美術館・動物園・精神科施設 (水声文庫)

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  • 水声社
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  • Amazon.co.jp ・本 (268ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784891767594

作品紹介・あらすじ

「根源的な破壊と死、そして苦しみ」にみちたこの世界にあって、アーティストのなし得ることは何か?美術館、動物園、精神科施設の内外において「見せ物」にする/されるという関係における「倫理」とは何か?エランベルジェと中井久夫の彼方へ向けて、今日の「美術」と「美術館」を考える。

感想・レビュー・書評

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  • 結局、近代の専門家は、「職業」なのであって、それは、必ずしも「外部」や「自己承認」への道を保証しないし、ややもすれば抑圧的な社会におけるスペクタクルの再生産に寄与している。

    これは勿論「芸術作品」においても同様。また「造形美」のようなものも、スペクタクルにすぎない。美なんてない。

    ※専門的能力を十分に発揮しつつ、何も目的にしいかに生きるかという生き方の姿勢

    「見ることをやめることで見る立場」こそが、総合能力を開花させ、刺激しようとする際に立つべき場所。

    芸術-他者との交感の活動



    このいたたまれない気持ちになるのは、美術作品が帝国の内部、市場に完全にとりこまれているからである

    作品が与える感動や美質とは別のところで売買が行われている、これは帝国の時代のアートの不幸

    本当の芸術は商品じゃないと言っていた作家が、商品として芸術作品を画廊で売り続けるという自己矛盾をどう考えていたのか

    少なくともじぶんの意志でそのシステムに入り込んだ以上、結果がどうであれ、システムの再生産に自分から関与している

    トライバル系のミュージアムに置かれる作品は本当の芸術、商品じゃないといったことは主張しない。はじめから、厳しい社会、歴史的状況に対して意義を申し立てているのであって、

    本当の芸術もひとつではなくさまざま

    自分から制度にかかわっていき、本当の芸術は売れるという考えを定着させようとする動き

    反資本主義の立場に立つ表現者たち

    医療活動の場合に、職業としての医師と技能的実践家としての治療師がいるように、芸術活動の場合にも

    動物園の檻のなかにいるめずらしい動物としてのアーティストは、観客にすべてを見られている

    飼育状態に馴れた動物の場合、逆に、公衆の存在することが不可欠の精神刺激剤となる

    動物園の世話係が口を揃えていうことには、動物の一部は嫉妬病にかかっている。隣の檻の動物よりもかわいがってもらえない、感嘆してもらえない
    →これ自分もあるなぁ、抑圧があるんだろう

    動物園はその施設を選んではいったのではなく、制度的尹「入れられる」結果、施設に存在するようになる

    世界他者へ自己を開いてゆく方法-芸術

    ★★シャマン-治療だけでなく、各々の人生において批判と再構築を同時に実践。自己承認の生き方をみにつけさせること。

    →(書)教育、あわ居、詩(の書)、歴史記述、執筆、講演、メディア機能などなど。全てこれのための「技法」なんだと気づく。「時間」と「空間」をつくるということになるのかな。

    ★あらゆる芸術は治療術

    見ることをやめることで見る立場に立ち、実践的に見ることを実行する-野蛮人-総合能力の実践者。現代社会にすむ未開人




    ★★すべての歴史は与えられた事実であります。既に事実である以上は人間の力でどうすることも出来ない。(略)しかしながら、唯一の真であるかというのが問題なのであります。言葉を改めて言うと、人類発展の痕跡はみんな一筋に伸びて来るものなのだろうかとの疑問であります。前に言ったようにな意味から帰納して、絵画の歴史は無数無限にある、西洋の絵画史はその一筋である、日本の風俗画の歴史も単にその一筋に過ぎない


    アーティストは、社会において何をするのか

    職業的利害を中心にした職業としてのアーティストの仕事以上に、人類学的な意味に於いての芸術活動によって社会的絆を贈与的に形成する技能的実践家としてのアーティストの仕事

