大草原のバラ: ローラの娘ローズ・ワイルダー・レイン物語

  • 東洋書林
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  • Amazon.co.jp ・本 (330ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784887217171

感想・レビュー・書評

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  • ローズはローラ・インガルス・ワイルダーの娘。母が作家として世に出るのを支え、自分の文章を書く機会を潰してしまった作家だと思っていたので、この本を読み、自分の思い違いを知ることが出来てよかったです。

  • 摂南大学図書館OPACへ⇒
    https://opac2.lib.setsunan.ac.jp/webopac/BB00152371

  • 1885年12月5日…「12月のRoseは6月のrosesよりも貴重なものよ」とローラは言っていたが、その通りだった。ローラの娘ローズはほんとうに貴重なバラだった。

    ローズの養子といっていい
    ロジャー・リー・マクブライドによるロッキーリッジ・シリーズ
    ロッキーリッジ以降のローラとその娘ローズの成長を追っている。

    ロッキーリッジの小さな家

    ロッキーリッジの小さな家
    著者: MacBride Roger Lea/谷口 由美子
    出版社:講談社

    発行年:1994



    にはじまり(物語では省略されているが、「ロバに乗って通学した」と本書にある)余談ながら吉田茂閣下は東京帝国大学も外務省に就職してからも馬で通ったそうな。

    ロッキーリッジの新しい夜明け

    ロッキーリッジの新しい夜明け
    著者: 渡辺 南都子/MacBride Roger Lea/こだま ともこ/小玉 知子/ロジャー・リー・マクブライド
    出版社:講談社

    発行年:1998



    で日本語版は終わる。ローズが家を出て、ルイジアナ州クラウリーに住む叔母(アルマンゾの姉)のところに寄宿し(新設の)クラウリー高校に中途入学することを決意した状況(16歳)。うとい読者は離れて住む(心を寄せている)電信技士ポウルと結ばれると期待するかもしれないが。

    そうではなかった

    アメリカ史、イギリス史、代数、平面幾何、公民、アメリカ文学でローズは見事に試験をパスしたが、ただラテン語は何もわからなかった。クラウリー校に在学する1年間に三年分を習うことになった。/7人という少人数のクラスで、ローズは終始一番だった。
    「崇拝者」がいて、二頭立ての馬車をもっていて、毎朝学校まで送り、おわると迎えに来てくれました。おかしいし悲しいのは、その人の名前を思い出せないのですよ(手紙より)

    第3章 ひとり立ち
    マンスフィールドの両親のもとに戻ったローズが17歳の年をどのように過ごしたかはあまりわかっていないが、電信技術を習ったのは確かである。

    1904年、十七歳の「まともな」娘たちは、学校で教えているか、上の学校に行っているか、または結婚を待つばかりというのが普通だった…しかしローズ・ワイルダーはそんな限られた選択肢を選ぶ気はまったくなかった…
    ローズがたったひとりでわが家を(職業婦人として)離れると聞いたマンスフィールドの人々は騒然となった…(職業婦人という階級について)ローズは書いている「両親は反対した。隣人はショックを受けた。父親たちは心の中で、金を稼ぐような娘たちを持ったことで肩身の狭い思いをしていた…教会の祭壇では、わたしたちを非難する言葉が声高に語られた。新聞は漫画でわたしたちを諷刺し、社説はわたしたちの動きを止めるべきであると…わたしたちが道徳を根底からくずそうとしていると…。年配の女性たちは、わたしたちをわざわざ呼びとめて、重々しい声で『そりゃ、今はお金を稼ぐのは楽しいかもしれませんよ。でも将来を考えてごらんなさい。しごとに疲れてやめたくなったとき…ひとりぼっちで老年を迎えると…』」

    そんなおせっかいに耳を傾けたりはしなかった…
     ミズーリ州カンザスシティ、そしてミッドランド・ホテル内のウェスタン・ユニオン支社で夜勤の電信技士として働きはじめた。一日八時間労働では満足せず、昼間、本社でも働いていた。つまり、一日十六時間、週に七日間働き、ひと月に六十ドルという良い給料をもらっていた。

    電信技士に女性がいたとは知らなかったが、ライバル他社の女性技士と交歓もあったようだ。

    婦人参政権論者、電信技士ストライキの参加者、勤勉な若い魅力的な娘…

    1907年には、インディアナ州マウント・ヴァーノンにいて、ウェスタン・ユニオン社の電信技士兼マネージャーになっていた。一日十時間、週に6日働き、ひと月に50ドルを稼いだ。

    オウザークの小さな町

    オウザークの小さな町
    著者: MacBride Roger Lea/谷口 由美子
    出版社:講談社

    発行年:1997

    上記に、ローズの友人ついでローズが、巡回セールスマンから誘惑されそうになるエピソードが出て来る。あまり成功とは言えない将来のローズの結婚をマクブライドは暗示したのかも知れない。

    ローズのハートを掴んだのは、カリフォルニアの男、クリア・ジレット・レインだった。いわゆる巡回セールスマンで、ふたりは中西部で知り合った。…ところが彼はカリフォルニア州に戻ってしまい…
    傷心のローズにサンフランシスコで電信技士の仕事をするチャンスが巡ってきた。…要するに恋人を追って西海岸へ移動した…電信の仕事は広がり、ニューヨークからくる株式市場の報告をモールス信号で受けては、文章に変換した。タイプライターが打てないと仕事を失うと知ったローズは、なんと一晩徹夜してキーボードを覚え、クビを免れたこともあった。

    1909年3月24日、ローズ・ワイルダーとジレット・レインは結婚した。ふたりとも22歳だった。…「古いバリアやタブーを打ち砕き、旧い家庭という場に、すがすがしい空気と日光と誠実と自由をもたらそう」これはローズが結婚してのちもキャリアを積むことができるのを意味していた。

