“異”なるものと出遭う: 揺らぎと境界の心理臨床学 (プリミエ・コレクション 54)

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  • 京都大学学術出版会
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  • Amazon.co.jp ・本 (229ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784876983681

作品紹介・あらすじ

突然日常とは違う世界が開けたり「わたし」という感覚が揺らいだりするような何かに出くわしたとき、わたしたちはどう振る舞うのか、あるいは振る舞うことを強いられるのか。心理臨床事例や学生を対象とした調査、あるいは芸術家へのインタビューから「異者体験」を読み解く。

感想・レビュー・書評

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  • 臨床が、人の死に立ち会うという意味であることから、新たな形への変遷を見守ることということに解釈し直すというのは、とても示唆的な考え方だった

    以下引用

    我々はつい自分たちが生きている世界が、わかっているものから成り立っているかのように感じてしまう。しかしほんとは、その可知の領域を一歩踏み出せば、あるいはその可知の領域のすぐ足元にもわからない何かが潜む世界が広がってる

    異人とは、われわれ、こちら、内部に対する、彼ら、あちら、外部に属するものであり、それゆえに不気味で恐ろしく、得体のしれない存在として捉えられるもの

    異人たちは集落の外の世界から予期せず訪れる理解不能な存在であるため、忌避や侮蔑の対象とされるが、実はもう一方で富や知恵、幸福を授けるものとしても語られる


    我々とは異なるものとして体験される、異者とは、わたしという個人にとっての異者であり同じものや出来事が他の人から見て同じように異者の体験たるかというと、必ずしもそうではない。

    不気味なものの体験とは、抑圧された幼児期コンプレックス、あるいは克服されたアニミズム的思考が活性化することで、生じるもの

    異人や異界という異なるものと接触することによって、体験者に何かしらの変化がもたらされるというもの。

    セラピストは、面接室という異界の住人。その異人との相互浸透のやりとりを通して、クライエントは自らの内なる異界との相互浸透を果たしえたと事例を解釈している

    ★異界という概念は、空間性、時間性、精神性、身体性、物語性を備えた包括的、全体的な概念であるとし、無意識という概念は、その中でも精神性の部分がとりだされ分化した領域


    ★異者とは我々が意図して体験できるものでなく、突如出来わすものであり、絶対的な定義を拒否する個別的な体験において、生じてくる私性を帯びたものだと考えられてきた。これが、我々があらかじめその体験を実体として語ることのできないものであり、体験して初めてそれが何だったのかということを語ることのできるものであるということを意味する。


    心理療法において、症状、イメージ、夢を扱う際に、いかにクライエントの主観的世界や心的現実を問題にしていても、人間主体の自己実現という視点でとらえる限り、それは狭い意味での人間中心主義から抜け出せていない

    創造の本性は、いまだ明らかになっていない未知の事柄であり、創造の契機を異者との出遭いという観点から検討することができる

    ★折口は、この異人の概念をまれびととして語っている。その最初の定義は神であったらしい、時を定めて来たり望む神である。

    内集団の私的コードから漏れた、あるいは排斥された諸要素である否定的アイデンティティを具現している他者こそが、その社会秩序にとっての異人である。異人はだから、存在的に異質かつ奇異なものである。内部に対する外部の存在であり、内部にある性質の否定、あるいは排除という側面から浮かび上がる異人の姿。このような異人が、自己の否定から規定される。

    病を抱えることにとって、これまでのルールや当たり前だと思っていたことが一気に崩される。そして、なぜわたしがその病にかからなければならないかと自分のつながりについて否応なく考えさせられる

    患者のもつ症状には、意味があるととらえ、積極的にそれを読み解こうとした、病に意味があるという考え方は自分との深いかかわりの源を病の中に見ているという点で、それはすでに他者ではなく、自分自身との同一性を持つということを示している

    ユング:神経症は決して単なるネガティブなものではなく、何かしらポジティブなものでもある。神経症が虫歯のように引っこ抜かれてしまったら、彼は何も得ることがないばかりか、彼にとってまさに本質的なものを失ってしまうだろう。

