不安の構造: リスクを管理する方法 (エネルギーフォーラム新書 25)

著者 :
  • エネルギーフォーラム
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  • Amazon.co.jp ・本 (247ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784885554292

作品紹介・あらすじ

人間の判断の基準が感情であり、その背景には個人の知識と経験があるのだが、知識も経験も「実体験」だけでなく、情報を得ることによる「仮想体験」からも得られる。だから、世の中にあふれる多くの情報のどれを信じるのかによって、その人の判断基準が変わってしまう。

感想・レビュー・書評

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  • 月刊誌「農業経営者」主催で、「ネットにあふれる農業の食と不安を考える」の講演者の唐木英明先生の話を聞き、そして、「不安の構造」唐木英明(著)の本を読んだ。
    人は、何を不安に思い、リスク管理をするのか?今までの、私の考えていた「リスク管理」とはかなり違っていた。一番いい例が、「食べるな危険」という本が、「食べたい安全」と売れ方が4倍近く違うということだ。人間は、安全をたくさん知るより、危険を少しでも知ったほうがいいというわけだ。そのため、メディアやネットでは、安全なことはニュースにならないし、危険なことは少しでもあれば、ニュースになるということである。
    そのことで、科学に基づいて根拠づけられればいいが、科学は四つあるという。①検証の繰り返しによって、品質が保証された「正しい科学」②仮説として提出されていて、検証を受けていない「未科学」③十分な検証もせずに、研究者が間違えて発表する「間違い科学」まぁ。STAP細胞みたいな例もあるが、それが間違いだったということが訂正されずに一人歩きしてしまうことで、混乱が起こる。④科学でないものを科学に見せかける「ニセ科学」「水に優しい言葉をかけて、凍らせると綺麗な氷の結晶ができる」という呪術や魔術のたぐい。結局は、そのような様々な科学が洪水のように溢れて、「正しい科学」に基づいた事実を認めない状況が生まれる。コロナウイルスにおいても、かなり怪しい論が、ネット上で溢れた。情報の検証がなされないまま、巷に溢れる。
    科学者が、検証の上に「正しい科学」に基づいて発言したとしても、「企業の手先、御用学者」と叩かれるネット炎上時代として、「悪貨は良貨を駆逐する」となり、自分の信じたいことしか信じない状態になってしまう。
    食品添加物、農薬、重金属、放射性物質など、目に見えない者のリスクをどう対応したらいいのか、まさに 現代人は「不安の構造」社会にさまよっているのである。「人間は、正体のわからないものに不安を感じるのである」そのことで、見える化ということで、検査を重視するが、検査機器やデータの信頼性が確保されないと余計不安を煽ることとなる。
    この本で、私は、パチンコが韓国で2006年より禁止されていることを初めて知った。「愚民権」という言葉も初めて遭遇した、知らないことが実に多い。この本は知らないことを教えてくれる。
    「リスクの最適化」という「費用と効果」を検討しながら、「一人でも被害者を少なくする」という考え方が重要となる。ここで、研究者のできる範囲と政治的な判断というのが正しい選択をすることができるのか、今回のコロナ騒動の中においても、研究者がメディアに前面に出すぎ、8割おじさんと揶揄されたりする。コメンテイターとしてのお医者さんの登場は、不安を煽る役割を果たした側面も多い。この本は、様々な事例を網羅して、分析している。感染症の脅威が存在する不安時代を生きるからこそ、リスク最適化とは何かを、よく知る必要がある。日本人の放射能怖い論は、放射能の正しい正確な教育を受けていないことにも起因している。また「自分だけは大丈夫」という根拠のない楽観論では生きられない。正しい科学的知識に基づいて、自分を守るしかない時代でもある。好著である。

  • 人間はよくわからないものを目の前にしたときに不安を感じるが、現代人の不安のほとんどは、将来の不安である。
    社会の仕組みは大きく変わったが、人間の心がそれほど大きく変わっていない。
    安全を守るためにはリスクを減らす作業をリスク管理と呼び、その方法は、最初に何がハザードであるのかを明らかにし、そのハザードによる被害がどの程度か、そしてそのハザードに出会う確率がどの程度かを推定する、それをリスク評価と呼ぶ。
    リスク評価は客観的かつ中立公正に行われなければならない。
    リスク管理は事前の対策を行うことで被害を防ぐことが目的だが、それでも被害が発生してしまうことがある。