    1910年、ふたりは再び中西部へ居を移した。ローズの両親はジレットがとても気に入った。/夫妻はキャンザス・シティに落ち着き、ローズはキャンザス・シティ・ポスト紙のレポーターの仕事を得た。ジレットの仕事についてははっきりしない。小さな町で広報活動を効果的に行うノウハウを教えるような仕事をしていた。そのためにあちこちを旅して回った。…同年、ローズは妊娠し、新聞の仕事が’続けられなくなった。そして複雑な流産を経験し、その際、受けた手術のせいで子どものできない体になってしまった。セントメアリ病院に何週間も入院したのち、やっとロッキーリッジ農場の両親のもとに行くことができた。

    ローズはこの時期のつらい気持ちや、それが与えた影響について、ほとんど何も書き残していない。

    母ローラと父アルマンゾは長年、身を粉にして働いて、農場経営で利益をあげられるようになって、それをたいそう誇りに思っていた。1913年に当時としては最新式の新居を建築したとき、二階にはローズ専用の寝室が設けられていた。

    1911年からローズは夫とともに、はっきりしない宣伝事業のために旅から旅の生活を送った。このころ、夫への信頼が揺らいでいたのかどうか、そのあたりははっきりしない。実家に書き送った手紙は、いつも期待に満ちたはずんだ口調であった。

    ベンチャー事業は失敗に終わり、夫妻は、不動産売買の仕事についた…ローズはカリフォルニア州初のセールスウーマンとなり、女というだけで仲間の男性によく邪魔をされた…北カリフォルニアは土地ブームだったので、商売は大繁盛していた。かつてスペインから譲渡された土地が小さく分割されて売り出された。夫妻は自動車を買い、運転を覚えて、車にお客を乗せて土地を見せて回った。

    土地ブームは1914年、第一次世界大戦が始まるまで続いた。それ以降、買い手も投資家も非常に慎重になり…やがて、不動産ブームは完全に終わりを告げた。ローズは六か月で一つも契約が取れなかった…

    第4章 サンフランシスコ時代
    土地売買の仕事に見込みがなくなったローズとジレットはサンフランシスコに戻り…新たな可能性を探りはじめた。男性と一緒になってプロの仕事を経験したローズには、分別と自己信頼が根付いていた。必要とあれば荒っぽい手も使えるようになった。

    二人は高い野心と豊かな才能を持つ若者と交流を持った。住んでいたヴァレオウ通り1019Bの家の近隣は、未来のまた現役の作家や芸術家や漫画家などが集まっていた。近くにサンフランシスコ・ブリティン紙の女性欄を担当する編集者ベシー・ビーティが住んでいた。彼女が最初にローズに、プロとしてものを書いてみないかと誘ったのである。ベシーのすすめを受けて、フリーランス・ライターとしてサンフランシスコ・ブリティン紙にいくつか記事を書いてみた。編集部はローズの書いたものを気に入り、編集長フリーモント・オルダーの指揮のもと働くようになった

    ここで働いたのを機にローズは書くことをライフワークにする決心をした。ベシーのアシスタントとして、新聞連載小説を軽いロマンチックな調子で書いていたが、ある日、西海岸で名声鳴り響く老練な編集長オールダーが来て言った
    「君は、今書いているものよりもっといいものが書ける人だよ」
    「この新聞にはこれ以上のものは載りません。だってもしヴィクトル・ユゴーが来て、『レ・ミゼラブル』の原稿を置いていっても、あなたはどうせ断るでしょうから」
    「とんでもない。ひとこともらさず載せるよ」
    彼は本気でそう言ったのだ。いいものは載せるという主義だったからである。それからというもの、ローズはブリティン紙に最高の記事を書くようになった。

    記者ローズの最初の成功の一つと言われているものに『アート・スミス物語』がある。当時先端の見世物アクロバット飛行のリンカーン・ビーチイを取材していたが(ビーチイの飛行機に体を縛り付けてサンフランシスコ湾の上空を飛んでみた)、彼はパナマ太平洋・万国博覧会の開催中に事故で亡くなった。若いアート・スミスがその仕事を引き継ぎ、たびたびのインタビューが新聞に連載され、まとめられて出版された。

    カリフォルニアじゅうにローズの名声が知れ渡るようになっていた。おそらくローズの書いたものの多くが、時宜を得た、注目に値するものだったからであろう。たとえばローズはサンフランシスコの水問題を、それが社会の関心事になっているときに取材して、記事を書いた…

    ローズは働きづめに働いている両親をサンフランシスコに招待したいとかねがね思っていた…1915年のパナマ太平洋万国博覧会にぜひ来てほしいと熱心に誘った…しかし父アルマンゾは農場を離れるわけにはいかない…八月の末、母ローラはいよいよロッキーリッジを離れ、汽車でサンフランシスコに向かった。(ローラがただ一度農場を離れて、二か月、父の看取りをした『ロッキーリッジの新しい夜明け』のエピソードは創作だったことになる)

    湾岸地方をあちこち見て回り、ローズの友人たちに会ったり、エキゾチックなレストランで食事をしたり、映画を見たり、言うまでもなく万国博覧会見物もした。二人はチャーリー・チャップリンを見た。(ローズはこのスターの初期の頃の物語を多くの雑誌、新聞に同時連載していた)一緒に、オーストリアのヴァイオリニスト、フリッツ・クライスターの演奏を聴き、ローズは彼にインタビューし記事を書いた。戦艦オレゴン上で、ヘンリー・フォードにインタビューしたりした。