    症状は解消すべき否定的なものではなく、自分にとって新たな可能性や自分のまだ知らない本質が含まれる。

    傷を負っているという聖痕が聖なるもののしるしであるように、心理的な問題や症状を持っているということこそが、聖なるしるしであり、超越とのかかわりを示しているとし、症状とは、超越を求めての希求なのであり、超越へのいざないなのである。


    苦しは他者への通路ともなる。苦を通じて人は私でないものへと接点を持つ。それは同時に私の中の私でないものに接触することでもあり、象徴の変容が生じる契機ともなる

    病を抱えることで、現実的な意味でも、心理的な意味においても、日常性からの逸脱を余儀なくそのことで、される。生活の様式が否応なく変化したり、これまで当たり前と思っていたようなことが突き崩されるというような価値観の変化が引き起こされるために、これまで生活していた世界とは異なる世界の中に身を置かなければならなくなる。つまり、病を抱えるということは、自分を超える、超越の体験との結びつきを深くするのである

    ★病みとは、人間の存在を超える暗くて大きな一種の闇である。闇とは行き止まりや、終わりなのではなく、未知の世界への入り口であり、どこかへ通じる場所

    病はこちら側の意図を超えて抱えさせられるが、そういった性質があるからこそ、超越へと通じていく

    きょうかさんは、医療機関に行き、診断名をつけてもらうことを望んだ、わけのわからない症状に対して外から名前を与えてもらい形にすることで、なんとか病を完全に自分とは違うものとして捉えようとする試みだった。しかし、実際にはキョウカさんに降りかかる得体のしれない症状に、キョウカさんが納得する形で名前を与えてもらうことはできなかった。

    病自体では、まだ死んでいないということかな。それが、

    その病は、名前をつけられることで、自らにかかわりのないものとして完結してしまうのではなく、自分とは切り離せない意味合いを持つものとして、意識的ではなくても、捉えられた

    出来事は自分自身で意味を見つけださなければならない。関わり続けなければならないということを意味する
    ものだった。診断という外から与えられた形によって症状を他者として扱うことができないということ自体が、逆に自身が病いそのものに向かい合い、病の中に入ってゆくことの契機になっていった

    民話や異界論においても、境界を越えて、異界に足を踏みいれるということは、帰ってきたときには豊穣性や富を手にれることが可能になるが、失敗すれば、異界からでてこられない=死を意味することになる


    キョウカさん自身の自己の視点の喪失であり、さらにいえば、わたしと外界との境界の消失、つまり死を意味しているのではないだろうか、何ものかに迫られるという外側の要因と、自ら確かめなくてはという内的な要因の、いわば他者性と同一性のはたらきの中で、飛び出した後、わたしという主体が失われたが、それは外の世界へと融解した、いわば死の体験だった

    これまでの境界の弱さから生じていたと思われる他者とのかかわりも、自分自身の感覚とともにその在り方が実感されている

    内面をしっかり固める作業をして、そこから外とかかわりをもつおいう近代意識の在り方ではなく、全部消失することで、新たな内も外も生じてくる、いわば境界線が中心となって生起するようなものとして考えられる

    自分の内側に症状の意味を見出すことになったが、それは自分の外にあると思っていた病が、自分自身と深くかかわるものであるという気づきにつながったからであろう。ここでは、いったん世界が融解し、象徴的な死を体験したあとに、新たな内部と外部の境界が生じてきている

    外側から名付けられないということに直面し、病の中に入っていく契機を得た。そのことで、外に飛び出すということが生じ、自らの内側に病の意味を見出すという動きが起こってくる。これは、病をなんとかとらえようとすることからいったん解き放たれ、自分自身とのつながりを感じ、さらには病から自らが指示されるようなものとして変化していったというようにもいえる

    夢分析において、自分の意識を超えた何かが存在すると感じたときに、変容が起こり、そうした何か超越的なものに対するセンスを持った後は、すべてのものごとを意識を中心とした味方ではなく、深い観点方見ることができるようになる