    神話的解放運動

    ★芸術作品の質や水準をめぐってグローバススンタンダードの流れが多文化において働く、一方の基準だけが採用される時、排除、無視される作品が山積みになる

    わが国の近代芸術の歴史をみてゆくならば、いかに西洋の近代芸術の制度概念に適応するよう自らを変容させてきたかがわかる

    狂気に到らないために、カオスは無理やりにでも形態言葉にされる必要がある

    自らのアイデンティティが危機にさらされ、深層からつきあげと時代の振動を全身全霊で感知する

    カオスに向かい合い、

    その現実を生きながら記述する

    きわどい場所に立りながら、感じ、思考し、記述してゆくということ

    講演、展覧会もひとつの儀式

    自己と社会・時代の「地震計」であろうとした

    ★★芸術は世界・社会を批判すると同時に、世界から自らに贈与されている絶対的受動性を認め、そのなかを矛盾をかかえながらも前向きに生きてゆくための治療術を施す事。交感とは、このような批判と治療が同時に実践されること

    未開人は、やむをえず一人で狩猟化やクラフトマン、建築家、医師などをかねていたのだが、今日のわれわれは特定化した単一の職業のみ没頭し、かくされた諸能力を顧みないでいる

    →社会や、貨幣、職業に「生命」が、飼いならされているということ。「治療」も、決して職業的なところで、起きるわけではない

    人間の総合能力の開花

    ★★総合能力というのは、単に社会的な職業としての医師や建築家の仕事ができる、ということではなく、そのれらの専門的能力を発揮しつつ、環境自然他者と共生してゆくなから、何を目的とし、いかに生きるのかという生き方の姿勢の問題。世界と交感しながら生き抜くということなのであって、決してなんでも屋になることではない

    →表層の技法ではなく、深層の話。交感することを重視、また希求した結果、身についてしまった、また必要に迫られて身につけた「技法」の総体が、「総合能力」ということだろう。

    世界のただなかに投げられているという絶対的受動性の内部から、能動的想像力が湧き出て来る

    表現が批判と治療という二重の効果を持ちながら、生活の中で実践

    怒りと共に、「愛」がわかちがたく含まれている

    ----------------------
    いいコミュニケーション形態をつくりましょうは目標になるかもしれないけれど、アートはそういうものを目標にしないで、目標にしないけれども、そのコミュニケーションがないとアートが成立しない

    アートPは暴力性をもっている。参加することを強制するような圧力

    参加型アートの中心であるはずの作家が、それを自己の実績として規制の芸術の制度内での成功物語におきかえてゆこうとしている。新しい表現形式であったものが、短時間に、一つのカテゴリーに収められ、アカデミズム化、権威化してしまう方向へとすみやかに移行していっている
    →【参加】ではなく、「動員」になっているんだと思う。本来、参加というのは、その人がその人自身として、その作品制作の「運動」に巻き込まれつつ、それに連動して作品も立てあがるというような、プロセスを伴う者。一方、動員はそうではなくただ「部分」として搾取される。運動がそもそもないわけで、分かち合っているものがない。

    さらなるスペクタクルがひねりだされ、市場はそれを作家に要求し、要求を満たした作家はスターとなる。

    社会のスペクタクル化とは、コミュニケーション全体を物象化し、商品として無差別に消費すること、
    →この「物象化」というのは、「形式を受け取る」ことと言い換えてもいいかな。本来のコミュニケーションは、その形式により立ち上がる「運動」を受け取ること、それに同期することなのだが、スペクタクル化したものにおいては、形式としてのコミュニケーションを受動的に拝受しつつ、しかしそこで受け取っているのは、客体として固定化された、すなわち「物象化」したものにすぎないということ。

    暴力性は、資本、人材が増大すればするほど強化されるが、スペクタクル化し絶えず流動してゆく状況は、それをみごとに隠蔽もしてゆく。

    ★一つの目標が共有されるときい、アートプロジェクトは自己正当化の主張を全員に認めさせ、あたかも自発性がプロジェクトを先導しているかのような幻想をもたせ、この暴力性を隠蔽する。