    折からの世界大戦中、ヘンリー・フォードは「アメリカはヨーロッパに手出しするな」の論陣で有名

    おりしも三年続いた旱魃で、農業収入は落ち込んでいた。それを補うためもあって母ローラは、書くことにとても興味があった。地方紙、ミズーリ・ルーラリストに記事を書いていた。ローズは喜んで手伝うと言った。
    二か月の滞在のあと、ローラはミズーリに帰った。ミズーリ・ルーラリスト紙に、万博におけるミズーリ州の展示についての記事を書いたが、たまたまそれが載った日は、ローズの二十九歳の誕生日、1915年12月5日だった。
    母ローラがミズーリの農業関係の新聞や雑誌に書いている頃、ローズのキャリアはさらに広がりを見せていた。東部の雑誌各社が、西海岸のそれと同じように、ローズの書いたものを載せたがった。当時、カリフォルニアをベースにして文学的なものを出版していたサンセット・マガジンが熱心にローズに寄稿を依頼してきた。サンセット誌に書いた初期のものには『映画に描かれた火星』『わたしはどうやって大女優になったか』『きらきら星』などがある。
     一方、ジレットは失業ばかりしていた。ときたま仕事をする程度で酒量は次第に増え、ローズとの気持ちは日増しに遠くなっていった。
    1916年はじめ、ローズはテレグラフ・ヒルに引っ越した。この引っ越しを機に、ジレットとの関係は完全に冷え切った。
    ブリティン紙に1915年、連載した自動車王『ヘンリー・フォード物語』は、1917年出版された。
     その頃、まだブリティン紙の記者だったローズは、別の伝記を書き始めた。それをサンセット誌が連載した。作家ジャック・ロンドンの伝記、八回シリーズで、1917年10月から1918年5月まで続いて完結し、ローズの名声を高めた。タイトルは『男のなかの男』
     結婚生活は破綻の兆しを見せ…1918年に離婚した。1950年、ローズはジレット・レインが亡くなったのを知った。
     世界大戦が続いていて、「その頃の自分は落ち着きがなくなり、新しいものを見たいとじりじりしていた」とローズはのちに語っている。物書きとしての腕をたよりに、新しい生活とキャリアを求めて、ローズはニューヨーク市へと出ていった。  

    第5章 ニューヨーク、ヨーロッパ赤十字、近東支援
    小説をサンセット誌に書くことになった。1918年10月から翌年六月まで9回連載。『わかれ道』というタイトルで、カリフォルニア州の田舎から出てきた娘が、都会でキャリアガールとして働きはじめ、結婚し不動産業者として成功するが、結婚生活は破綻した、という筋書きは、とりもなおさずローズの人生だった。

    のちにロージャー・リー・マクブライドは、上記書に大幅に手を入れ、「新・大草原の小さな家」シリーズ8作目として『キャリア・ガール』1999年、発表しているが、ローズに近しい人によると、いかにも自伝のような形で世に出されるのはさぞ心外だろうということだった。

    連載では主人公ヘレンの幼なじみのポールとの結婚をほのめかして終わっているが、出版分ではそこから新たな展開を見せる。「ドイツ軍がパリに侵攻するなんて!許しがたいことだ!」ヘレンは自分の激しい抵抗の感情に、我ながら驚いた。パリだって、ましてヨーロッパのことなど、たまたま聞きかじっただけの知識しかない自分が?自分の知らないことがとてつもなくたくさんあるのに、驚愕する思いだったフリーランスライターとしての才能を雑誌の編集長に発掘され、アジアへの特派員として海外に羽ばたいていく。
    まさしく、その後のローズのヨーロッパ行きを示唆している…

    新聞の仕事をやめ、サンフランシスコをあとにしたローズは、ロッキーリッジ農場へ立ち寄ってから、ワシントンD.C.に向かい、そこでアメリカ赤十字のライターとして短期間働いた。さらにニューヨークへ行き、サンフランシスコ時代の友人で画家のバータ・ハーナーと再会し、ふたりは1918年~19年の冬、グリニッチ・ヴィレッジのジョーンズ通りに家を借りて住んだ。一日の経費を50セントとし、たいがい豆のスープだけで過ごしていた…
    レディス・ホーム・ジャーナル誌にローズの話がなんと750ドルという大金で売れて、さらに同じく女性誌のマッコールズ誌が、農村婦人の人生観についての話を欲しがっていたので、雑誌社にかけあって、母ローラにその話を書かせることにした。これによって母は全国誌にデビューしたのである。タイトルは『結婚相手を決めるには?』だった。

    1919年の春、同居人バークは同じく画家でローズも知っていたエルマー・ヘイダーと結婚し転居、ローズもハドソン川沿いのクロトン・オン・ハドソンにしばらく滞在して、カリフォルニアの友人フレデリック・オブライエンの詩を代作し、彼の南海での冒険談をまとめて出版した『南海の白い影』はベストセラーとなったが、オブライエンは彼女を単なる「秘書」扱いとしたので…訴訟問題が長引き、結局ローズはしかるべき印税のほんの一部を手にしただけだった。

    ニューヨークの地性あふれる人々、作家、芸術家とつきあうようになって、ローズの知り合いの範囲は広がり、なかには社会主義活動家や、芽を出したばかりのアメリカ共産党のグループもいた。…ローズもその思想にいささかかぶれたが、ごく保守的な中西部の出身だったので、アメリカ共産党に心からなびくことはなかった。
    「わたしはかなり軽蔑されていました」と彼女は書く。「仕事をし、請求書にきちんと対応し、そして、きれいな服を着ていたので…」

    ローズの次の仕事は、同じ中西部の出で、将来の大統領候補と目されているハーバート・フーヴァーの伝記を書くことだった。…サンセット誌がそれを依頼した。詳細な調査のすえ、連載が始まった。ニューヨークの住まいを引き払ったローズはカリフォルニアに戻り、サンフランシスコで執筆し、それはやがて一冊の本になった(1920年刊)