    人間は安全を守る手段として危険情報を重視し、安全情報は無視する性格を持つ。

  •  近年、「安全」という言葉と「安心」という言葉はセットで語られる事が多いように見受けられます。安全とは、事実を示す言葉で、危険がない(少ない)状態を指します。一方安心とは、人の心の有り様を示す言葉で、危険の存在を予感せず恐怖や不安に陥ることのない状態を指します。安全と安心はイコールではありません。事実として安全であっても、心が不安に揺れる事があります。逆に、心はのほほんと穏やかに過ごしているけれど、気づいてないだけですぐ足下に危機が横たわっている場合もあります。公共政策に関わる分野で「安全・安心」と二つの言葉をセットで用いることが多いのは、どちらか片方だけでは駄目で「現実的な安全と心理的な安心」を両立させることが社会的要請だからなのでしょう。

     本書は人々の安心・安全・信頼とその対である不安・危険・不信について、食品を巡るモチーフを中心に科学者の立場から分析・解説するものです。帯に大きく記されているのは「安心=安全+信頼」という関係式、これは本文ではほぼラストに登場するもので、いわば本書の結論であり核心であるといえるでしょう。この式における「安心」は、前段落で私が定義した意味とは異なりますが、信頼(心理的な問題)と安全(現実的状況)をともながらに確保することで広義の(社会的な)安心が成立するという意味で、端的に的を射たものとなっています。

     第一章「不安の時代」は、秦の始皇帝の話から始まります。貧しい古代社会にあって権力と衣食住に満ち足りた始皇帝は、それでも老いと死を恐れ、不老不死の霊薬を求めてもがきました。それは、多くの人が衣食住に満ち足りている筈なのに不安を取り除くことができずにいる現代日本の私たちの姿に重なるものだ──この見事な導入に続けて著者は、各種統計データから現代日本が過去と比較して如何に安全性を高めてきたか、またその一方で今もなお人々が不安を抱えている事実を指摘し、その心理的要因を分析しています。直感的判断の背景に生物の本能として「危険情報」は強く意識化するけれど「安全情報」はあまり重要視しないこと(例えば『〇〇は危険』という本はヒットしやすく『〇〇は安全』という本は売れない……といえば分かりやすいですね)、危険情報に過度に拘泥する人はそれが杞憂だと実証的に示されても耳を貸さないという確証バイアス、逆に本当は危険なのに「自分だけは大丈夫」と思ってしまう楽観バイアス……こうした心の仕組みが、人々を科学的な理から隔ててしまう。こうした分析はすとんと腹に落ち納得できるものでした(そういやダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』を読みかけでほったらかしてるなあ)。

     第二章「科学技術の影」、この章題に掲げる「影」は科学技術の発展に伴う環境汚染等の負の部分を差しています。実際そのようなモチーフがいろいろ取り上げられているのですが、本書全体の中の位置づけとしては、科学の意味と社会的意義を概説するもののように受けとめました。観察-理論化-実証-検証というサイクルを通じて科学はある種の客観的妥当性を確保しています(「客観」「妥当」を深掘りしていくときりがないので今はスルーしてください)。その手続によって「未科学(仮説レベルで未検証のもの)」「間違い科学(検証方法に不備があるもの)」「ニセ科学(科学を装った妄想的主張)」から峻別される「正しい科学」は、観測技術や統計処理の高度化によって世界観察の解像度を高め、安全/危険の判断の根拠となる「リスク」の存否・程度を明らかにします。その点で(も)科学は社会に対して有効に切り込んで行けるのですが、問題は科学の精度上の限界と、その社会的な用い方です。著者が紹介する2009年イタリア中部地震に関するエピソードは、その点でとても興味深いものです。群発地震を評価した科学者たちは「大地震の予兆とは考えにくいが、可能性は否定できず、念のため警戒した方が良い」と判断しました。科学の精度という点で実にまっとうな判断と思います。しかし社会を安心させたい政府はこれを「大地震は起こらない」という牽強付会な安全宣言に結びつけてしまいました。その後に大地震が発生して多くの犠牲者を出す事態となり、後の裁判では政府職員だけでなく科学者にもその責任を負わせる判決が下されたのです。