    超越にさしして、世界を超えるということのみならず、こえでた先で、その異世界の存在と出遭い、それにより多大な変化や変容を被ることになる

    ☆病を抱えることで、そこにはすでに超越への胎動がみられる

    病を抱えた状態は、通常の状態が損なわれている、何かが欠如している状態。しかし病が超越との出会いへと導くものであるなら、それは我々をこえる大きな力を持つと考えられる

    心理療法における超越性は。私の中の私ならざるものの私を、超える大きな働きや存在として論じるが、その超越性にには。狭量な自我を教え導き、深い知恵を授ける肯定的な働きだけでなく。現実的な自我を圧倒し、破壊し、逃亡させるほどのすさまじい暴虐なちからの働きも潜んでいる。

    ★病を抱えるクライエントを前に、心理臨床家がおこなうのが、病いを取り除こうとすることではなく、病に意味を与えて手中に収めようとすることもない。クライエントの病の持つダイナミクスを止めることなく、それがもたらす超越と変容の道へクライエントが進むことを支えていくことが大事

    主体の中の同化できないものという形で、主体に一見偶発的なものとして現れる外傷として説明される。これはデュケーが、それが体験されるその時点において、我々の意図や我々自身を超えるものとして出遭わされるということを意味している。

    異者との出遭いの体験や性質、表象は個別的で、それを体験した者との関係において現れてくるものであるが、それがキョウカさんの夢に突然やってきた何かのように、体験者の意図やコントロールを超えて訪れるものである。ラカンは、それを触れらないもの、出会えないものとして語るが、異者との出遭いとはそこに引き起こされる「体験」にフォーカスしていくためのひとつの視点


    その場の状況によって流動的な対人関係を築いてきたため、対人関係を作っていく自分そのものが薄い

    サーフィンやスキーは、そこに包まれるような体験だが、自然に包まれながらも、自身のバランス感覚やスキルによって海や雪山にかかわる。自然にすべてをゆだねるというよりは、ぎりぎりのところでバランスをとりながら、自然を対象化してかかわろうとする方法

    対象と接触していることで安全感を持ち、それゆえに対象にしがみつくという対象関係をもつ、オクノフィリアと、その半単位対象と接触することは危険であり、スキルにとって対象を回避しようとするフィロパティズムという概念を提示している。それはスキルを用いて、世界を対象化し手なづけられるものとしてかかわろうとするもの。自らのスキルによって対象とかかわるが、本質的にそのものに触れたる、委ねたりすることができない


    自分の身体と同じく、自分の周りの世界を見つめ、自分の感覚と世界をつなごうとしている動きが起こっている。

    ★全体像としての身体を対象化していくという過程。自らの身体を徹底的に対象化して、切り離すことが、その心身の間に裂け目を作り出す契機となる。その過程を経て、クライエントの主体の立ち上がりとともに、身体との間に新たなつながりが生まれていった

    自らの生きている身体をいったん否定し、初めて対象化して扱うということができるようになった。わけのわからない異者として襲い掛かる身体を、いったん、自分にとって他者とすることで、かかわりが生まれた

    自分自身で、自分の身体で起こっていることとして、それと向き合うということ

    自分の中にあるものを、何か伝えたっていう気持ちがあって、自分にしかできない伝え方でやりたいなって。マニュアルにしばられないような。それって自分に責任があるけど、そういうのがいい

    流動的な対人関係の中で自分を位置づけなければならない、自分が何者なのかもわからなくなっていたような不安的なものではなく、自分の中から出てくるものを感じ取り、発信しようとする姿

    感覚の直接性を通して身体性を回復し、それとともに、世界と他者との交流を回復するという形で、自己喪失の袋小路から抜けだした

    身体そのものとして感じられる体験であり、それはマミさんにとって、ここにいてもいいんだという感覚に通じた

    湯がとは、自分自身と絶対的に結合すること

    バランスをとりながら、対象化し、触れないようにするというものではなく、身体を感じる本体、そして感じる通路として自然を感じていた

    自分の中から何かを伝えたいという思いを語ったということは、大きな変化だ。自分が起点となって他者と関係を持てるということを意味している。それは人間関係の中で、他者に承認してもらうという次元でわたしの存在に苦しんでいたマミさんが、自分自身の内に、その存在感を感じられるというような変化