    1920年の春、新しい仕事が舞い込んだ。アメリカ赤十字のライター及び広報宣伝係として、ヨーロッパに向かってほしいという要望だった…

    懐が温かくなったローズは、両親に援助金を毎年渡せるようになった。年額500ドルは、中年を過ぎた両親に大きな安心をもたらした。

    ヨーロッパでの最初の任地はパリの赤十字事務所だった。仕事をばりばりこなしたが、初めてフランスにやってきた外国人の例にもれず、あちこちを精力的に旅して回った。

    新しく知り合った人のなかで最も重要な人物は、海外特派員ドロシー・トンプスンだった。二人の友情は何十年も続くことになる。しかし彼女の第一印象は「赤十字事務所は…なんて薄っぺらい人たちだろう。ローズ・ワイルダー・レインは『お涙頂戴物』を書くチーフライター…」
    しかし『お涙頂戴物』こそ赤十字が求めるものだった。第一次大戦後のみじめな状況、戦争に疲弊したヨーロッパが困窮の最中にあること、それらはアメリカの気のいい一般読者の心を強く揺さぶった。人々からの寄付があればこそ、赤十字は仕事を進めることができるのだ…

    ローズは旧世界のヨーロッパと新世界のアメリカとの違いに目をみはった。ウィーンから母に書いた手紙では、ヨーロッパの人々は戦争後の貧しい暮らしにもかかわらず、「美というもの」を何より大事にしていると驚き、アメリカの若さをあらためて感じている。若さゆえの粗忽さ、幻想、過大な自信に対し、ヨーロッパには文化、知恵、冷めた目があるとも書いている。
     さてローズはローマを経由してモンテネグロに向かった。バーリから、アドリア海を渡り、ラグーザ(ドゥブロヴニク)へやってきたローズは、幼い頃に夢に見た記憶のとおりの海と城壁に囲まれた町が存在するのを見た。このときの驚きは、ローズに心霊体験を信じさせるきっかけの一つだった。“デ・ジャブ”と言わば言え

    1921年の春、ローズは二人のアメリカ女性とともに、北アルバニアの山岳地帯に乗りこんだ。目的は新しい学校を建てる場所探しで…雄大な自然、その地に住む人々の原始的なエキゾチックなライフスタイル、頑ななまでの独立心は、ローズに強い印象を与えた。三人のアメリカ女性のためにガードマンが付き添い、その一人が現地の少年レッジ・メータだった…彼は1915年、コソボで暮らしていた9歳の時に、両親をセルビア人に殺され孤児となり、大変な思いをしてアルバニアのスクタリ(シュコダル)まで逃げ、アメリカ十字軍の人々に助けられて英語を覚えたのだった。

    ある勇気ある行動でローズの「命を救った」レッジに、ローズは母親代わりになり、会うことはめったになくとも二人の関係は生涯続いた。彼は1923年にアルバニアで職業訓練校に通っていて、ローズと再会した。

    ローズはすっかりアルバニアの魅力に取りつかれていた…しかしイスラム世界におけるアメリカ女性はたいへん目立つ存在だった。政府の役人とたわむれていたローズも、数人から結婚を申し込まれて、はっと目が覚めた。イスラムの男は妻を複数持てるのだ…

    やがてローズは知り合いの写真家ペギー・リーと再会した。離婚したばかりのペギーは、ローズの次の旅の道連れになった。
    八月にコンスタンティノープルへ船で行き、ついにアルメニアにやってきた。そして、新たにできたソビエト連邦の各地を旅して回った。しばしば危険で野蛮な場所を通り抜けた。ある時は鉄道貨車に乗って移動した。共産主義が実際に動いているのをその目で見たローズだったが、マルクス主義に少しかぶれていた昔の彼女は、開拓者の祖先のゆるぎない個人主義にとってかわった。

    1月にアテネでイギリス人冒険家マクドナルドと会ったローズは、9月にカイロで待ち合わせてから、あこがれのバグダッドに行くことにした。カイロでペギーと別れると、子どものころからなじんでいる聖書や十字軍の物語の舞台へと向かった…砂漠を越えてバグダッドへ行く道を知っているというホルト少佐とともに9月の末、一行は自動車2台で出発した…砂漠の熱気、水やガソリンの不足、さらに道に迷ってしまった。運よく出会った砂漠の民に助けられ水をもらった…このスリルに満ちた旅が終ったとき、ローズはついに帰国の日が近づいたことを知った。異国の地へのあこがれが、ふるさとへのホームシックにとってかわった。
    レバノンのベイルートから、フランスへ向けて船に乗った。パリに戻ったローズは1923年11月、ニューヨークに向けて船出した。まもなく37歳だった。…やがて汽車でミズーリ州に帰っていった。母ローラと父アルマンゾが温かく迎えてくれた。

    第6章 ロッキーリッジ、そして再びアルバニアへのあこがれ
    両親の家の二階の自分の部屋に落ち着いたローズは4年間の旅で面白い話珍しい話をたくさん仕込んできたけれども故郷には評価してくれる人はほとんどいなかった。アルバニアでかかったマラリアの症状と、以前から歯槽膿漏がローズを悩ませた。そのうえ、お金がまったく底をつき、借金もあった。旅の最後を乗り切る資金を借りたからだった。
    1924年、ふたたびアメリカの雑誌社とのつながりを得た「金稼ぎなら『カントリー・ジェントルマン』に限るわ」農村の生活に焦点を当てる記事を書くなら、今の環境はぴったりだった。
    『田舎にある場所』両親が住む農場で暮らすほうが、シティライフよりずっとすばらしいと若い娘が気づくというフィクションであり、もちろんローズの本心ではなかった。

    恋人のガイ・モストンに手紙でこぼしている。母親の思いとはうらはらに、農場で働いたあとでは疲れて書けないし、母親に農作業を全部やらせるわけにもいかない…
    電燈がない時代のこと