    情熱、熱意、交流などという心情的な表象が流され、あたかもひとつの目標にむかってすべてが動いていたという美しい仮面の物語が語られる。

    すでに商品になった作品は芸術でないというのと同時に、いまだ商品にされていない新領域をつぎつ義と探し求め、無限の拡張が広げられる。市場、資本主義的経済と同じ

    アートPが市民参加を尊重するのは、誰もが芸術文化を享受でき、社会をより良く変革することができるという民主主義の理念に基づく。しかしファシズム政権が民主主義の手続きにより成立したように参加というが稲はともすると、ファシズムに近づく

    ファシズムは、大衆に彼ら自身を表現する機会を与えることが、自分の利益になると考えるが故に、パレード、集会、戦争などを大衆に与えることで、その心情を掌握する。

    隠蔽されたままの支配体制がそのまま現代のアートPにも見出される

    参加を促すアートpの問題点を指摘するならば、自己を認識したいという市民の欲求を利用して、市民にPno中で表現させる一方、P自体はアーティストや主催者の名の下に行われ、その成果を搾取する
    →これは「世界」があるかないかということが分かれ目かな。連帯の紐帯を「全体」としての「言語」から紡ぐ場合、おそらくそこには「動員」的な操作が加わる。socialなものを求める人々の欲求、自分を公的領域に接続したとする個人の欲求を、巧妙にずらした上で。おそらく搾取にならないそれは、「世界」が主体となっているはず。

    参加型、WSの成果や権利が主催者に帰属してしまう。参加し、表現した無名の若手作家や市民の権利が、アーティストと同じ資格で承認されたということは聞いたことがない。参加者の名がカタログに表記されることもほとんどない

    アートPha,中央依存で、アカデミズム化している。むしろ商業的プロジェクトに移行している。ひとつの市場となり、スタートブランドを生み出す市場システムの歯車のひとつになっている。市場原理を取り入れ

    文化を武器にした人体実験、アートツーリズム、WS,まちづくりも、暴力の問題として議論できる

    編集され、美化されたアートPという物語が、商品として流通し、新たな権威的アカデミズムの資本へと変換、改修されてゆくだけ。最初の頃の、協働の開かれた世界は消滅し、既存の芸術制度、ヒエラルキー、市場に取り込まれ、成功物語のひとつを形成して終わる
    →【形式】になるということ。その「形式」を消費するスペクタクル化

    そもそもアートPは、印刷物ではなく、制作現場での相互体験、協働での過程の共有と、社会化が目的であった。しかしいつしか芸術界での評価が優先されるようになった

    西洋精神医学を、医師中心主義ではなく、患者との相互関係として捉える立場で考えた(エランベルジェ)
    →臨床の中での「生成」から、方法論を模索した共同か知的運動の重視

    エランベルジェの研究方法は、芸術で言えば、作品の解釈ではなく、アーティストと受容者、その他の芸術関係者の関係とその広がりの中で作品とその需要過程をみてゆこうとする方法

    職業としての医師と技能的実践家としての治療者がいる

    アーティスト=檻の中の動物
    キュレーター→トレーナー

  • 記録

  • 社会
    歴史
    ノンフィクション

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著者プロフィール

1948年福岡県生まれ。1981年ドイツ国立デュッセルドルフ美術大学卒業。国立デッセルドルフ美術大学卒業後、美術作家として活動。群馬を足場に活動するNPO法人「場所、群馬」代表。現在前橋文化服装専門学校講師、群馬県立女子大非常勤。展示空間として「前橋文化研究所」を運営。地域通貨maasー前橋作家協会を設立。著作に『日本のダダ1920ー1970』1988年水声社、『美術、市場、地域通貨をめぐって』2000年水声社、『美術、マイノリテー、実践』2005年水声社などがある。

「1995年 『SHIRAKAWA 白川昌生作品集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

白川昌生の作品

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