の内田の目論見である。一つでは分からなくても分からないものが二つ並べば見えてくるものもある、と言われれば、そんなものかと思わされる。内田の術中にはまったも同然だ。

    文明の先進国と思われていたヨーロッパで大虐殺が起きた。ホロコースト以後の西欧知識人は世界の在り方について我々が自明だと思い込んでいる思考法そのものを疑ってかかることから始めなければ、何も語ることができないところに追い込まれていた。レヴィナスもラカンもわざと「分かりにくく書くこと」を通して、単に「理解される」ことを拒否している。彼らが難解な語法で語るのは、自分の足をどこに置き、誰の目で世界や自分を見、誰の言葉で世界を語るのかについて、読者に再検討を迫っているのだ。

    私が死んだ後でも「世界」は存在している。それは、人間は先験的に共同体の構成員として存在しているからである。フッサールが先験的相互主観性と言い、ハイデガーが「共存性」と名づけ、レヴィナスによれば「同一性」と呼ばれるのは皆一つの存在の様態を意味している。そして、その「世界」の中にはホロコーストの犠牲者も含まれている。つまり、死者は死者として「世界」に存在している。それが存在論の語法というものである。

    9.11以後の世界を見れば明らかなように、「死者たち」は生き残った人々によって「死者として生きること」を余儀なくされている。「死者の遺言執行人」として、アフガニスタンやイラクを爆撃するアメリカをはじめとする諸国も、そのアメリカや他の同盟国に対してテロという行為で報復するイラクをはじめアラブ、イスラム諸国の人々も、同じ大義を掲げているのだ。レヴィナスがしようとしているのは、存在論の語法を打ち切り、「死者をして死なしめる」ことである。

    レヴィナスはユダヤ人である。家族は殺されたがフランス軍籍を持つ自分は免れた。そこに私が生き残るために彼らを死に追いやったという自責の念が生じる。私は「死者」の身代わりとして在るのだ。普通、人は死すべき存在であることを忘れて生きている。しかし、皮肉なことに人間が善く生きたいと願うのは死を意識したときだ。レヴィナスは「死者」を「同一性」の中に繰り込むのではなく、「他者」として弔うことで、その身代わりとして「善性」への動機づけを見出したのだ。

    今、レヴィナスがあらためて注目を集めているという。世界は「存在論の語法」で語ることを止めず、死者はたびたび召還され、終わりのない暴力の連鎖を生み続ける根拠にされてしまっている。こんな時代だからこそレヴィナスのひそかな声に耳を傾けたくなるのかもしれない。レヴィナスの言葉はラカンのそれと同じく、理解しやすいものではない。「彼らの書物を読む経験は、むしろ私たちを一時的に混沌のうちに導く。しかしその自失や幻惑を経験させることこそが、それらの書物の真に教育的な力なのである」と内田は書いている。

    内田の書くものに難点があるとすれば、そこだ。ハイデガーやフッサール、フロイト、ブランショ、カミュと錚々たる顔ぶれを巧みに引用し、自家薬籠中のものである映画の比喩も駆使して書かれたテクストを読むことによって、読者は、なんだかとてもよく分かったような気がしてしまうのである。手応えのある「愉しさ」を感じさせる書物である。

  •  偉大な書物が偉大であるのは、それが私たちに潤沢な学術的情報を提供し、私たちを知的に富裕化してくれるからではない。そうではなくて、彼らの書物を読む経験はむしろ私たちを一時的に混沌のうちに導く。しかし、その自失や目眩を経験させることこそが、それらの書物の真に教育的な力なのである。

     実際分析家は、無知である症状を、自らの知に受け入れることにおいてしかこの道に入ることはできない。無知をあらわにして見せる積極的なみのりは、無=知であり、これは知の否定ではなくて、もっと磨き上げられた知の形態である。分析家をこころざす人の教育は、この無=知へと導く師あるいは師たちの行為がなかったら成し遂げられないものである。それがなければこの人は、分析家というロボットにしかなり得ない。P55

     「何時何分、経緯何度、しかじかの物を確認す」とだけ航海日記に書き記すことができる。「それが何を意味するのか分からないものが、ある」ということを受け入れられるのは人間の知性だけである。それことが機会と人間の差なのだとラカンはいう。P124

     パラシオスの例が明らかにしていることは、人間を騙そうとするなら、示されるべきものは覆いとしての絵画、つまりその向こう側をみさせるような何かでなければならない。ということです。
    「絵は見せかけあり、この見せかけこそが見せかけを見せかけたらしめている当のもの」なのである。
     
    「そこに現れないものを現す」ためにいちばん簡単で効率的な方法は「隠す」こと、「それが意味することの取り消しを求めるシニフィアン」となることなのである。

     ラカンの重要な分析的知見の一つは、「それが意味するものの取り消しを求めるシニフィアン」の発揮する魅惑に人間は決して抵抗することができないというものである。


     師が師として機能するためには、実際に強記博覧である必要もないし、弟子に敬意を強要する必要もない。そうではなくて、「わが師は大洋的叡智の持ち主であり、私の学知などそれに比すべくもない」と哀しげに「それが意味するものを取り消す」だけでよいのである。その取消の身ぶりによって、彼はその弟子の欲望を点火することになる。師は執拗に、おのれの師に引き比べたときのおのれの無知無能を言い立てなければならない。この執拗さが師であるための必須の要件の一つなのである。p139

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著者プロフィール

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。神戸女学院大学を2011年3月に退官、同大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。著書に、『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』『街場の戦争論』『日本習合論』(以上、ミシマ社)、『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』など多数。現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。

「2023年 『日本宗教のクセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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