    エージェントのカール・ブラント事務所を通して、広範囲にわたるさまざまな雑誌に原稿を書いた。

    定期的に文通していたガイ・モストンにずっと遠距離恋愛の思いを抱いていたローズにとって、1924年の春、彼がロッキーリッジにやってきてしばらく滞在したのは、すばらしい気晴らしとなった。ローズの両親も、ジャーナリスト&脚本家の彼をたいそう気に入った。ガイはローズとの結婚を望んでいたが、ローズは、彼を愛してはいたがむしろ自由を選びたいと思っていた。

    1925年、ローズはヘレン・ボイルストンに農場へ来るように熱心に誘った。通称「トラブ」は楽しい人なので、ローズと独断的な母ローラとの間にときおり起こる冷たい対立状態を緩和してくいれるだろうという期待があった。ささやかながら遺産を得ていたトラブは、看護婦の仕事を休み、オウザークの丘で大好きな趣味である乗馬を大いに楽しむことができた。ローズはタイプライターで書き物をしていた。そしてトラブにものを書くように強くすすめた。トラブは看護婦として働いた大戦中の体験を『シアター』1927刊という本に綴った。ローズが彼女の戦争中の日記を見て「トラブ、これをすぐアトランティック・マンスリー誌に売り込むわ」と言ったのがきっかけだった。

    ローズの収入の大部分は、家の改修と株の投資につぎ込まれていた。
    1926年、株の投資がうまくいき、ロッキーリッジでなすべきことが終わり、執筆の契約がまとまった。とらぶとともに農場を離れることにした。まずはパリで外国語を学び、アルバニアにわたり、首都ティラナに本拠地を持ちたいと考えていた。ガイ・モイストンとはフランスで再会の約束ができた。ロッキーリッジを離れるとき、帰国の予定はまったくなかった。


    パリに着いた二人は、ベルリッツでいくつかの外国語を必死に勉強した。フランスから自動車でイタリアを通ってアルバニアに入る予定だったので、イタリア語は必須だった。ガイは破約してやってこないことになった。パリで買った新しいフォード車は“ゼノビア”と名付けられ、アルバニアまで道中のどこでも大変なセンセーションを巻き起こした。運転しているのが「女だけ」であることに度肝を抜かれたからだった。

    イタリアのバーリで車と二人は船に乗り込みアドリア海を渡ってアルバニアにやってきた。
    ティラナでは家を借り、複数の使用人が雇われた。生活費は安かったが、家具やぜいたく品など、ローズの物欲はつのり費用がかさんだ。1922年に会ったとき血気盛んな二十代だったアーメッド・ゾーグに再会した。彼はまもなく国王となるところで、アルバニアという原始的な国を二十世紀の水準に引き上げようというローズの考えにたいそう興味を持った。…しかしイタリアのムッソリーニが食指をのばしてきていたのだった。

    カントリー・ジェントルマン誌がオウザークを舞台にした連載物を依頼してきたので『シンディ』という作品を書いた。自分では安っぽいくだらないと考えていたが、報酬はすばらしく、1万ドルも手にした。現金はしばしタイプライターから離れていられる自由をもたらした。

    アルバニアにいた間、レッジ・メータとずっと連絡を取りあっていた。彼は英語を学び、大きな進歩を遂げた。やがてレッジは英国のケンブリッジ大学で学ぶことになった、もちろんローズの援助で。

    やがて、母ローラの要請か、よくわからないが、アメリカへの帰国が決まった。ミズーリに帰る前にニューヨークにしばらく滞在し、ガイ・モイストンにも会ったが、けっきょく二人はややこしい関係を清算することにした。やがてガイは若い女性と結婚した。

    第7章 開拓時代の物語
    1928年の初春、ローズはロッキーリッジに帰ってきた。六月、トラブが預けていた愛犬とともにやってきて、一緒に暮らし始めると、家が手狭に感じられた。『シンディ』で懐が豊かになったローズは、思い切って両親のために家を建てる計画に移った。

    ロッキーリッジから渓谷を越えた小高い丘の上に、年老いた両親のために新しい家が建てられた。シアズ・ローバック社の英国風コテージの設計図が気に入ったローズは…建築家に依頼しいろいろな好みを聞いてもらった。
     その小さなロックハウス(石造り)は予算を大きく上回った。ローズは投資用口座から資金を引き出し、最後には母ローラから借金までした。住宅ローンがその頃なかったらしいしかし出来上がった家はロッキーリッジの森の端に立ち美しい宝石のようだった。クリスマスに母ローラに鍵が渡された。

    1929年のはじめ、ワイルダー夫妻は新しい家に落ち着いた。ローズとトラブはロッキーリッジの家に住み、家賃として母ローラに月60ドルを支払った。二人は自分たちの好みに合わせて家の改築にとりかかった。アルバニアの冒険は遠い思い出で、今はいかにロッキーリッジで幸せに暮らし、執筆によってぜいたくなライフスタイルを保っていくか、が課題だった。

    多くの作家仲間、友人が訪れた。

    1930年11月には、ドロシー・トンプソンに頼まれてコネティカット州ウェストポートに行き、三か月、生まれたばかりの赤ん坊マイケルのベビーシッターをした。実はそのとき、ドロシーと二度目の夫レッドすなわちシンクレア・ルイスは、ヨーロッパにいた。シンクレア・ルイスがノーベル文学賞を受賞し、妻とともに授賞式に出るためだった。

    1929年の世界恐慌で、ローズとトラブは投資していた株の大暴落を知り、大きなショックを受けた。だが経済的余波を受けてローズの原稿料が25%下がったものの、書くものを発表する場は影響を受けなかった。大きな雑誌はすべて、ローズの書くものを余裕のある限り掲載した。周りを見れば苦しんでいる人がたくさんいた。「保護を受けている人々は、小さな家でみじめに暮らしている。マットレスやシーツや毛布をもらっても、それをのせるベッド枠がない。保護を受けている人たちは一週間に16時間しか働けず、1時間にたった20セントしか貰えない」

