児童文学の大人たち: 物語の中の名脇役 (森の小道シリーズ)

著者 :
  • 文渓堂
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  • Amazon.co.jp ・本 (191ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784894230576

感想・レビュー・書評

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  • 1995年の本です。
    だから大人像も当時のものまで。
    これから現在までに大人像もかなり変化しているように思います。
    なんというか、闇が深くなってる感がある。
    この時代でも受験戦争など、お受験ママ的な、そして家庭放棄パパ的な、そして自己中教師みたいな存在は児童文学でもかなりいましたけど…。
    この時代の生き生きと描かれている大人は、どちらかというと自身に子どもの部分を残しているような、そんな大人が多いような気がしますね。だからこそ子どもに寄り添えるような。
    今となっては、子ども過ぎて、本当の子どもを振り回し傷つける大人の方がよく見る存在になってしまったような気もする。
    どこまでを児童文学に組み込むのかという話もあるかもしれませんけど。

  • 私もいつの頃からか子どもが主人公の作品(小説でもマンガでも映画でも)で、主人公ではなく周囲の大人の立場で感じたり考えることが多くなった。
    本当は主人公の立場に立ちたいところであるのだけれど、どうしても親や教師や、ときには祖父母の立場で。

    民話やおとぎ話などではなく、最初から子供を対象にした児童文学が出始めてからまだ200年ほど。
    最初は、登場人物の周囲の大人と言うのは、個別のキャラクターではなく物語を動かしていくためのシンボリックな役割としての存在だった。
    働き者のお父さん、子ども思いのお母さん、怖い先生、など。

    それが、存在としての大人から、時代が理想とする大人(良妻賢母であったり教育勅語的教師であったり)になり、時代を象徴する大人(働くお母さんであったり、昔を知る存在であるところの老人であったり)になり、等身大の大人が登場するようになる。
    老人が主人公の児童文学すらあるくらいだ。

    “子どもは子どもだけで暮らしているわけではなく、大人と一緒に生活しているから”

    子どもの世界が多様化しているのだから、大人の世界だって多様化していい。
    「こうあらねばならない」から「こうであってもいい」児童文学の世界。
    自分の子どもが大きくなってからは以前ほど読んでいないけれど、私の読書の根幹は「面白いお話が読みたい」なので、児童文学はこれからも読んでいくだろう。
    そのときに大人の世界が広がっているのなら、こんなに嬉しいことはない。

    私としては口が悪くて、頑固で、おせっかいなばーちゃんが理想なので、そんな年寄りが活躍する作品を読みたいなー。

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