- Amazon.co.jp ・本 (416ページ)
- / ISBN・EAN: 9784875025283
作品紹介・あらすじ
「それだけでは自律的存在とは言えない断片的で不完全なもの」を暗示する「部分」と
「それ自体完全でそれ以上説明を要さないもの」とされる「全体」。
生物、社会、あるいは宇宙全体において、絶対的な「部分」や「全体」はまったく存在しない。
有機体は部分と全体の両面をもつ「ホロン」からなる多層システムなのである。
「ホロン」の創造性の鍵は、「部分」としての自己規制と「全体」としての自律性のダイナミクスにある。
感想・レビュー・書評
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本書はアーサー・ケストラー思想の集大成かつ遺作でもあります。ケストラーが提唱したホロン(全体子)という概念、改めて本書で理解が深まりました。あらゆるものが全体でもあり部分でもある、これは分子や原子、素粒子など細かくしていっても無限に続くし、逆に人間、社会、地球・・・と大きくなっていっても無限に続いていくというわけです。
部分としての側面は「自己主張」(あるいは自己保存)をあらわし、全体としての側面は「自己超越」(あるいは統合)をあらわしている。これを人間にあてはめると、実は戦争や虐殺などの恐ろしい事象は「自己主張」ではなく「自己超越」が引き起こしたものであって、これは国家への無条件の忠誠などが例になります。言い換えると、人間は部分と全体のバランスが「全体」に偏り過ぎることがある、それによって生存本能以外の理由で(例えばイデオロギーに忠誠を尽くすために)同族を殺戮するという、他の生き物ではありえない行動をとる可能性があるのです。言い換えれば、人間は極度な気候変動のような外部環境変化に関係なく、自ら種を絶滅させる可能性を秘めているということになります。そういえば、ハンナ・アーレントも、アイヒマン裁判を通じて思考停止が生み出す「凡庸な悪」の存在を看破しましたが、まさに同じ危険性を指摘しているのだと思います。
しかし全体(自己超越)という側面が悪なのではなく、全体と部分のバランスがとれないことが問題なのです。つまり人間が部分的な生き方しかできないのであれば(社会的な行動がとれないのであれば)、人類はとっくに絶滅していたでしょう。さらにいえば、ケストラーも本書で述べているように、見えない何か、科学では説明できない宇宙の真理(超全体)とのつがなりを感じるといった宗教体験は、極めて重要だからです。
本書で興味深かったのが、全体(自己超越、統合)は創造活動の源泉でもあるという点です。本のオビにも「人間のおぞましさ&創造性」とありましたが、まさにホロンの「全体」的な側面に明かりを当てた表現と言えるでしょう。科学的な新発見は、これまで別々だった点と点がつながること、つまり統合から生まれるわけです。さらにケストラーは論を進め、科学(サイエンス)とユーモア(お笑い)と芸術(アート)は3幅の絵のようなものだと言います。サイエンスとアートは啓蒙の時期を経て「不当に分断され」ましたが、本来は似た者同士であるわけです。しかもユーモアも同族だという点が興味深かったのですが、ケストラーいわく、典型的なユーモアを紐解くと、全く異なる2つの事象を「バイソシエーション(これもケストラーの造語だそうです)」という形で統合する中で笑いが生まれるというわけです。確かに日本の漫才を思い浮かべても、ボケとツッコミが同じテーマで話しているかと思わせて、実は全然違うテーマが交錯していた、というところでドカッと笑いが生まれるわけで、確かに「バイソシエーション」というキーワードが当てはまる気がしました。
その他、本書ではダーウィンの進化論に対するラマルクの獲得形質論の対立など、かなり盛沢山なテーマが記載されていますが、その分野に詳しくなくてもわかりやすいよう記述されていると思います。訳も大変読みやすく満足しています。ケストラー思想、もっと世界的に広まるべきと改めて感じました。詳細をみるコメント0件をすべて表示