    国じゅうが大恐慌の波にのまれて苦しんでいるとき、ローズはたびたび1893年の恐慌時を思い出した。野原でベリーを摘んで十セントで売った…「今では、どこかの子どもが、売るためにベリーを三四時間も摘むと考えるだけでだれもがぞっとする」

    恐慌の最大の悲劇は、景気の停滞ではなく、政府の大々的な「貧民救済」だと、ローズは考えていた。福祉政策によって、弱者はますます弱者になると思っていた…「1893年の恐慌時代、わたしは栄養失調の子どもだった。何千人もの人が飢えに苦しんでいた。しかし人々は政府の援助なしに苦境を生き抜いたのだ…自ら自分を助ける努力をしない者を援助するのは、むしろ無駄なことだ」とローズは述べるのだった。

    恐慌に対するローズの対応のひとつは、母性本能を発揮することだった。1933年9月、14歳の少年ジョン・ターナーが裏口にあらわれ、何か食べさせてほしいと訴えた。前に濡れ、ぼろぼろの服をまとったジョンは…自分の生い立ちについてあることないことしゃべったが、実のところ、隣りの郡に住んでいた孤児だった。保護者の叔父はローズがジョンを引き取ると申し出ると、地獄に仏とそれをよろこび、やがて兄アルも引き取られることになった。アルは気立てのいい少年だったが、ジョンはうそつきで、気分屋で、ときにはひどく荒っぽいこともしたが「どういうわけか、この少年が気に入ってしまった」…ふたりは家事を手伝い、牛の乳を搾り、役に立つことをしなさいと、いつも言われていた。/夕食の後で、新しくできた家族にローズは、こわい話、旅の話、幽霊話、思い出話など豊富な話題で団欒した。
     両親に援助をし、二人を高校にやり、農場の使用人に支払いをする、すべての費用をローズは文筆で稼いでいた…
    恐慌の苦難を少しでも解消したいと思い、ローズは自身の言葉では「ニューディル政策に対する、一人の女の文学的戦い」の本を書いた。両親が結婚してまもない頃の苦難の日々を題材に…猛吹雪、旱魃、夫の留守、不作など、しかし二人はやがてそれらを克服し…
    はじめタイトルをごくシンプルに『勇気』とする予定だった、しかし原稿を送る前にロッキーリッジの居間で両親と話をしていて…母がこういったのだった「とにかく、嵐よ、吠えろ、だわ」…ローラははっと思いついた。古い讃美歌『嵐よ、吠えろ!』は物語のテーマであり、それをタイトルにした“Let the Hurricane Roar”邦題『大草原物語』

    大草原物語

    大草原物語
    著者: 谷口 由美子/Lane Rose Wilder
    出版社:世界文化社

    発行年:1989


    この原稿がポスト誌に連載されると、ローズはたちまち「時の人」となった。物語は1933年に単行本となり’34年までベストセラーとなった。
    「単なる素朴な開拓物語」ではないと、その意図を理解しない書評者には、抗議までした。
    ’32年から書いていたフィクションの多くは、ダコタで暮らした子ども時代の思い出や、両親の話などがもとになっていた…
    1930年代のはじめ頃、ローズは母ローラを、作家としてデビューさせる手助けをした。…何年もの間、ローラは地元農業紙にコラムをもって記事を書き、セントルイスの農業紙にも家禽についてなど記事を書くことがあった。ローズの頼みに母もファミリーの物語はたくさんあるので、それを保存しておきたいと言い、よろこんで書いてみることにした。
    鉛筆で自伝的物語『パイオニア・ガール』を書いた。開拓の少女時代から結婚までを語っている。ローズはその原稿に手を入れ、きれいにタイプし、可能性を探ったが、興味を示す出版社はなかった。
    1932年、その本とは別に、昔父さんが話してくれた物語を子供向けのお話として書いた。
    ローズはそれを「おばあちゃんが子どもだった頃」と題した21ページの童話としてまとめた。
    ローズは、昔の仲間であるバータとエルマー・ヘイダーに相談してみようと思った。…ふたりは『おばあちゃんが…』をクノップ社の編集者に見せた。ちょうど開拓時代の物語をほしがっていた編集者は、ローラがそれに手を入れて、8~12歳ぐらいお子ども向けに分量を増やせば、出版したいと考えたが、恐慌時代のこと、児童書部門は廃止されてしまっていた。しかし、編集者が書き直された原稿をハーパー&ブラザース社に渡してくれたおかげでローラの『大きな森の小さな家』は日の目を見ることになって1932年春に出版された。

    「どんな不況もとめられない」奇跡の本といわれ、
    65歳のローラ・インガルス・ワイルダーは児童文学の地平線から輝かしく顔を出した新人作家となった。
    彼女と46歳の熟練したプロ作家ローズ・ワイルダー・レインが暮らすロッキーリッジは突如として、次々と文学を生み出す場と化した。母ローラ宛てにどっと手紙が舞い込んだ。どれも『小さな家』の続きを早く書いてほしいというお願いだった。同じ要望が出版社からも寄せられ、母ローラは二冊目を書く…『農場の少年』はローラの夫アルマンゾがニューヨーク州で過ごした少年時代の物語である。

    農場の少年

    農場の少年
    著者: 恩地 三保子/ローラ・インガルス・ワイルダー/ガース・ウイリアムズ
    出版社:福音館書店

    発行年:1978

    母ローラは、原稿を罫の入ったはぎ取り式のノートに鉛筆で書いた。それを受け取ったローズは、原稿に手を入れ、タイプした。ローズは持ち前のすぐれた編集者の役割を果たした…名誉とともに、母ローラにも印税が入るようになった。