    小松:異界とは、それをリアリティとして感じ取っていた人にしか現れない

    異界:日常の世界とへだてられた幻想的な世界、人類学や民俗学での用語。疎遠で不気味な世界、亡霊や鬼が生きる世界。ある社会の外にある世界

    異界-世界の向こう側、境界の向こう側

    異界は、人間に特有の空間、分類のひとつ。日常と非日常、俗と聖、世間と出世間、此方と彼岸、人界と神界など、、、

    異界は、理を異にすることが現象する場であり、何らかのつながりにより人々の経験世界と通じ合う、潜みある<異なもの>の位相にほかならない。

    以下は、我々がその世界と接触し、その世界にまつわることを体験するということにおいて、異界の姿が立ち現れてくるもの

    異界とは、どこかにあるものなのだろうか

    夢を通してセラピストと相互浸透することで、このクライエントは、内なる異界、つまり自らのmう意識と意識の相互浸透を果たしたということ。これは異界という言葉を用いて、クライエントの内的作業について説明するものであった。

    プレイセラピーでは、箱庭を用いた表現において、混沌の世界から、異界の創造、そして異界との交渉、箱庭から外へというテーマを経て終結に至っている。

    人は自分の存在に、この世の次元では得られない意味を求めて、異界を創造したのではないだろうか。

    異界の体験により創造のプロセスを歩むことが可能になる

    異界は、われわれの見慣れた日常的なものに対する非日常的なもの、一般の人々に知覚可能な事物の表層の世界に対してのその背後に広がる深奥の世界、此岸にたいしての彼岸、意識に対しての無意識など、すべてをふくめたもの

    異界とかかわるのは、いのちがけの作業であり、異界の扉がいつどのように開き、どんな次元の異界とかかわるかということは、冷静で厳然たる見極めが不可欠

    異界との遭遇において、危険性を認識することは大切だが、そこで創造性を得ることができる。

    その子が、圧倒的な存在に出会いたいと思っていることに気づき、自分の日常性を超えた力の存在を知ること、その存在をしったうえで、もう一度日常に着地していくこと

    異者は、具体的個物としてそのものを実体としてみることはできず、体験という形でしか現れない。そして、その体験とはあらかじめこちら側の予測できるものとして存在しているのではない。今、体験しているその人に生じてくる動きとして異界について考えてみることが必要

    自らの起源や、最も安心できる場所、自然な他者との情緒的交流を、ハイマートと呼び、乖離病者の示す症状には、ハイマートの拒絶の側面と、ハイマートの希求の側面が混在しているといえる。つまり、自らの安心できる場所や他者との情緒的交流を拒絶しながらも、強く希求もするということ。

    空想の世界や、ディズニーランドは、今生きている世界と何か違うものを求めるこころから描き出される。理想の世界としての異世界というもの。しかし、それは触れることのできない、幻想でしかなくこちら側に豊穣性や生き生きとした体験をもたらすものではなかった。一定の距離を保ち続けて、相互に関係を持つことのできないものとしてしか存在しないものであった

    その理想の世界としての異世界は、異界ではなく他界としての性質をもつもの

    ★★異界とは具体的な場所をさすというよりは、その亀裂がもたらした体験世界や、その切れ目そのものに現れている。→うちはこれがやりたい

    ★★★亀裂をめぐって語られることが、異界の体験として表象されるものでもある。

    ★★異界の体験は、世界とのかかわりの中に生じていたともいえるし、面接室での筆者との関係の中においてもパラレルに生じていた。その体験の語りを共に聞く筆者も、巻き込まれ、その異界の空間にいたということ。

    ★★★異界とは、亀裂をめぐる体験が語りだされるその場において生じてくるものなのではないだろうか。そこに含まれているときには、異界が現れているということは意識されていない。(例えば、夢について語られたとき、はじめてそれが閉じられたのだという例もある)

    →徹さんの聞き書きを想い出すし、自分はこの亀裂それ自体をつくりたい。ここにはふたつあって、ひとつは亀裂の体験を対象化していくプロセスに寄り添うこと、もうひとつは、亀裂それ自体をつくること。この二つがうちの骨子。

