トマス・ピンチョン―無政府主義的奇跡の宇宙

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  • 京都大学学術出版会
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  • Amazon.co.jp ・本 (246ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784876984152

感想・レビュー・書評

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  • ピンチョンの著作に対してとても真摯な姿勢の人だと思った。各作品のあらすじもついているので「そうだったなー」と思い出しながら解説を読むことができる。
    「ラッダイト」の項目もある。休憩コラムも面白かった。

    以下、感想というか読みながら思いついたことなど。


    ■『V.』

     昔、これに登場するステンシルみたいになりたかった。「自分」という中心に居座るやつはもぬけの殻で、代わりに周りのものがそこを彩るってのが、まるで存在しない人間みたいでいいなあと考えていた。お墓で有名なレスター・ムーアとか、昔っから「いるのにいない」ものに憧れる性質があったらしい。

     少し後には、むしろそれは当たり前だと思うようになっていた。自分というのは肉体・精神を問わず色んな要素が組み合わさってできていて、それら全体をひとつとして見たときだけ、オリジナルの「私」がいると言える。だから、部分部分で見ればそれはたくさんの人と共通のもので、さらに単位の小さい「部品」の大概は、そのへんに転がっている何でもないものに違いない(特別な部品も無いことはないかもしれないけど)。ひとつのまとまりとして見なければ、どこまででも解体され、広がってゆく。私はいるけど、どこにもいない。

     少し視点を変えて、例えばものを描く私をフィルターと出力機械(それぞれ頭部と右手)と考えることもできる。そのへんに転がっている要素がフィルターを通り、混じり合って右手から紙へと出力される仕組みだ。

     だけど考えてみると、「ステンシル」には決まった型があって、上からどんな色を塗ろうとその型をはみだすことができないように、つまりそれが彼の陰謀フィルターってやつで、そこに「自分」が潜んでいるのかもしれない。もしかすると、「フィルター」こそが自分なのか?

    でもそんなにすぐ答えが見つかったら冒険ができないから、自分の居場所の手がかりになってたりする、というのでどうだろう。アリアドネの糸が出てきた。ちょっと面白そうじゃんか。

     ……『V.』の話してないな。

     ファウスト・メイストラルの日記も好きな場面だ。自分に区切りをつけるのって面白いね。
     そういえば思想史の本で、仏教の輪廻についての説明を読んだけど、それによると、世の中は「一瞬一瞬で生まれては滅んでゆく現象の連続」ということらしい。「縁起」ってこういうことだったんだなーと思った。

     例えば、食べたご飯が体内で吸収され、血肉に変わり、いらないものが排出されることで体は刻々と作り変えられている。人と話してある感情が起こったり、読んだ本に影響されて考え方が変わったり、心も刻々と変化し続ける。
     このように、世の中のものは色んなとこで関わり合いになり変化し続けるもので、そういう考えの下で、同じものとして存在し続けるものが果たしてあるだろうか?ということだ。と、思ってる(なにしろ仏教は難しいので)。無限に咲いては散りゆく花びらのごとく。

     逆に、死後生まれ変わるタイプの輪廻転生は、核的な存在が保持されて次に伝わるわけだから、ある意味「同じものとして存在し続ける」ということじゃないだろうか。上の輪廻とはまったく逆の考え方だ。区切りをどこにもってくるかによって全く逆の思想になってしまった。

     あと、「街路」→ 放浪する人、で大木英夫『ピューリタン』を思い出した(松岡正剛の千夜千冊、第620夜)。ちょっと前に清教徒革命(Wikipediaが充実してる)を調べたときに読んだ本だけど、とても面白かったので興味がある人はどうぞ。
     また『V.』の話からそれちゃったな。



    ■『競売ナンバー49の叫び』

     解説を読んでたらバロの絵の場面が思い浮かんできて、エディパと一緒に泣いた。
     「ネファスティス・マシンがなぜ永久機関なのか」や「内部と外部の区別」の解説がわかりやすかった。

     『V.』ファウストのメタファー観と通して見たときの「メタファーは構築された現実の外側から見れば偉大なる嘘だ。しかし、その内側に暮らす現実派の人間から見れば真実への推進力である」この部分はすごい。

     そして頭から話の大半が抜けていることが判明したので、近いうちに読み返したい。別のレビューを覗いて、あれどっちだっけ?とわからなくなった。
    「塔から出るには、この塔自体も紡がれたものだと気づくことが必要」だが、この時エディパは「どこまで行ってもここから出ることはできない、なぜなら全ては自分が紡いだものだから。誰も自分の中から逃げることは不可能」だと悟ったんだったか?あれ……いや、とにかく読んでから考えよう。

     些細なことだけど3部作の3つめが、いつも眺めている『20世紀の美術家500』で紹介されている絵だった。おー。



    ■『重力の虹』

     これは最後までまだ読みきってない本なので。解説も「ふんふん、なるほど」と思って読んだ。だけど一番のめりこんで読んだ解説だったかもしれない。
     『重力の虹』は黒くてデカい。まるでアレのような例えだがほんとそんな感じの本だからしょうがない。ピンチョンいやらしいわね。
     しかしほんと読むの大変だ。何年後になるやら。
    (2014/08: 新訳も出るというのに、まったくだ。)



    ■『ヴァインランド』

     評価はそうかーそうなるのかー。
    でも著者の言葉にもあるけど、私は初めてのピンチョンがこの本で、今こんだけはまっているので、そういうことなんだよきっと。それにカルマの現代的使用法は面白いと思うけどな。フミモタタケシって漢字でどう書くんだ。

     これ読んでる当時、ベネトンから出てる雑誌『COLORS』のテレヴァンジェリスト(テレビ伝道師)を写した1ページがやけに印象に残ってて、テレビ依存症の登場人物と頭の中で混ざってしまい、みんながテレビを崇拝してる様子を想像して「アメリカって変な国だなあ」と思った記憶がある(ピンチョンの『Is It O.K. To Be A Luddite?』っぽい)。

     これを進化させたらどうなるんだ?現代はテレビだけじゃなくてパソコンにも依存してる人が多いから、「モニター依存症:テレビやパソコンのモニター前から離れられなくなり、しまいには発せられる光を浴びていないと禁断症状がでる病」なんてことになるかもしれない。
    そして私はテレビやネットに夢中になって勉強をおろそかにしたら「はっ、依存症になってしまうぞ」と自分に言い聞かせていた。


     「やられたらやりかえせ!」というとSTUDIO VOICE 『Loud Minority』。『COLORS』の紹介したりしてて面白かった号だ(1996/9)。




    ■愛すべきもの
     ピンチョン作品については「エントロピー的小説」だとか「科学と文学の境界を越えて」という事がよく言われる。そのまま、こういう小説になったのは科学の方式を文学に持ち込む試みをしたかったから?とこれまで思っていたけど、解説を読むうちに少し変わった。

     というより元々この部分が一番ピンチョンの好きなところではあったのだけど、自分が感じていたよりもっと強い意図に基づくものだと分かった。
    この人はこの世界を、ほつれた糸や端切れとなったたくさんのものまで拾いあげて一編に織ることができると信じていて、それを実行したのだと思う。
    だからこんな小説ができたんだ。


    とてつもない力。

    そして、優しい。

    Blog:
    http://haiiro-canvas.blogspot.jp/2014/08/blog-post_71.html

  • もう一度ピンチョンを読み返したくなった。新潮社の全小説集刊行にあわせて、読み返そうかな…

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