    1935年

    大草原の小さな家

    大草原の小さな家
    著者: ローラ・インガルス・ワイルダー
    出版社:福音館書店

    発行年:2002


    1937年

    プラム・クリークの土手で

    プラム・クリークの土手で
    著者: 恩地 三保子/ローラ・インガルス・ワイルダー/ガース・ウィリアムス
    出版社:福音館書店

    発行年:1978


    1939年

    シルバー・レイクの岸辺で

    シルバー・レイクの岸辺で
    著者: ローラ・インガルス・ワイルダー
    出版社:福音館書店

    発行年:1973


    ローズにはやがて古典となった母ローラの本が「単なる素朴な開拓物語」ではないとわかっていた。

    事実を全部ありのままに記さなくても、真実を伝える事柄だけを選んで“西に向かう”物語にすればよいとアドバイスした手紙が残っている。

    1930年代に、ローズは少女時代の思い出を基にした『小さな町』連作の短編集を出し、またゴーストライターとして伝記を多く手掛けたらしいが詳細は不明。

    サタデイ・イブニング・ポスト誌の1936年3月7日号に『クリードウ(信念)』と題する一文、
    「1919年、わたしは共産主義者だった…」にはじまり、アメリカの価値観を信奉する個人主義者に変化していった過程を述べて、大変な反響があった。ポスト誌に舞い込む記事の2/3はローズの記事への礼賛だったし、ローズ自身も三千通の手紙をもらった…

    母の体験をベースにした『大草原物語』に対し、父の生い立ちをベースにした『自由の土地』は、商業的には前作以上の成功をもたらした。

    印税で借金と所得税を払うと、1938年、友人の新婚所帯があったニューヨークのスラム街が気に入って、隣りに引っ越した。ひと月12ドルの湯の出ない(入浴できない)アパートだったがそこがすっかり気に入って、わずかな費用で快適に改造した。

    第8章 「信念の勇士」
    両親は結局、ロッキーリッジのほうが気に入ったので、ローズは自分のための家をコネティカット州団ベリー郊外に購入した。…1.2ヘクタールの土地の小高い丘に建っている、6.9×7.2メートル…

    『ウーマンズ・デイ』という婦人雑誌に執筆を依頼され、書いたものがしべて採用されるという条件で1記事50ドルで引き受けた。それまでのレート1500ドルだった。その年に書いたタイトルは
    『子どもの結婚に手を貸すべきか?』『父親は最高の母親であり、母親は最高の父親』『思い切ってインテリアを変えよう』『息子を大学へはやるな』

    ヨーロッパの戦雲は急を告げていた。かつて親しかったアルバニアのアーメット・ゾーグ王はイギリスに見捨てられイタリアの侵攻に、とうてい勝ち目のない戦いを挑むしかなかった…

    ローズは望めば、上品なパリのレストランでもてなしを受けることも、アルバニア王と語ることも、大統領にあいさつすることも、ニューヨークの文壇に顔を出すこともできたはずだったが、コネティカットの田舎暮らしの手作りの生活が気に入っていたようだ。

    山のような蔵書を収める壁一面の本棚をこしらえ、…一時は数人の使用人がいたが、今や家事はすべて一人でこなしていた…
    ローズは自分の知っている言論界に悩ましい変化を見ていた…共産主義礼賛だった…『自由の土地』がでてまもなく、ローズは文学仲間にこう言われたことがある、共産主義の傾向のものを書けばもっと収入が増えたはずなのに、と。ローズのような反共主義者、個人主義者は…スタインベック『怒りの葡萄』を読んだとき強い危機感を覚えた「なんともいやらしい共産主義の宣伝…」
    1940年…大統領選挙の年、共和党の候補者トーマス・デューイのゴーストライターを頼まれたローズは激しく反発した。もちろんFDRも嫌いだし両候補が気に入らないというのはよくある窮地ですなあ「ニューヨークに行きフーバー(元大統領)に、…アメリカ人をだますようなことはしたくない、と言った」

    左翼的なニューディール政策に疑問を持っていたが、1940年に、戦争初期になってからはそれがまずます強化されたと思うようになった。限りない(ガソリンなどの)統制、配給、戦時中の制限など、それらが軽蔑していた所得税と重なり

    真の個人主義…それはローズの信念でもあって、アダムとイブの時代にさかのぼり、人間の自由の歴史をたどった大著『自由の発見』を1943年、出版した。
    戦時中に統制に反対する書が出版されたのは驚くべきだったが、かつてのベストセラー作家としては販売促進の努力もない反響もない扱いで、結局、千部ほどしか売れなかったため、ローズは前金を出版社に返却した。

    1940年、母ローラの

    長い冬

    長い冬
    著者: Wilder Laura Ingalls/谷口 由美子/ローラ・インガルス・ワイルダー
    出版社:岩波書店

    発行年:2000



    1941年『大草原の小さな家』
    独立記念日にローラは「アメリカでは自分自身が王なのだ」と実感する。
    14歳で(ほんとうは年齢未満だが)教員免許を得る。この巻が一番好きだ
    その稼ぎもあって、失明した姉、メアリーは盲人大学へ行くことになった。

    大草原の小さな町

    大草原の小さな町
    著者: ローラ・インガルス ワイルダー
    出版社:岩波書店

    発行年:2003


    1943年には
    『この輝かしい日々』

    この輝かしい日々

    この輝かしい日々
    著者: 渡辺 南都子/ローラ=インガルス=ワイルダー/かみや しん/こだま ともこ
    出版社:講談社

    発行年:1987


    結婚の際、「誓いに“所有する”という言葉を入れてほしくないの」とローラは言う。
    十二年前から書いてきた物語のハッピーエンドを飾るものであった。

    1943年、ローラはラジオの番組で社会保障制度を称賛しているのを聞いて、それがドイツがナチズムに落ちていったのと関りがあるという意見の投書をしたが、それがFBIの破壊活動分子の調査対象になるという奇妙な事件が起きた。
    たんにLANEがLANGという調査対象の人物と間違って読まれたという事故だが、検閲制度について危惧をかきたてた。