    ★★★ある場所が異界であり、そこから出て帰還するということではなく、その場が閉じられて初めて自分自身が異界に包まれていたということに気づかされるような体験ではないか。そして、閉じられた後に、その異界は、自分とは全く関係がないものとして消えてしまうのではなく、あとに残された豊かな体験が、異界の痕跡として残り、その関わりは続いていくのである。


    それは人間の力と理解力ではとても捉えられず、圧倒されてしまうような原体験なのである。この体験の価値も重みも、その言語を絶した性質にある。それは永遠の深みから、よそよそしく冷たく現れるかと思えば、おごそかに重々しく立ち上ってくる。あるときは異光を放つデーモニッシュでグロテスクなもの、人間の価値や美の秩序をみじんに砕く、永遠のカオスの恐怖を駆り立てるような錯乱

    心理臨床は、決して特別な場ではない。その場で何が行われているか、当事者以外に知らされることはなく、さらに特別なセッティングで行われる非日常の場。しかし、生きている中で病気にかかったり、困難にぶつかったりしたことが一切ない人がいないように、心理臨床の場に悩みや問題を持ってくる人は決して特別な人ではない。悩みや問題に真摯に向き合おうとすること、生きるこおtについて深く考えることは、

    創造という未知の領域へ


    異界とのやりとりとして行われる神や精霊を祭る祭事は、インスピレーションの源泉として捉えられていたり、夢や変性意識の体験においてもたらされる発見やお告げは、人々の生活にとっての新たな道を指し示すちえんとして捉えられていた


    異者との出会いの体験には、創造性の源泉としての姿を見ることができる

    恩田:創造性とは、ある目的達成、または新しい場面の問題解決に適したアイディアや新しいイメージを生み出し、あるいは社会的・文化的に、または個人的に新しい価値あるものを作り出す能力、およびそれを基礎づける人格特性

    いまだかつて存在しなかった新しい何かを作り出すこと=創造

    フロイト:神経症と創造性の構造の類似性を認め、創造とは、満たされなかった願望充足の結果

    無意識の内容は意識にとって並外れた価値を持っている、そこから浮かびあがってくるものを意識が受け取っていき、その意識と無意識という対立するもののはたらきが全体性へと通じていく。こうして創造的な過程は進む

    ★★ユング:無意識を創造の源泉として捉え、そのはたらくを患者の治療に活かし、絵画、文学、造形などを通じて想像力を利用することに関心を持ち、創造的潜在力を治療に活用していった

    いまだかつて存在しなかった新しい何かを作り出すこと

    自我による自我のための退行。芸術家は、創作過程において、一時的、部分的に、自我をこころの原始的な部分に退行させ、未分化で本能的なエネルギーを創作や発明といった創造活動にあてている

    創造の病。ある観念に激しく没頭し、ある心理を求める時期に続いておこるもの。当人は、永久的な変化をおこし、そして自分は偉大な心理、あるいは新しい一個の精神世界を発見したという確信を携えて、この試練のるつぼの中から浮かびかがるもの。そしてフロイトもユングも、創造の病をへて、自らの理論を確固たるものにした。

    創造を、異者との出遭いの体験として捉える。そこで重視されるのは、体験という次元

    自分のなかでつくるんじゃなくて、もう外側で自と他が一緒にあうような状態で、同時にみえるような状態。それを、素材を開くっていう

    自分の物語を作品に込めて、それを表現しようと制作していた、しかしその制作姿勢に違和感を覚えた後は、自らの物語や主体性、自己表現を排除しようとする姿勢になった


    ものがたりの「モノ」とは、折口によると、ものは霊であり、神ににて階級低い、庶物の精霊を指した語。川戸は、その「モノ」について、言葉では表せない、不思議な力を持つ存在と表現する。
    →「ものがたり」がそこにいる霊にふれようとする行為なのであれば、出来事やヒストリーをかたどっていく中でそこに潜んでいるモノ=霊をかたどっていくというのが、物語の本質なのかもな。この視点を知ると、なぜ語りに違和感を覚えるときがあるのかも合点がいく。そこにいる霊をかたどっていく「異なる」の象りではなく、あくまで枠を自分で作ったうえでのそれになっている、つまりことばが語るのではなく、その人の自我が語る時に、おもしろくなくなるんだろうな。