     ここから本書の核心である第三章「リスク管理」の問題に突入します。著者は「リスク評価」と「リスク管理」を峻別します。リスク評価は、価値判断を差し挟まずあくまで客観的にリスクの存否・程度・確率を判断すること。リスク管理は、リスクを低減させるための手法を決定すること。前者は科学の仕事であり、後者は政治や行政またはそれを支える世論の仕事です。リスクを完全になくすことは、大抵の場合、無理です。だからそれをある程度低減させるしかありません。それもあまり極端なことをすれば別のリスクを発生させてしまいます。例えば著者は交通事故の例を挙げます。自動車事故をなくすためには自動車を前面禁止にすればよい(リスク回避)。しかしそれは現実的に無理だ、だから歩道や信号機を設置し速度制限を設け自賠責保険を強制して、事故の可能性を低め事故が起きた時の最低限の保障を確保している(リスク最適化)。ゼロリスクを求めるリスク回避論と、社会的に妥当な(そこから先は受忍すべき)リスクの程度を定めるリスク最適化論は時に対立をします。厳密にいえばゼロリスク要求は最適化の(可能性としての)ラインのひとつなのでしょう、その意味で最適化ラインの社会的合意を巡るリスクコミュニケーション手続が如何に大事かが分かります。

     第四章「放射能と健康」と第五章「BSE」は、重大な健康被害の「可能性」が問題となった二つの事例を考察するもので、食品安全問題に深く関わる科学者としての著者の面目躍如たる内容です。福島原発事故やBSEという近年の出来事をモチーフとして、科学的な事実と社会的な不安のギャップ、そしてともすれば後者にひきずられる政治状況について丁寧に解説されており、前三章の内容を踏まえて読むとあらためて現代日本社会の危機に弱い有り様が分かります。若干筆が走りすぎている(例えば132頁「科学の世界では議論はあくまで冷静に論理的に行うものであり、感情を表に出して泣いたり怒ったりするのは科学的根拠のない証拠になる」という一文は、根拠と感情が背反するものではなく論理的には誤っており、科学的手続を強調するあまり筆が滑ったもののように感じました)箇所も見受けられますが、科学的知見から観れば過剰であったり的外れな「不安」の有り様を指摘する筆鋒は説得力のあるものです。この問題は今なら放射能を巡る「美味しんぼ」と「そばもん」の対照的な描き方を思い出す人も多いでしょう。ちなみにそばもんの当該回は現在(平成26年5月30日)全頁公開されており、未読の方は是非ご一読ください。 → http://comic-soon.shogakukan.co.jp/blog/plane/big-201411-sobamon/

     第六章「誤解の存在」と第七章「商売と偽装」は、前2章のモチーフ以外で近年日本社会で問題になった食品の安全・表示を巡る出来事を考察するものです。六章では消費者側の誤解、つまり本当は小さなリスクを大きなものと受けとめて過剰な反応をしたり(例えば残留農薬や食品添加物)、逆に大きなリスクを過小評価して警戒を怠るケース(例えば生肉ユッケ)を取り上げています。七章では事業者側の不適正行為として平成十年代後半から現在に至るまでに頻発した食品表示を巡る問題、例えば牛ミンチと表示して別の食材で水増ししたものを売るなど消費者の信頼を根本から損なったミートホープ事件や、昨年秋に世間を騒がせた(マスコミ的には一過性のものだった気もします)レストランメニュー誤表示問題が取り上げられています。私も仕事柄いささかの関わりがあり、当時事件に注目していました。