    1944年、ローズは「農場で自給自足して配給カードを受け取らず、売文をしないので所得ゼロで所得税を払わない(社会保障費も払わない)」生活を送る、と宣言した。
    たちまちメディアの反応を呼び起こした。
    日本であれば「非国民」と言われたかもしれないが、アメリカには納税を拒否して森中の生活を送り、尊敬されたソローなどの伝統がある。

    国民経済審議会の“レビューオブブックス”誌の編集長を務め、経済分野での新著にことごとく目を通し批評することで一月50ドル、したがって税金はたったの28ドルであった。

    「海のむこうのことになぜ生死をかけるのか」という思想は「反戦主義」といえるかも知れない。

    第9章 ダンベリーの小さな家:1950〜60
    住んでいるダンベリーの小さなン町で0.6%の増税に反対する住民投票の中心者となった。

    父アルマンゾは1949年に92歳で亡くなり、64年も連れ添った夫が亡くなってからはローラはひとりでロッキーリッジで暮らしていた。
    87歳の時、母ローラははじめて飛行機に乗った。ローズがマンスフィールドに来てダンベリーに帰るとき、ついていったのである。ローズの美しい家や菜園を見て楽しい日々を送ったが、長居はしなかった。

    (中略)

    90歳の誕生日が来た。母ローラは発作を起こした。金曜日、土曜日、日曜日…の夜遅く、最期の息を引き取った。1957年2月10日のことだった。

    第10章 忙しい女性
    80歳を迎えようとしていた1960年代、ローズは再び作家として活動しはじめた。執筆への動機は、『自由の発見』を書き直したい、何かで後世に名を残せるとしたら、『自由の発見』によって残りたい、ということだった。
    1930年代に執筆を勧めたアイリーン・タンが編集長となっていて、友情から再び、『ウーマンズ・デイ』誌に執筆の機会を与えてくれた。
    1961年、『アメリカ手芸物語』というシリーズを立ち上げて、お得意の歴史観を交えて、すぐれた手芸の技法を紹介し、アメリカ主義を語った。
    20年近く、新著を出していないローズであったが、左翼的な、すぐ絶版にしてしまう出版社には任せたくないと


    (本のまえがき)アメリカ手芸がまず第一に教えてくれること、それはアメリカが階級のない唯一の社会で生きてきたという事実です。アメリカは、いわゆる農民手芸が存在しない唯一の国です。世界のほかの国では、農村女性は、下級な身分とつつましい生活に合った、粗削りの、素朴で、はでな模様の手芸をしてきました。一方、貴族の女性は、高貴な生まれと育ちにふさわしい、豪華で形式の整ったデザインの手芸をしてきたのです。けれどもアメリカ手芸はどちらでもないのです…

    母ローラの新婚時代を描いた『はじめの三年間と恵みの年』そして『旅日記』が発見された。出版社はたいそう興奮した…
    ひとり娘、ローズの存在もクローズアップされた。

    第11章 ヴェトナム、テキサス、そして最後の旅立ち
    1965年のアメリカは幻滅の世だとローズは思った。アメリカ国内にかつてなかったほど共産主義の影響がひろがっていた。そして第三世界の共産主義者が唱える「自由を求める闘争」を脅威だと思い始めた。
    「市民権の侵害」について彼女は書く。
    「…このマーティン・ルーサー・キングという男に州のハイウェイを80キロも占拠させて、4,5日それを使用した場合の料金36万ドルを払わせる、そんなことが可能なんですか!」

    『ウーマンズ・デイ』誌アイリーン・タン編集長は読者の要望に応えて1965年、ベトナム戦争取材をローズに依頼した。何と言っても海外取材経験で危険には慣れているし、挑戦を恐れるような人物ではないからだった。

    国防省から「なにかあったら、説明がつかない」などと電話で熱い議論があったが、

    ジョンソンと民主党を嫌う彼女だったが…

    サイゴンを拠点にし、アメリカ人や現地人に話を聞き、6週間滞在したとき78歳。

    帰ってから『ウーマンズ・デイ』誌に記事を書き、

    ローズの目は、ヴェトナムの戦況よりも、現地の人々の暮らしや女性(の地位)に向けられていた。

    記事に一貫して通っているのは、ローズの自由主義の信念であった。

    ダンベリーのニュースタイムズ紙記者に

    べトナムで共産主義がどのように広がっているか、一方、自分が目にした共産主義の崩壊の例などを話し、
    「共産主義の脅威を語る作家」とだいする記事になった。

    感謝祭(11月23日)には、サイゴンで出会ったヴェトナムの少女たちを招待してもてなした。そのうちの一人、ファンと呼ばれる少女は、ローズの弟子のような存在になった。ローズはファンがヴェトナムからアメリカに来て、サザン・イリノイ大学へ通う費用を援助した。

    テキサスの暖かさが気に入り、家屋を購入していてベトナムから帰国後、引っ越した。

    1967年2月7日は母ローラの生誕百年で、ローズの生まれたデ・スメットでは記念して一週間のお祝いをやり、基金を募ってインガルス一家が住んでいた家を修復しようと企てていた…

    1968年、81歳で最後に世界旅行を企てていたが果たせなかった。10月7日。

    ローズの著作のうち、もっとも有名なものは『大草原物語』である。「小さな家」シリーズのように、ローズの小説は、望む暮らしを得るためには、己の知恵と力以外の何ものに頼らない、素朴で勤勉な人々をたたえている。まさにそれが、ローズ・ワイルダー・レインの人生であった。

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