    名和のいう物語の排除とは、モノガタリの排除ではない。私性や主体性を排し、境界的な世界から、持ってくるということは、モノそのものとのかかわりをもつこと。

    モノの次元においては、わたし、あなた、それという区別はなく、それぞれがそのモノと対峙し、モノから呼びかけられる。

    観る者が、作品を単なる対象としてだけ捉えるだけではいられない感覚がそこにある。それでもあなたは、鹿を鹿といいますか>と提案されているように感じました。見る側の固定概念への揺らぎを引き起こす


    この物質なにー?・って脳はたぶん驚いていて、五感を働かせて、どうにか情報を引き出そうとしている。それはひらかれているんですよ、だから既視感から外すことも、聞くっていうことになるし、自分が知っている触感、触り心地とか、テクスチャーからもはずしていく


    名和のいう素材をひらくというのは、自分自身と対象の関係が既存のもので説明されない状態をしめしている、我々はその状態のおいて、見たことがない、感じたことがない、知らない、説明できないという感覚に放り出されるが、それと同時に、その対象自体にひきつけられ、関係を迫られるというような事態が起こってくる
    →ある種、うちもこれをやっているんだな。潜在性の発露を、共同と共在の次元からひらいていく


    名和は、自と他が一緒に出会う、と表現したが、その際には対象が何であるかということは消え失せ、それと同時にわたしということ自体も消えていく


    素材をひらくという表現は、概念、基盤すら超える、既存の境界を消失させる体験→中動態ということ


    素材に対して潜水するイメージで、深く潜り、自身が素材に等しくなりながら作品をつくる

    モノとの関りにおいて、精霊や無意識といったものが、創造性を授けるのではなく、自らが素材そのものへ潜水していき、そのモノとしかいえないようなものとの出遭いによって、生み出されるような体験

    物語の排除とは、わたしやあなたの枠組みをとりはずし、自と他が一緒に合うちうことを目指すものであり、それは存在としてのモノとの遭遇の体験

    境界の消失は、世界を混沌として、現出させる、その中で我々自身も失われる事態になる

    混沌こそは、すべての精神がそこへ立ち返ることにより、あらゆる事物との結びつきの可能性を再獲得することができる、豊穣性を帯びた闇である

    モノから呼ばれ、新たな世界を体験するわたしが生成されることが創造の体験

    わたし、あなた、それの境界が消え、その瞬間に、その界面があらわになるこの揺らぎの接面こそ、創造の体験が潜んでいると感がられる。これこそが、異者との出遭いにより起こること

    名和の創造の体験とは、わたしという物語の排除であり、わたしというものの消失。そして、語る主体としての私が消失するということは、まさにモノの次元が語るものの現出


    アガンペンは、純粋な、いわばなおも物言わぬ経験として、インファンティアを措定する。そして、主体が言語活動に支えられるものとしてある以上はインファンティアに到達することはない。

    名和のモノの次元の語りとしての創造体験は、アガンペンの言葉を借りれば、人間的なものと言語的なものとのあいだの差異としてのインファンティア。これはわたしという主体の消失によって可能になる

    異者との出遭いを望んで足を踏み入れ、それを形にすることができるというのは、かなりの自我の強度が必要である、異者との出遭いには常に自分や日常の世界を失う怖さや危うさが潜んでいるから

    異者との出遭いは、そういった自己意識、自己の内面性という閉じられた世界に亀裂を生じさせ、生き生きしたモノの語りを我々に触れさせてくれる

    ★★★その人が体験したことを主観的に、語り直すという形でしか、異者体験は抽出できない。つまり、異者体験の性質のうち、どの部分が語られるかということは、それそのものを体験したということではなく、語りだす側の、今の意味付けとして表されている。振り返る形で事後的にしか体験を語ることはできず、その時の体験は、今その人にしか語れないものとしてしか現れてこない