     第八章「誤解との戦い」と第九章「リスクコミュニケーション」は、ここまでの内容を踏まえ、科学者が如何に社会に関わって行くか(どのような役割を果たしていくか)を説く内容です。八章は科学的知見に合致しない情報で社会をまどわす三つの言動、「発掘!あるある大事典」のデータ捏造問題、産科医療への代替医療ホメオパシーの浸食、そして先にも名前を挙げた「美味しんぼ」の遺伝子組み換え作物の取り上げ方について、著者自身が抗議に関わった状況を書き留めています。元々宗教学徒である私は、ホメオパシーを信奉する助産師が医学的にまずいことを行い乳児を死亡させた平成21年のいわゆる「山口新生児ビタミンK欠乏性出血症死亡事故」には当時強い関心を寄せ、医療従事者が科学的根拠のないホメオパシーを用いることを戒める日本学術会議会長談話が出た際には胸の内で喝采したものでした。本書全体のシメとなる九章では、不確かな危険情報の蔓延を避ける上で正確な情報を伝えるリスクコミュニケーションが重要であること、いわゆる欠如モデル批判が安易に用いられ情報伝達そのものを否定してしまうのは誤りであること、そして、世の中には「科学」と「価値観」を混同・対立させて価値観から科学を否定する人々がいて混乱の元となっていること(「曲学阿世の徒」なんて言葉を数十年ぶりに目にした気がします)などを、具体的な事例を挙げて説いています。

     以上、全九章247頁にわたる本書は、豊富なデータと学術知見を具体的事例と共に縦横に組み合わせ、非常に論理的かつ明晰な文章で織り上げた「読みやすく、かつ、内容の濃い」一冊でした。毎月大量に発行される新書本は玉石混淆で中には益体もないものがありますが、本書は間違いなくこのテーマに関する上質の読み物です。ちょっとした一言やものの観方の背後に諸学の蓄積がうかがえ、著者の学識の高さがあって初めてこの平易さと凝縮度の両立に到達できたものでしょう。

     ただ1点、個人的には、本書が十分に扱っていない「この先」の思考への渇望があります。それは「わかんない人にどう伝えるか」の問題です。本書の構成でいえば八~九章を大幅に拡充することで扱われる可能性があるテーマですが、新書のページ数制限下では致し方ないのでしょう、この両章には前七章に比べて短い紙数しか与えられていません。著者は科学者としてリスク評価の専門家であり、政府系委員等の経験からリスク管理の専門家でもあります。リスク管理は、リスク評価を踏まえ、説明コストの許す範囲でリスクコミュニケーションを行った上で、どこかでえいやっと決断し、権力をふるって社会に何らかの方針を強制する場面が出てきます。それはもちろん必要なことで、政治家や行政職員は自らの責任の下に権限を行使し、社会全体のリスク最適化に努めなければなりません。でもその必然として、そこからこぼれる「わかんない人々」の不安や不満が、社会に別のリスク(潜在的な社会の不安定さ)を生み出すようにも感じています。著者は正確な知識を語り続ける大切さを説き、為政に携わる者が自らの責任で決断する必要性を語ります。そうした視点に立つ本書は、「わかんない人」のオピニオンリーダーを曲学阿世の徒と評し、彼らの論理上の誤りを指摘します。ここまでは私も心底同意なのです。そしてその先──「わかんない人々」にわかってもらうためにはどうアプローチすることができるのか、効果的なのか、ということに、私は強い関心があるのです(この点では私は完全に「欠如モデル」的発想に立ちます)。それはおそらく私のふたつの側面、ひとつには行政職員として住民に対する説明責任をアウトプットではなくアウトカムとして捉えたいと考えていること、もうひとつは僧侶として「人の心の良き変容を導くこと」を職務の本質とする点に由来するように感じています。もちろん、そうした内容が十分に含まれていないことは、本書の欠点ではありません。むしろそうしたテーマへ飛翔する前の発射台として極めて有益な一冊であり、ここから先は、著者が巻末に掲げる参考文献リストを手がかりに読者自身が自らの意思で探求すべきものなのだと自覚しています。

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著者プロフィール

(公財)食の安全・安心財団 理事長 農学博士

「2020年 『鋼鉄と電子の塔』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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