    ★なぜ異界や異なるものを求めるのだろう。それはいま/ここの生の世界をチャラにするような、一種の解消の予感に飢えている。また、新たな自己の可能性が潜在むから。解放される感じや、全部すっぽり忘れられる

    異者体験は、未知のものであり、そこには恐怖や恐れとともに、豊穣性や新たな世界が開けるという体験がもたらされる可能性がある

    異者との出遭いは、閉じられ、完結したように見える我々の世界に亀裂を入れる。我々だけがこの世界に住まう住人であるということがいとも簡単に覆されてしまう

    ゆらぎとは、システムがそれまで持っていた秩序に対し、何らかの変化を要請するものであり、新たな秩序を形成するためには重要な要因

    ゆらぎは、新たな秩序を生み出すきっかけとなるものだが、しかし同時にこれまで作り上げたものが足元から崩れ去るという恐怖を生むものであもある。揺らぎとは、こういった両義性をもつ

    その異者との出遭いによって、引き起こされた体験とは、自らが選び取って構成いていたわたしとしてのまとまりが解体され。様々な要素のつながりの中で、新たなわたしとして浮かび上がってくるようなものではなかっただろうか

    訪れる出来事、あるいは立ち現れるあちら側の世界に主体をゆだね、こちらに生きていたわたしが一度消失するということ

    それによって、より大きな世界の地平の中に生きる、新たなわたしが生成される

    エリクソンは、臨床という言葉について、かつては死の床に立ち会う僧侶の役割を意味をしている

    ★★臨床の場とは、一人の人間が迎える死に立ち会うものだった、皆藤はエリクソンのいう臨床を引きつつ、「現実とは異なる世界へ向かうこと」として、それを捉えている。

    ★★そのうえで、臨床は、人間がある世界から別の世界へ向かおうとする変容のプロセスに、現実とのかかわりを配慮しながら、かかわる作業であるとしている(皆藤)


    心理療法家の仕事とは、日常背から強烈に疎外されると同時に、日常性への沈潜をはじめたクライエントが、もう一度あらたな日常性を創造するまで寄り添っていくこと

    わたしの死と、生成の私の運動やそれが生じてくる場としての臨床と日常との関係を考える

    中心となる自我によって選び取られたわたしにしがみつくということも一つの方法だが、異者として現れたそれとの様々なかかわり方がある。異者との出遭いにおいてその境界面に初めて「わたし」が生じてくるという見方からすれば、わたしの中心は境界そのもの。異者との出遭いがもたらすわたしの死と、私の生成が新たな中心をつくりだす

    心理臨床において、その異者との出遭いをいかに迎え、そこに生じてくる動きにどれだけゆだねることができるか

    巻き込まれながら、そこに耐えるということ。心理療法家は、クライエントが抱える生きることへの問いに対する答えをあらかじめ知っていて、それを提供するのではない。クライエントが遭遇した異者との出会いの体験に投げ込まれ、どこに行き着くかもわからない道のりを進まねばならない。

    心理療法家が、わたしという固定的な視点を持ち込んで、異者との出遭いがもたらす動きを止めたり、生じた境界を無理にふさいだりするのではなく、クライエントととtもに、異者から問われることにこたえようとし続けなければならな

  • 【配置場所】工大特集コーナー【請求記号】 146||T
    【資料ID】11501037

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著者プロフィール

1984年生まれ。2008年京都大学教育学部卒業,2010年京都大学大学院教育学研究科修士課程修了,2013年同博士後期課程修了(博士(教育学))。臨床心理士。現在,東京大学学生相談ネットワーク本部学生相談所助教。専門は臨床心理学。
主な論文に「パーソナリティにおける揺らぎの様相」(『心理臨床学研究』第28巻3号,pp. 324―335),「“異”なるものとの出会いとしての臨床性」(皆藤章・松下姫歌編『京大心理臨床シリーズ〈10〉 心理療法における「私」との出会い 心理療法・表現療法の本質を問い直す』創元社,2014)など。

「2015年 『“異”なるものと出遭う』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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